・・・ということで、答え合わせのために、今回は「駒込⇒日暮里⇒水戸⇒郡山⇒会津若松」の鈍行列車乗り継ぎによる「車窓風景鑑賞ツアー」に出かけてきた。短時間で荷物のごとく目的地へと運ばれるだけの新幹線での移動では目視確認不可能な「窓の外を移り変わる季節の色合い」をこの目で味わうためのノロノロ旅行である。
・・・前回訪れた「福島市」・「飯坂温泉郷」そして「郡山駅前」は、福島県の<中通り>と呼ばれる中央部、今回はその西側、磐梯山(ばんだいさん)と猪苗代湖(いなわしろこ)と会津若松城(通称鶴ヶ城)を擁する<会津>地方への旅、一口に「福島県」と言っても、山々で隔てられた三つの地域ごとにけっこう異なるという風土・産業・人柄の違い、一泊二日の週末旅行で感じた範囲で、書き記しておくことにしよう。
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「1)会津磐梯山(宝の山らしい)」
「2)猪苗代湖(だだっ広いらしい)」
「3)会津若松城(通称は鶴ヶ城、満開の桜が見事らしい)」
そして
「4)会津の清酒(良い水に恵まれて造り酒屋が多いらしい)」
■1)JR山手線(やまのてせん:上野・東京方面)<駒込⇒日暮里>[1番線]06:41発/06:46着・・・乗換余裕20分
■2)JR常磐線(じょうばんせん:水戸行)<日暮里⇒水戸>[4番線]07:06発/09:01着・・・乗換余裕22分
(運賃=2310円)
■3)JR水郡線(すいぐんせん:郡山行)<水戸⇒郡山>[1番線]09:23発/12:55着・・・乗換余裕20分
(運賃=2640円)
■4)JR磐越西線(ばんえつさいせん:会津若松行)<郡山⇒会津若松>[1番線]13:15発/14:31着
(運賃=1170円)
・・・運賃総額は6120円、移動に要する時間は7時間50分 ― 半日がかりの旅である。新幹線での移動より5時間以上も長い時間がかかるが、単なる「目的地への移動」ではなく「車窓から眺める風景をじっくり味わうための旅行」に「時短」を求める意味はない。3度の乗り換えの際にはいずれも20分以上の余裕があるので、よほどのことがないかぎり乗り継ぎに失敗して旅が途中で頓挫する恐れもないだろう。
・・・ということで、ちょっと茶目っ気を出して、「乗換駅ごとに下車して、改札を出て、駅舎の様子を外から眺めて、次の乗換駅まで切符を買い足す」というご苦労様な趣向を加えるべく、一番最初の山手線の「駒込」から「日暮里」まで移動した直後に改札口を出て、券売機の上に掲載された路線図で次なる目的地の「水戸」までの常磐線の運賃を確認してみたところ・・・ない!・・・隅々隈なく探してみても、常磐線の中では最も大きな駅であるはずの「水戸」の文字がどこにも見つからない・・・仕方がないので改札脇の駅員さんに尋ねたところ、「切符は****円までしか買えないので、差額は水戸駅で清算してください」とのこと・・・だが、そういう事実は券売機上のマップに明示しておくのが当然の作法であろうに・・・
・・・鉄道会社の人間だの鉄道マニアだのの間では「切符売り場じゃ遠くまでの切符は買えない」というのは「常識」なのだろうが、自分達の狭い輪の中の「常識」を、鉄道利用者全員にとっての「周知の事実」と誤認してもらっては困る。「滅多に出ない遠距離切符まで用意しておいたのでは、紙代や印刷費のムダなので、よく出る近距離の切符しか用意していない」というのは「広域をカバーするJRという鉄道会社の経費削減による経営努力の一環」として理解できるが、そうした形で「遠距離切符は買えない」という状況を自分達の手で作り出している以上、事情を知らない顧客に対しては「この券売機では遠距離切符は買えません(ので、最低料金の切符をとりあえず買っておいて、後で差額を清算してください)」という説明をせずにおくのは不届き千万、ましてや、そうした片手落ちの自分達の対応を姑息な形で正当化するかのごとく「<近距離>切符売場」みたいな文言をマップ上に配置しておいて「だから言ってるでしょうが! これは<遠距離>には対応しない券売機だって!」みたいな屁理屈振りかざして「わかってない客ども」を鼻でせせら笑うがごとき態度に出るなんざ「客商売」としては死刑宣告を下されて当然の非道の振る舞いであろう ― 「100kmを越える遠距離切符は買えませんので、下車時に差額精算してください」の注意書きひとつで「マトモな振る舞い」になるのだから、ちゃんとそうすればよいだけの話なのに、その但し書きを料金マップの片隅に配置する手間暇を惜しんで「<近距離>切符売り場」とだけ記載して澄まし顔、などという度し難い振る舞いを、JRは「説明文言省略による経営努力の一環」とでも勘違いしているのだろうか? ― 「100kmまでは<近距離>、101kmからは<遠距離>」という「JRの内部規定」を、一般乗客が「当然認識しておくべき<常識>」と言い張るつもりなのだろうか?・・・このあたりの「外界」と「内輪」との正常な対応が、どうにもこうにもどうしようもないほど低水準でズレまくっていてまるで成立していないのが、日本人(の集団)というものの困った特性なのである(という事実を、各「内輪」の成員たちはまるで自覚していないのが、実に困った点なのだ)
・・・個々人としてはこの上なく礼儀正しい日本人が、集団・組織と化した途端、このように木で鼻をくくったような態度を平然と押し通して何とも思わないという一見不思議な現象は、「浅慮」とか「鈍感」とか「横暴」とかいった単純な否定的形容に収まり切るような代物ではない・・・病根はそれよりはるかに深いのだ ― 「どんな理不尽に対しても一切文句を言わせない(=文句を付けるヤツには<反抗的(さらには反社会的)人格の持ち主>としての烙印を押す)<監獄のごとき学校生活>」の悪しき副産物なのだから ― 「文句を言わない/言わせない教育環境」から社会に出た「聞き分けのよい優等生」だけが就職できるJRという組織の中で、「上が定めた明らかに不備のある対顧客用インタフェース」に対して「これは、この点がおかしいので、このように改めるべきだ」という論理的&倫理的に当然の内部批判が存在しなかったからこそ、「料金表にない遠距離区間は降車時に清算願います」という顧客に対する良識的説明を欠く「木で鼻をくくるような券売機&マップ」が世に垂れ流された、というこの構図・・・そうした「当然の内部批判を封印するところから生じる、外界との正常な対応の喪失」の大元となるのが「どんな理不尽にも文句を言わずにひたすら耐えるヒツジのように従順な卒業生を輩出するガッコ」である、という現実を、いったい何人の日本人が認識していることだろう?・・・その「ガッコという名の監獄」の<看守たち(=学校教師の面々)>の側は、(自分であれ生徒であれ)ちょっとでも何か不祥事をしでかそうものなら「社会(特に、メディア)」から袋叩きの目にあわされる恐怖に萎縮しまくっているから、<囚人たち(=学校の管理下にある生徒の面々)>をがんじがらめのルール(=その多くは理不尽な代物)で束縛することに血道を上げる・・・そうして束縛される<囚人たち>の側は、「生徒の自分がいくら抗議したところで、このダメなガッコが良くなるわけじゃない・・・どうせ数年でおさらばするだけの<監獄>なら、とりあえず<出獄>するまではおとなしく<模範囚>で過ごそう・・・ヘタに反抗して<内申書>の点数を下げられたら、この先の人生、台無しだし」という処世術でおとなしくしているのが習いとなる・・・それは実に正しく賢い振る舞いではあるが、そうして3年~6年~10数年かけて骨身に染み付いた「理不尽に対して抗議の声を上げずにひたすら耐え抜く忍従体質」は、決して賞賛されるべき代物ではない ― 「これは、こういう点でダメだから、こういう風に改めるべきだ」としっかり声を上げる人間こそ「組織にとっても社会にとっても真に有為の人材」なのである・・・が、この日本では(構造的欠陥を抱えた学校教育のせいで)「文句を言うヤツは問答無用でダメなヤツ」という精神風土が社会の隅々に至るまですっかり根付いてしまっている・・・結果、あってはならない「構造的欠陥」が(その欠陥に起因する大事故が発生して世間から袋叩きの目にあうまでは)平然と野放しになってしまうのだ ― 「津波発生時の被害を甘く見積もった結果の、福島第一原発水素爆発事故」をはじめとして、この種の「内部批判の不在(あるいは黙殺)」が野放しにした構造悪に起因するロクでもない事態の数々、その大元を「社会から教師への理不尽な締め付け・・・の必然的反作用としての教師から生徒への理不尽な締め付け・・・からのバックファイアとしての、理不尽な構造的悪弊に対する合理的批判能力を欠く個人の増殖が招く社会全体の劣悪化」という形でたどることができる理性・感性(ましてやそれを改善する能力)を有する人間が、今の日本にいったい何人存在することか・・・日本の<監獄ガッコ>を優等生として卒業した<模範囚の群れ>にそれを求めるのは無理があろうし、<監獄ガッコ>にひたすら反抗するばかりの<ドロップアウト組>に対して上述のごとき「ガッコを巡る構造悪」に関する理知的理解と(受動的反発以外の)建設的対処法を求めるのもまた空しかろう・・・
・・・とにもかくにもすっきりしないこの「乗り越し清算が前提の自動券売機」という恐れ入ったシステムが、いったいいつ頃から世の中にはびこるようになったのか、券売機で買えない遠距離切符なんて二十一世紀に入ってから今回初めて購入を試みた(&「切符は目的地まで正しく買いましょう」という旧国鉄のスローガンが脳裏に染み付いている)この自分にはまったく見当も付かないが、一つだけはっきりしていることは、スマホ等の電子デバイスを用いたいわゆる「スマート乗車システム」でならこの種の戸惑いは絶対に発生しないということ ― 2310円の決済ができない電子決済システムなどこの世に存在する道理もないのである ― つまるところこれも「電子決済の利便性を拒絶して紙の切符でJRに乗ろうとするような<時代遅れの顧客>へのサービス切り捨て」の一環(スマホなしではタクシーにも乗れないような「時代遅れ切り捨て時代」の数ある事例の一つ)というわけである・・・
・・・がしかし、その「スマートなシステム」に慣らされている消費者たちは、上述のような不満を抱くことも批判を述べることもないだろう ― 有無を言わさず万人の受容を強要する<新たな約束事>は、<古い約束事>を切り捨てると同時にその約束事にすがりつく<古い人間ども>をも切り捨てることになる・・・ので、ほとんど全ての人間たちは「新たな約束事」の従順な奴隷と化す道を自ら進んで選ぶことになる。一部の人間たちは「新たな何か」を他者に先駆けて積極的に志向する意識でもってそうするし、その他大勢の人間たちは「古い人間」として「新世界」から切り捨てられることを恐れてそうするわけだが、いずれにせよ「新たな約束事」が世に出た時点で「古い約束事」とそれに依拠する「古い人間ども」は自動的に「切り捨て」の運命が確定し、そうして切り捨てられた古い人間たちは、世間から何の同情も配慮も受けることなく、「いったいいつまでそんな古いこと言ってるの? 時代が違うよ!」という嘲笑と共に掃き捨てられて、「時代にちゃんと乗ってる側」である世間全般の人間達が自らの立場に安堵と優越感を抱くための「精神的踏み台」となるばかり・・・
・・・この原理を悪用すれば、「消し去りたい何らかの約束事」(例えば、第二次大戦の惨敗に懲りて平和国家を希求した頃の日本が打ち出した「武器輸出(≒禁輸)三原則」)がある場合、「新たな約束事」(例えば、日本を武器輸出大国にすることで経済立て直しを図る経団連と自民党が国民に内緒で推し進めた「防衛装備移転(≒売込)三原則」)を打ち立ててしまう(&その新たな約束事に従って外国に「日本製高性能潜水艦」でも売り込んで「武器輸出国としての、新たなニッポン」を既成事実化してしまう)のが最も手っ取り早いやり口、ということになるわけである・・・「事はそんな単純には運ばない」とか言うことなかれ ― 日本人の迎合体質(=ヒツジの群れのごとく、前を歩むものの動く方へとロクにものも考えずにあっさり追従する従順極まる精神傾向)の驚嘆すべき単純さは、「徳川幕藩体制」の260年の歴史が「明治維新」であっさり「万世一系の天皇の下での大日本帝国」へと覆り、その付け焼き刃の「神国日本」もまた太平洋戦争の惨敗と同時に「アメリカンデモクラシー万歳!」への早変わりを演じた事実を見れば、火を見るよりも明らかであろう(まぁ、歴史を学ばず、歴史から学べぬ日本人にこれを言っても、馬耳東風ではあろうが) ― とにかく、「これからの新たな<約束事>は、これ!」と示しさえすれば、大方の日本人は(「時代遅れ」になるまいとする「ヒツジ根性」ゆえに)ホイホイそれになびくのである・・・もっとも、その道を歩む上で何の信念(principle)も持ち合わせていない(他人がそうするから自分もそうしているだけの)連中だから、また別の「新たな<約束事>」が登場すればホイホイそっちへなびくばかりで、一切ブレることなき「自らの歩む(べき)道」を持ち合わせている個体なんてほとんど存在せず、また、そうした信念に従って生きようとする個人にとってはこの上なく「人間として生きづらいヒツジたちの群れ」でしかないのが、この日本という国の(今に始まったことではない)伝統的な「根無し草体質」なのである・・・ということを自覚できている日本人などほとんど存在しないし、それを認識してしまえば途端に「生きづらいイヤな国」になってしまうのがこの日本という国の本質なのだから、日本人の生存本能として「無自覚の衆への迎合体質」が(コロコロ変わる現実世界の約束事の数々による度重なる条件付けの成果として)強化されるとともに、非迎合的個人への排斥圧力もまた強まる、という仕掛け・・・そうした無数の事例の一つを(またしても)再確認させられたところで、溜息とともに、「乗換駅ごとに改札を出て駅舎を外から眺めて改めて次の目的地までの切符を買う」という道草道楽は、この日暮里駅での頓挫とともに、放棄することにしよう。
・・・という次第で、「駒込⇒日暮里」の150円分の運賃と戸惑いタイム10分以上をドブに捨てる形で、日暮里駅の券売機で購入可能な最大金額(1680円とかそのぐらい)の切符を購入、モヤモヤした気分をトイレで晴らしてから4番線ホームに降りると、既にもう「水戸行き」の列車は、それなりの数の乗客たちを飲み込む形で停車していた。自分の今回の鈍行旅の目的は「車窓の外に見える木々の色合いの変化」をこの目で確かめること ― 先日の飯坂温泉春行脚の帰路に「福島⇒郡山」の線路沿いに見た木々の灰色っぽい色合いが、単なる「冬枯れ」であって「放射能汚染」によるものではない・・・のかどうかを確証すべく、「茨城県から福島県へと移動する列車の窓の外に展開する木々の色合い」に、どの程度の目立った違いがあるか、あるいはないのかをこの目で確かめるためにわざわざ鈍行列車に揺られての8時間近い旅に出たのである・・・が、日暮里の改札口を出て存在しない「水戸」までの料金を必死に探して駅員に事情を確認して改めて「買ってもどうせ料金不足の切符」を買ってトイレで溜息ついている間に、「車窓の景色を眺める」ことのできる四人掛けシートの座席は全て先客たちによって占有されてしまっており、車中の真向かいの乗客の後ろの窓に外の景色がチラと見えるだけの二人掛け座席に1つ空席を見つけることができるだけの状態になっていた・・・やれやれ・・・
・・・そんなわけで、「日暮里⇒水戸」の常磐線の車内では(対面する座席の後ろの)窓外の景色の確認はまったくできなかった・・・次々乗り込んでくる乗客(その多くは高校生)の林立する車内には、視線を外に向けるべき空間的隙間もない・・・ということで、この間の2時間ほどはひたすら「仮眠」に費やす・・・まぁ、東京から茨城までの景色の移り変わりには「都会から田園へ」の劇的変化もあるまいから、これはこれでよしとして、「乗換駅では寸暇を惜しんで座席確保に動かないと窓外の景色探訪という今回の旅の目的がことごとく消し飛んでしまうことになる」という教訓を得られたことを、とりあえずの収穫として受け止めることにしよう。
・・・案の定、水戸駅1番線ホームに停車している[郡山行き]と表示のある4両編成の列車のうち、実際に郡山まで辿り着ける車両は最前方の1両のみであった!・・・あぶない危ない・・・おかげで、先端車両の右側の四人掛け座席の車窓側に座を占めることができた自分は、3時間半の窓外風景鑑賞ツアーを心ゆくまで愉しむことができた・・・が、水戸駅に停車中の[郡山行き]と表示のある列車(の後方3両)にただ何となく乗り込んだ末に「常陸大子(ひたちだいご)」で「はい、これま~でよ」と言われちゃった乗客たちは、寝耳に水の心地だったことだろう・・・
・・・そうして途中で車両を切り捨てるということは、それだけ旅客が少ない路線だという証拠である。後日気になって調べたところ、1987年から2022年の35年間で水郡線の乗車率は「磐城塙(いわきはなわ)~安積永盛(あさかながもり)」で49.56%減、「常陸大子(ひたちだいご)~磐城塙(いわきはなわ)」に至っては81.85%も減少していた ― どうりで「常陸大子までは4両編成、それ以降は1両のみ運行」となっていたわけである。
こうしたローカル路線の乗客数の減少は、地域経済の衰勢を示すものであると同時に、地方に暮らす人々が「一家に一台」どころか数台の自家用車を持ち「移動の足は自家用車」という生活様式が当たり前になってしまったことからくる必然の現象だが、そうして自家用車での移動が当たり前になってしまうことで「鉄道」や「バス」といった社会の公共財としての交通インフラが衰退すれば、それは必然的に「ぶらり旅をしにくるよそ者の減少」をも招く ― 新幹線や高速バスといった「出発地と目的地との間を往復するだけのシャトル便」でお目当ての観光地へと(まるで荷物のごとく)直線的に「運搬」される観光客にとって、途中にある土地は存在せぬも同然。目的地である「有名な観光地」(&途中でわざとらしく降ろされる「サービスエリア」)やお目当ての「ご当地名物」や「アクティビティ」に対してのみ「散財という爪痕」を残すだけの「渡り鳥」にすぎない彼らにとって、日本全国の赤字ローカル鉄道路線やその周辺の観光地なんて、あってないようなものなのだ。1時間~数時間に1本しか動かぬローカルな鉄道やバスのあんまりな運行スケジュールに自らの旅先での自由度を阻害されるのも面白くないから、そういう「満足な公共交通機関を具備していないローカルな観光地」には旅人は背を向けるし、そうして客足が遠のいたローカル観光地では営業している店も少なくなってますます観光客からそっぽを向かれることになり、自家用車での自由な移動が可能な地元民のみを相手にする商売以外は成立し難くなる。東京・大阪・横浜といった大都市で様々な商売が成立する基盤は「公共の足としての鉄道・バス」が完備されていることからくる客足の豊富さ・・・自家用車移動が前提の地方都市では「ぶらりと訪れるお客さん」からの経済的恩恵を期待することはできない・・・「自家用車移動の常態化」と「鉄道網の衰退」という相互作用は、地方都市の場合、「外来者という観光資源の枯渇」へと直結するのである ― mortorization(モータリゼーション:自動車普及) equals(すなわち) mortalization(モータライゼーション:死すべき運命への転落)というドス黒いpun(ダジャレ)が成立してしまうところに、赤字ローカル路線を抱えた地方の病根がある・・・と、わかってはいても、有効な治療法が見つからないがゆえに、「有名な観光地」として「多くの渡り鳥たち」の落とす「フン(=カネ)」で肥え太ることのできる一部の恵まれた「地方」以外は、ひたすら衰退の引き波に耐えている・・・
・・・そんな苦しいローカル鉄道&沿線住人たちの悲哀を十分認識した上で、慈愛と郷愁の微妙な感慨をもって敢えて出向いて来た、といった趣の乗客たちの密度が明らかに濃いように感じられる水郡線の列車(当初4両、最後は1両)に揺られながらの鈍行旅の、車窓の外に展開する光景については、既に記した「線路沿いの木々の灰色っぽいくすんだ色合いは、放射能の影響によるものではなかった(らしい)」という発見以外、特筆すべきものは何もない・・・のだけれども、そう言ってあっさり切り捨ててしまう酷薄な態度は、3時間半のゆったりとした時間を共に過ごした水郡線に対してあまりにつれない気もするので、ローカル路線の鈍行旅をわざわざ好きこのんでするような奇特な旅行者の目に映った茨城県から福島県への車窓の外に展開する景色の移り変わりにインスパイアされた私的感慨のあれこれを、ダラダラと書き残しておくことにしようか・・・
福島県出身の母の古里は郡山の田村町という所の農家だが、畑仕事の最中に耳に飛び込んでくる水郡線の警笛の音がいつもより大きく重く響いたり、虫を求めて飛び回るツバメが地表に近い低空飛行をしたりしていれば、(空気が重く密度が詰まっている証拠なので)「もうじき雨だな」とわかる、という話をよくしていた。水郡線の「パァ~~ン!」という音は、そうした形で人々の暮らしに密着している茨城・福島の風物詩であって、不機嫌な運転者の個人的苛立ちを表象する都会の公害めいた警笛とはまるで異質なローカルBGM、地元民にとっての「soul sound(魂に染み入る響き)」のようである。
これは「原発」に限ったことではないが、日本人の精神的風土病とも言える「ケガレ忌避体質」は、ひとたび「これは穢れてる!」とか「これはもう古い!」といった形でダメ出しした相手に対して「心的次元での抹殺処置(≒<村八分>に代表される意固地で陰湿な徹底無視)」をしてしまうので、「原子力はもうダメ・・・それに代わる電力といったら・・・太陽光だ!」という実に短絡的な形で「反動的えこひいき」の対象となった太陽光発電は、当時の民主党政権下で、合理性も責任感もまるで伴わぬ近視眼的な「手放しの国策支援」を思う存分享受する「いまキテる電力」となった・・・その「太陽光利権」に真っ先に群がったのが「孫正義(そんまさよし)率いるソフトバンクグループ」であり、震災直後のドサクサ立法で「太陽光発電で損が出たら国がそれを補填する」みたいなロクでもないルールをあっさり通してしまったその暴挙は、「震災復興」の名の下に「私腹を肥やす一部の連中」が出るばかりで「東北地方全体の立ち直り」には結び付かないその後の数々の残念な現実の実に不愉快なプロローグ(序曲)となったのである・・・案の定、ソフトバンクグループに続け!とばかり、「太陽光利権&利殖」に走った企業とその煽動に乗った個人の奏でる「ソーラー狂想曲」は、苦労して土地を耕して農作物を作っても経済的実入りの少ない遊休地のそこかしこにギラギラした欲望の反射光で見る者の気分を萎えさせるソーラーパネルの畳敷きを出現させることとなった ― 「空き地にただ設置して電力を溜め込みさえすれば、自宅の電気代がタダになるばかりでなく、余った電力を売ってカネにもなり、その設置費用にも公的補助金が出る」といういいことずくめみたいな話に乗っかって追い求めた利殖の夢が、その後どういう風に惨めに萎むことか、自分などは震災直後からひたすら冷ややかな気分で眺めていたものだが、あれから14年、「古くなった太陽光パネルの交換」だの何だのと名目を付けての「メンテナンス商売」のエゲつなさに付き合いきれずに「欲望を反射投影する無粋なガラスの畳」をたたむ頃合いは、まだ訪れてはいないのか、それとも既に廃棄処分になったソーラーパネルが多いのか・・・そのあたりは「ソーラーパネル林立地帯」の定点観測を行なってきたわけではない自分にはよくわからないが、まるで地獄の底に垂らされた蜘蛛の糸みたいな「日本政府肝煎り(きもいり)の絶対もうかる太陽光発電」などというサギまがい商法そのものみたいな甘~い話に群がった有象無象(うぞうむぞう)の行く末なんて、つぶさに追うまでもなく、最初から見えている。国や地方自治体からの支援金が既にもう打ち切られたのか大幅減額になったのかは知らない(&興味もない)が、もはや甘い夢を見させてくれなくなった太陽光発電設備廃棄に要する費用に関しては公的支援など絶対得られないことだけは歴然としている・・・
・・・いま現在、茨城から福島の野山のそこかしこにブザマに点在しているソーラーパネルたちは、「稼げるから展開している」のか、「取り去るにもカネがかかるから放置している」のか、いずれにせよそれは、それを設置した個人による「小遣い稼ぎ」の思惑の産物であって、「大地からの恵みとしての農産物を、市場に出して、人々の食生活に資することで、生計の手段とする」という農村地帯本来の経世済民の営みとは全く無関係な代物、のどかな日本の東北地方よりは世知辛いばかりの大都会にこそお似合いの「エゴの鏡」でしかない・・・
・・・茨城県内ではいささか目障りなほど乱立していたソーラーパネルが、福島県に入ってからは比較的目立たなくなったのが、せめてもの慰めといった感じだったことを書き記して、この無粋な話題は終わりにしよう。
逆に思い起こしてみれば、昭和(40~50年代)の昔のローカル列車には(天井で回る扇風機以外は)満足な空調設備もなく、タバコ吸い放題(車窓側のテーブル下には吸い殻入れ付き)だったわけで、「自由に開閉できる窓」は「車内空冷」のためにも「煙逃がし」のためにも「駅弁購入」のためにも、必須の装備だったわけである・・・東北本線の動力がまだ蒸気機関だった頃は、窓を開いたままで列車がトンネルに入ると、先頭の蒸気機関車が吐き出した煙が開いた窓から車内に環流してきて、旅客の顔がススだらけ、なんて愉快な光景さえ展開していたのだ・・・子供の頃の自分には、そうした情景のすべてが物珍しくてワクワクするような非日常的体験であり、その非日常性こそが自分にとっての「旅」そのものなのであった・・・
・・・令和の世の水郡線の開かぬ窓は、さながらテレビスクリーンのよう ― 景色は映るが、そこに展開する世界と車内の乗客とのインタラクティブ(双方向性)な関わりは(列車を下車せぬ限り)何も起こらない・・・その一方通行性の冷たい関係にささやかな抗議をするかのごとく、走行中の水郡線の窓を枯れ木の枝が折々ビシビシ叩くだけ・・・
・・・そうして走る列車の窓にぶつかる木々の枝には、列車走行の邪魔にならぬよう、手入れが必要だろう ― 伸びすぎれば切らねばならないし、いっそのこと、枝が伸びぬよう農薬を使って枯らしてしまうのが効率的だろう ― 木々には風除けの効用もあるので、もうこれ以上生育せぬ「立ち枯れ」状態にしたまま放置しておくのが合理的処置というものだろう ― おそらくそれが、福島県を走る列車の窓から見える線路沿いの木々の「灰色っぽいくすんだ色合い」の原因なのだろう・・・鉄道会社に尋ねて確証したわけではないが、この水郡線の開かぬ窓をビシビシ叩く枯れ枝のノックの音が、「それが答えさ」と語っているように思える ― 少なくとも、木々を枯らした原因が「福島第一原発の水素爆発でまき散らされた放射性物質(セシウム)」でないことは、「農薬処理」の対象外の木々や花々が福島の春の野山を明るく彩っていることだけからも、はっきりわかる。
「黄色は元気を運ぶ色」と言われるが、日常生活の中ではあまり自分好みの色ではない。今これを書いている自室の中を見渡してみても、黄色の色彩を帯びたものは、本の背表紙にわずかに混じるほかは、レモンの香りの消臭芳香剤と古い電卓しかない・・・「木色」は好きだが「黄色」はキライな自分は、やはり陽気なタイプではないようだ・・・が、自己弁護かたがた言わせてもらえば、黄色が元気を運ぶには(野山の菜の花のように)そこそこ群れ成す数の力が必要なのである。単体でポツンと存在するイエローは(戦隊ヒーローものでおなじみなように)周囲から浮いたコミカルなカラーのイメージであって、「愉快」ではあっても「元気」なエナジーを感じさせるとは言い難い。周囲を「黄色の絨毯」で取り囲んだ時にのみ、陽気で浮き浮きした不思議な高揚感をもたらすのが「イエローマジック」というものなのだ・・・もっとも、その高揚感はいささか非日常的なものであるがゆえに、あまり露骨に黄色一色に染め上げられた背景色は「シュール(超現実的)なまでにハイ(気分がブッ飛んでいる)」といった感じのアブない世界につながってしまう ― サイケデリックカルチャー(麻薬吸引がもたらす超現実的イメージに彩られた文化)真っ盛りの1967年に世に出たあのThe Beatles(ザ・ビートルズ)の一大傑作アルバム「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band(サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)」の見開きジャケットに見えるミリタリー・ルックのビートルズの面々の背景色のイエローは、まごうかたなき「ドラッグ・ハイ(麻薬でラリって夢見心地)」のシュールな色なのだ・・・
・・・そういったわけで、そこそこの長さまで展開しては途切れ、また思い出したように出現しては見る者の気持ちを明るく染め上げてくれる菜の花のコンパクトな黄色い絨毯は、サイケデリックなインパクトで見る者をラリパッパに舞い上がらせるようなあざとい自己主張とは程遠い、東北らしい慎ましい優しさで旅行者の心をほのぼの温めてくれる素敵なイエローカーペット ― ローカル列車に乗ってわざわざ訪ねて来てくれた旅行者に対する水郡線沿線の自然&住民からの歓迎のおもてなし ― であるように自分には感じられた。「福島を走る列車の窓外に見える灰色っぽい木々の枯れ具合は、放射能汚染によるものなのか、単なる冬枯れなのか」を確かめるための「答え合わせの旅」に出向いてきた自分にとって、この「元気の出る黄色い春のカーペット」に勝る嬉しい答えはない・・・14年後ののんきな旅人の自分にとってさえそうなのだから、2011年3月の原発事故発生直後数年間の春先には、この菜の花の黄色い絨毯が東北地方の人々の心をいったいどれほど明るくしてくれたことか・・・想像するだに、胸がじ~んと熱くなる思いがする。
昔は「菜種油(なたねあぶら)」を採るための作物として重宝された菜の花も、外国産の安価な輸入油に押されて、いまや「(農家が自分の田畑に)栽培」するというよりは「(そこいらに勝手に)自生」といった趣のようだが、そうして芽吹いた自然な春の息吹としての菜の花の黄色には心底元気が出るし、農家の庭先に「観賞用植物」として植えられたささやかな菜の花畑のイエロースポットに垣間見える人の心の温もりもまた素晴らしい。
分けても印象に残ったのは、「西金(さいがね)」という茨城県の駅 ― プラットフォームの駅舎側半分以上が菜の花畑のイエローカーペットになっているその姿は、「ようこそ、春の水郡線へ!」の温かいメッセージのようだった・・・下車するお客は一人もいなかったけれど、乗降客の少ない駅ゆえに実現できたのであろうこの粋な計らい、こういうのを本当の「心づくしのおもてなし」というのだろう・・・
・・・菜の花の黄色に温もる春心地・・・矢のように過ぎ去る特急列車の車窓では味わえない鈍行旅ならではの春の愉悦 ― 8時間近い長旅にもさしたる疲労も倦怠も感じなかったのは、あの菜の花たちの「yellow magic」のおかげだったのかもしれない。
今回、生まれて初めて水郡線に乗って茨城から福島への3時間半の旅をしてみたら、意外と山が多かったのに改めて気付かされたのだが、それはそれとしてやはり福島は「山の県」というよりは「平地と川の県」の感がある ― 川を渡る回数は数え切れないほどあったのに対し、トンネルの数はたった5つしかない ― スキー旅で信州に向かう時に乗る列車などは「山くぐり線」と呼びたくなるほどトンネル通過時間が長いのに対し、水郡線でトンネルらしいトンネル(けっこう長いやつ)といえば「上小川(かみおがわ)」と「袋田(ふくろだ)」の間にあるやつぐらい(後で調べたら「鷲の巣トンネル」という鉄道好きにはかなり有名なスポットらしい) ― これだけ長い距離を走りながら、これほど山中をくぐることが少ないのだから、やはり福島は「山々に囲まれた広大な平地の県」といった感じである・・・その代わり、川をまたぐ回数はやたら多くて、下が中空の鉄橋を渡る際の「ガタンゴトン」というあの独特な音響が幾度となく耳に染み入る水郡線の基調音といった感じであった。
後で調べてみたところ、水郡線が茨城県内でまたぐ川は(水戸駅発車直後に「那珂川(なかがわ)」を一度またいだ後は)「久慈川(くじがわ)」のみ、福島県に入ると「近津(ちかづ)」と「中豊(なかとよ)」の間でこの久慈川に別れを告げて、その後「杜川(もりかわ)」および「北須川(きたすがわ)」という比較的小さな河川をまたいだ後は平地をひたすら走り抜け、「磐城守山(いわきもりやま)」から終点「安積永盛(あさかながもり)」へと向かう途中で「阿武隈川(あぶくまがわ)」を一度だけ渡る形となる・・・とにかく、ひたすら「山」を避け、「川」と並走しつつちょくちょくまたぐローカル列車が水郡線、といった感じである。
■野上原(のがみはら)■ ・・・1つ前の「玉川村」から水郡線初の(照田)トンネルを越えて着くこの駅あたりから、かなり大きなカーブが増えてくる。列車が四両編成の(常陸大子までの)区間には、広々とした平原を大カーブを描いて走る水郡線の姿を撮影するのに好適な地点がずいぶん沢山あることだろう。
■山方宿(やまがたじゅく)■ ・・・「山方」とは、「山麓」を意味すると同時に「伐採者」をも意味する語。そこに「宿」が加わるわけだから、ここが「山林で伐採された材木の積み出しを行なう材木商の現地宿舎」として古来機能していた場所であるということだろう。線路脇に何本もの丸太が積み上げられていて、駅舎もまた自分好みの「木色」のロッジ風 ― 「林業」がこのあたりの主要産業(であった)という歴史的事実を感じさせる駅である。
■中舟生(なかふにゅう)■ ・・・木材は「山」で切り出して「川」を「舟」で運ぶ。その中継地点を感じさせる駅名の「中舟生」あたりから、水郡線と久慈川との並走が始まり、「奥久慈清流ライン」という愛称にふさわしい雰囲気になってくる。山々に囲まれたサラウンド感が俄然高まってくるのもこの駅あたりから。
■下小川(しもおがわ)■ ・・・茶色い割り箸を縦に何本も並べたような面白い駅舎。ここを出て次の駅に着くまでに、川を渡り、大きくカーブして、しばらくは久慈川の右側を走る形になる。
■西金(さいがね)■ ・・・前述した「ホームの半分が黄色い菜の花畑」のかわいらしい駅。
■上小川(かみおがわ)■ ・・・沿線の桜はすでに散り、線路上にはやたら大量の羽虫が(水郡線の「ハメ殺しの窓」に感謝したくなるほどの勢いで)飛び交って、まるで早春を通り越して初夏の雰囲気。この駅と次の「袋田」の間に、水郡線では一番長い(鷲の巣)トンネルがある。
■袋田(ふくろだ)■ ・・・有名な「袋田の滝」(ふくろだたき、じゃないよ)がある水郡線有数の観光スポット・・・線路脇の「ミニ袋田の滝」と題されたジオラマの上に水流はなく、その頂に一輪のタンポポが咲くのみ。これは自然の計らいか、はたまた管理人さんのユーモアなのか、どっちにせよ、いいもの見せてもらって得した気分・・・ミニ版じゃない本物の袋田の滝を見るための観光バスが駅前に数台停車していて、お客さんもけっこういるようだったが、水郡線から下車するお客さんはいたのかいなかったのか(自分が乗った「郡山」まで行く先頭車両では)わからない感じだった。「有名な観光スポット」へは「シャトル(往復)バス」で行かないと(往路にローカル鉄道を使ったりすると)帰りの足がうまく見つからなくて困る、ということなのかもしれない。景勝地を沿線に抱えていても、それがローカル鉄道の活性化には必ずしもつながらないというこの現実 ― motorization(モータリゼーション:車移動の常態化)が招く鉄道のmortalization(モータライゼーション:死すべき運命への転落)の図式をまざまざと見せ付けられた感じ ― 水の流れぬ「ミニ袋田の滝」に、人(&カネ)の流れぬ「水郡線」 ― 可愛らしく見えたジオラマが、妙に切ない可哀そうさに変わってしまう感じの情景ではあった。
■常陸大子(ひたちだいご)■ ・・・前述した通り、4両編成だった水郡線の後ろ3両がこの駅で切り離されて、最前列1両のみとなる・・・ので、切り捨てられた後ろの方のかわいそうなお客さんがゾロゾロ引っ越ししてきて、たちまち満員になる・・・四人掛けの座席もフル活用すればどうにか全員座れそうな乗客数だが、結局2~3名は最前方の運転手席に張り付くような位置に立ちっぱなし(やっぱり水郡線は最初から最前列の車両に乗り込んどかないとね)・・・列車切り離しに加えて別の列車の通過待ちだか待ち合わせだかで、23分間も停車したままなのが、なんとものどかなローカル線らしい・・・一人旅の自分は座席を離れるわけにもいかないからじっと座って同じ駅舎のウッディな姿を眺め続けるしかないが、少なからぬ数の乗客たちは、プラットフォームに出ては列車切り離し作業を食い入るように眺めたり動画に収めたりしている・・・さっきまで一緒に走っていた車両が回送列車となってあっちの線路をノロノロ走る姿をボンヤリ眺めるのも妙な気分である・・・やがて向こうから水戸方面へ向かう水郡線がやってきて、その最前列が自分の目の前に停車する・・・小学生のお絵かきっぽいチグハグにカラフルな色合いの車両の最前面に踊る「DIESEL」の文字に、今さらながら水郡線が「電車」ではないことを再認識・・・といったところで、3両切り離して身軽になった水郡線は、ディーゼル機関の音も高らかに発車した。
■下野宮(しものみや)■ ・・・1つ前の常陸大子で1両だけになった水郡線の、まぁ揺れることゆれること! 列車というよりは大型バスみたいな身軽さで、カーブのたびに車輪とか浮いてるんじゃないかと心配になる勢いで左右にsway(スウェイ)する感じ・・・自分の地元を走る「都電」(三ノ輪橋から早稲田へ)のあの線路から浮いちゃいそうな軽い感じに似ているが、スピードは水郡線のほうがはるかに出ているだけに、ちょっぴり愉快なスリルがある・・・水郡線はこの駅までが「茨城県」、次の駅からは「福島県」となる。
■矢祭山(やまつりやま)■ ・・・駅前にかわいらしい赤い吊り橋が架かっているが、あいにく工事中で渡れないようだった。なんとなく「山を吊る山」みたいな響きの駅名だが、実際は「八幡太郎(はちまんたろう)」源義家(みなもとのよしいえ=源頼朝や足利尊氏の御先祖様)が奥州での戦役に勝利して凱旋した際にこの地に矢を奉納した「矢祭神社」に由来する名前らしい。後で地図を見たところ、周辺に神社がやたら多いのも、やはり源氏由来なのだろう。
■東館(ひがしだて)■ ・・・線路沿いの民家の金物メッシュのフェンスに両手をついて、おばあちゃんがにこにこしながら水郡線を見てた・・・「水郡線は今日もちゃんと走ってる」=「今日も自分はちゃんと生きてる」という日々の存在確認の行事なのかもしれない・・・やっぱ、ローカル線は、無闇に廃線にしちゃぁいけないよなぁ・・・
■南石井(みなみいしい)■ ・・・巨大な扇風機を備えた長~いビニールハウスが目に付いた。
■磐城石井(いわきいしい)■ ・・・都会じゃ見ないやたら立派なこいのぼりが目に付いた。
■磐城塙(いわきはなわ)■ ・・・線路脇に古い貨車(コンテナ)が2台、意味ありげに置いてあるのは何のため?・・・駅から見える山の一部が崩落しているように見えたが、あれは木々の伐採跡なのか、あるいは東日本大震災の爪痕なのか?
■近津(ちかつ)■ ・・・ここでもやはり駅から見える山腹に崩落っぽい痕跡あり・・・線路脇には丸太が積んであるので、山崩れではなく伐採跡なのかもしれないが・・・それよりも気になるのは、山桜 ― 平地の桜はもう散り残りの段階だが、山のそこかしこにうっすら白く見える(たぶん)桜の花は、まだ散っていないばかりか、もしかしたら満開なのかも・・・福島県は東西に長~い県で、東と西とでは標高差もかなりあるので、これから西方の<会津>へ向かうにつれて、気温は低くなり、桜前線も「復活」してくる感じになる・・・同じ土地でも、平地の桜はあらかた散って、山の上の桜はなお残る、といった景観が見られるのもこの季節ならではの愉しみだ。
■中豊(なかとよ)■ ・・・地桜は散り残りと満開が交互に現われ、山桜は満開・・・
■磐城棚倉(いわきたなくら)■ ・・・このあたりの地桜はまだ健在・・・
■磐城浅川(いわきあさかわ)■ ・・・このあたりの駅名にはやたら「磐城(いわき)」が出てくるが、太平洋岸の<浜通り>にある「福島県いわき市」とは無関係 ― 「岩の城」というのだから、堅固な地形を示唆する地名ということだろう。名前の後半は「浅川」だが、この駅を出た直後に渡ることになる川は「杜川(もりかわ)」 ― 次の「里白石(さとしらいし)」到着直前にもう一度渡ることになるが、この川と水郡線の交わりはこの区間のみ。
■里白石(さとしらいし)■ ・・・山桜、かなりいい感じになってきた・・・次の「磐城石川」到着直前に渡る川の名は「北須川(きたすがわ)」 ― 水郡線の川またぎはこれでしばし小休止、あとは最後の「磐城守山―安積永盛」の区間で福島県随一の大河「阿武隈川」を渡るのみとなる。
■磐城石川(いわきいしかわ)■ ・・・甲子園の高校野球で「福島県代表」といえばこの駅が最寄りの「学法石川(学校法人石川高等学校)」・・・次の駅までやたら長~い山あい区間が続くが、ここでもやはり山崩れしたんだか山を切り崩したんだか微妙に崩れた地形が散見される・・・正午を回ったので、持参したパン類をリュックから取り出して、山々を眺めながらのんびり昼食としゃれこむ。
■野木沢(のぎさわ)■ ・・・これから走る先の線路がはるか彼方に見えるぐらい雄大なカーブがある・・・が、走る車両は1両だけ ― 4両編成ならさぞや絵になるだろうにねぇ・・・
■川辺沖(かわべおき)■ ・・・この「川」はたぶん「阿武隈川」を指すのだろうが、名前のわりには「川辺」感のまったくない平地駅で、地桜はいずれも葉桜状態。
■泉郷(いずみごう)■ ・・・これまた「水辺」のイメージのわりには「阿武隈川」とオーバーラップする景観はない平地駅・・・雄大なカーブ多し。
■川東(かわひがし)■ ・・・文字通り「阿武隈川の東」の駅で、もろブラウンなウッディ駅舎が好印象・・・山には崩れたのか伐採したのか微妙な岩肌露出箇所がある。
■小塩江(おしおえ)■ ・・・かつて製塩が行なわれていたことを思わせる名前の駅の前には、岩山が切り崩されたような光景が・・・何かの造成なのか、後始末なのか、はたまた「岩塩採取」の現場なのか・・・
■谷田川(やたがわ)■ ・・・個人的には、父方の祖父の出身地として身内ではよく出てくる地名・・・沿線に見える岩だらけの田畑は、耕作準備中なのか、耕作放棄地なのか・・・
■磐城守山(いわきもりやま)■ ・・・純然たる「水郡線」として走るのはここまで ― 次の「安積永盛」は「水郡線/東北本線」2本立ての扱いとなる・・・その東北本線と交わる直前に、「阿武隈川」の一度きりの川またぎがある
■安積永盛(あさかながもり)■ ・・・水郡線は「水戸―郡山」を結ぶ路線だが、形の上ではこの「安積永盛」が終点で、次の「郡山」までは「東北本線」の扱い・・・自分の幼少期の福島行きはもっぱら「東北本線」でこの「安積永盛」を目指しての半日旅、今回わざわざ「京浜東北線⇒常磐線⇒水郡線⇒磐越西線」の乗り継ぎ旅を選んだのも、半世紀前と同様の「鈍行半日旅」が味わいたかったから ― 移動の過程そのものに「旅」を感じる非日常的体験は、路線こそ違え、この水郡線との3時間半の付き合いで十分満喫できた感じである・・・が、この幼少期の懐かしの駅「安積永盛」は、ここまでの水郡線のどの駅にもまして、乗り込んでくる乗客の数が多い ― 高校生がドッと乗って来て、水郡線というよりは常磐線(の土浦以前)みたいな感じである(日本大学とその付属校の最寄り駅となっているらしい)・・・もしかしてこれが「水郡線」と「東北本線」の違いというものなのか・・・この「安積永盛」からはまた周囲の光景が一変する ― ひたすら開けた平地の上に「水戸」以前のような「地方都市」が広がって「郡山」までシームレスにつながっているイメージ ― 「田園地帯」はもう終わり、幼年期の自分の脳裏にあった「ひたすら平らな福島県」の情景が延々広がっている。
■郡山(こおりやま)■ ・・・福島県の「商都」。駅は大きく、駅前広場は広くてキレイ・・・前回の「春行脚」の帰りにこの駅前広場で(3時間もの)バス待ちをした時は、それはそれはもう素敵な光景を見せてもらったのだけれども、今回は次なる「磐越西線(会津若松行)」への乗換(余裕20分)を大急ぎでやらねば「景色が見える座席」の確保ができないだろうから、改札を出ることはしない・・・
車内がこれだけ混み合ってしまえば、車窓の外の景色鑑賞なんて望むべくもないので、この1時間15分の移動の間はスマホとにらめっこしながら自作英単語習得用WEB自学自習教材『QFEV:速修英単語』(F水準)の(既にもう何度もやり直している)ミスチェック作業に費やす・・・窓際の座席を確保できない限り、こういう不本意な形での時間つぶしを強いられるのが鈍行列車ノロノロ旅の厄介なところ・・・途中、「この先、左手に<猪苗代湖>の姿が見えて参ります」という男声アナウンスが流れたが、自分の着座した左側二人掛けシートからでは、いくら身をひねっても湖の姿を拝むことはできない ― まぁいいや、明日になったらその猪苗代湖の周りをレンタル自転車でグルグル回って飽きるほど拝めるはずだから・・・その代わり、右側の窓の外には雄大な山々が(窓枠からはみ出るくらい)間近に見えてきた。一つだけ抜きん出て山頂がトンガった姿をしているのが、たぶん<磐梯山>なのだろう ― 今回の旅では磐梯山(とか五色沼とか)方面を訪れる予定はないので、せいぜい目に焼き付けておきたいのだけれど、車窓の枠と立ちっぱなしの乗客の姿が視界を遮って、満足に拝めない・・・こりゃぁ、「また改めて旅をして、磐梯山も五色沼も、その足と目でじっくり味わったらえぇべさ」という会津からのメッセージかな?・・・とまれこうまれ、あまり「旅」っぽくない1時間ちょっとの「移動」の末に、列車は定刻通りの午後2時半に「会津若松」に着いた。
そうして明日のバスのチケットを手配している間じゅう、隣りの窓口では、バスを1本乗り過ごした地元のおっさんが大声であぁだこうだと(思わずブン殴ってやりたいほど身勝手な)文句を叫びまくっている ― 会津の民といえば「辛抱強くて文句を言わない」イメージだったが、「老害」の有害性に関しては会津も東京も変わりないということだろう ― ただ、こういう身勝手な私的感情の暴発で周囲の全員に大迷惑を(5分間以上も)かけ続けるようなクソバカ老人の所業でさえも、「年長者の言ふことに背いてはなりませぬ」・「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」という例の会津の「什の掟(じゅうのおきて)」によって「治外法権」扱いされてまかり通るような「高齢者への甘やかし風土」がこの地に根付いていたりすれば、それはもう致死的なまでに根の深い大問題ということになるだろう ― もしこのようなド腐れジジィの所業が社会的指弾を浴びることなく黙許を与えられるような「年寄りに対して無条件に甘い」土地柄なら、旅人の自分としても二度とこの会津の地に足を踏み入れる気分にもなれないし、地元の若者たちだってこんな土地には一刻も早くおさらばしようという決意を固めるに十分な理由となる ― 上述した「理不尽を問答無用で強いる監獄ガッコ」の弊害が、学校を卒業してもなお(地元にいる限りは)死ぬまでずっとついて回るような土地柄であれば、若い芽は決して育たない・・・「ならぬことはならぬ!」というスローガンが、「改めねばならぬあれこれ」に対する改善を頑迷に拒否しつつ立場の強い側が立場の弱い側にそれを押し付け続ける社会的弊害を正当化する「悪法」と化してはいないか ― 規律を重んじる集団(ガッコ・軍隊・刑務所・ヤクザの組等々)が必ず陥る構造的閉塞状況が、「日本一辛抱強い民の暮らす地」たるこの会津若松を「思考停止の忍従」という淀んだ汚泥で蝕んでいないかどうか ― この旅で確認したい最重要事項の一つである。
初っぱなからいささか幸先悪い感じで会津バスの営業所を出て、「東横イン」に向けて歩くと、右手にかなり大きな書店がある。チェックインまでまだ時間があるのでぶらりと立ち寄り、店内を一通り見て回ってから(身軽な旅装を重くするのもイヤなので)本は買わずに「ジェットストリーム(三菱鉛筆)」の黒のボールペン替え芯を1本だけ買って店を出たところでちょうど午後3時、「東横INN」のフロントに入り、東京にいるのと何一つ変わらないチェックインの手続きを経て、エレベーターで4階の部屋へ。狭苦しい空間の9割をシングルベッドが占めている「寝るためだけ」の場所といった感じ。窓は開かず手前にわずかに傾斜して上部が換気口として機能するだけの(飛び降り自殺防止用といった感じの)気が滅入る代物、窓外には隣りのビルの側壁と道路が見えるだけで「旅の宿」の情趣のかけらもなく、分厚いカーテンで目隠しすると閉塞的な監獄感がますます募る。ベッドだけの部屋の他には、狭いバスルームにトイレと洗面所が同居する区画があるが、あまりの狭苦しさにわざわざ湯をためて風呂に浸かる気分にもなれそうにない。そして部屋全体にはあのイヤ~なタバコのヤニの悪臭が染み付いている ― 予約段階であまり間口を狭めたくなかったから「禁煙」にこだわらなかったせいで、「スモーカー」に回されてしまったのだが、これはつくづく大失敗、一分一秒でも早く部屋を出たい気分になる・・・ということで、10分と身を置かずに(荷物の1つも置かずに)そそくさと部屋を出て、いざ桜満開の鶴ヶ城へ・・・
・・・と、勇んで街へ出たものの、お城へ向かう通りに面したお店の多くは開いていない。鶴ヶ城の桜が満開の土曜日に「休業日」ということはないはずだから、これはもうお店そのものが畳まれてしまっているのだろう・・・道行く人の数もまばらで、1ヶ月ほど前に訪れた(平日の)飯坂温泉とあまり変わらない。飯坂温泉は坂道と曲がり角の多いこぢんまりとした温泉郷だから、その人数の少なさは「ほどほどの閑散感」として心地よく感じたが、ひたすらまっすぐ伸びる会津若松駅からの平坦な一本道の彼方まで見渡してもこれだけ人通りが少ないのは、閑散を通り越して荒涼たる感覚になる・・・会津若松駅から鶴ヶ城までは徒歩で40分もの距離だから、歩いて行き来しようという人自体少ないのは当然と言えば当然ではあるし、東京都内にだって「シャッター商店街」はたくさんあるのだから、地方都市の駅前通りに店仕舞いの跡が目立ったとてそう驚くこともないのかもしれないが、桜満開の土日の会津若松といえば福島県が一年で一番観光客で賑わう場所の一つだろうと思って出向いてきた自分にとっては、意外性を通り越して心穏やかならざる光景ではある・・・
後日調べたところでは、自分が最初に歩いたこの駅前から伸びる一本道は「大町通り」と呼ばれる道筋で、江戸時代には「町人街」として栄えた街道らしい。城下町の常として、江戸の昔はお城(=鶴ヶ城)に近いほうは武家屋敷の建ち並ぶ侍たちの居住区で、そこから離れた町人街である「大町通り」には武士・町人を問わず日常生活の用を満たすための商家が多く軒を連ねていたようで、今なお残る「呉服商」・「金物店」・「仏具店」等々は古い由緒を感じさせる店構え、盛時には地元の民芸品として有名な漆器「会津塗」の職人たちがその技芸と繁盛を競い合っていたことだろう。そうした江戸の昔からの来歴を誇る家々の多くが、開かれることのないタイムカプセルのようにひっそりと寝静まっている・・・埼玉県の川越などは、こうした江戸情緒のノスタルジーで街じゅうを意図的に埋め尽くすことで(少々「原宿」めいた過剰な)観光客誘致に成功しているが、交通の利便性がない会津若松にそうした繁栄の方程式は成立しないだろう(というか、同じ会津の「大内宿」の二番煎じのこの路線をいまさら「会津若松」が辿っても仕方あるまい) ― 「古い何かを見物に訪れるブラリのお客」は当て込めず、かつては大勢存在した「日常の用を満たしに来店する地元の顧客」の数も少ない ― この眠れる商店街を覚醒させるには、相当な知恵が要りそうだ・・・
・・・春らしいうららかな陽気に似合わぬモヤモヤした気持ちで、開いている店もまばらな一本道(車の流れも一方通行)の「大町通り」を延々歩いていると、時間の流れも淀んでしまうようで、目指すお城にはなかなか着かない・・・まぁ、徒歩40分の距離なのだからそうそう早くは行き着けないとわかってはいるが、道々目を楽しますお店や景物に乏しいだけに、時間の長さばかりが心に重い。例えて言えば、タイヤローラーの上で後輪ブン回すだけの鍛錬用自転車を漕いでいるような感覚で、次々視界に飛び込んでくる情景や状況の変化に時が経つのを忘れるサイクリングの愉悦からは遠いこのテクテクウォークにも、ぼちぼち飽きてきた・・・
・・・といった頃合いで、街並みがふっと一変した ― まず、車道(相変わらず一方通行)の色合いが、さっきまでの灰色から(歩道ともども)レンガ色に変わっている ― 開いているお店の数もさっきまでの「大町通り」よりは多い ― 後で地図で調べたところ、この変わり目の四つ辻は「会津五街道(会津西街道・越後街道・米沢街道・白河街道・二本松街道)」の起点に当たる場所だったらしい。「ホテル大阪屋」を右手に見る十字路の信号を渡った先の「赤い車道」の通りには「野口英世青春通り」という名前がついていて、博士ゆかりの場所らしい・・・しばしまっすぐ歩いたところで、信号待ちしながら左側を見ると、何やら駅っぽいたたずまいの構造物が目に入る ― 鶴ヶ城まではまだ距離がありそうだが、ここから見て左側のほうにあることだけは確かなので、試しに左折してみた ― 後で地図で調べたところ、この左へ向かう細い道は「北小路通り」、その先に突き当たる大通りが国道118号線および121号線の重複区間(流れはさすがに双方向)、その両側を鶴ヶ城方面へと伸びる商店街の名前は「神明通り(しんめいどおり)商店街」 ― 先ほど見えた駅っぽい構造物はそのアーケードで、国道の両側に並ぶ店の前の舗道の上の傘となってお客さんを雨や雪から護る役目を果たしている。先ほどテクテク歩いてきた「大町通り」が江戸から昭和への時の流れに埋もれて半ば眠っている感じなのと比べると、こちら「神明通り」ははるかにモダン、車通りも人通りもそこそこ多めで、活気がだいぶ違う・・・まぁ、閉店による「櫛の歯抜け」はそこかしこに見られるし、鶴ヶ城の桜が満開の土曜日にしてはいささか寂しい人出ではあるが、先ほどまでの(「野口英世青春通り」に至るまでの「大町通り」の)寂寥感と比べると、テクテク歩行で会津のお城を目指す旅人の足取りを軽くさせるに十分明るい雰囲気の街並みである。旅の前にネットで調べた評判の良い飲み屋さんもこの近辺にはかなり多かったことだし、鶴ヶ城の花見を終えた後は、夜食と飲み歩きでこの界隈にまたお世話になることだろう・・・
・・・その神明通り商店街のアーケードもじきに途切れ、今度は、まるで車道並みに幅広い歩道がまっすぐ延々伸びる区画に入る。遙か彼方に山が見え、青々とした会津の空の下、広々とした舗道を歩く足取りも自然と軽くなる。道の感じも街並みも、先ほどまでとは明らかに違う。ゴミゴミと建て込んだ都会ではまず味わえない笑っちゃうほどの開放感 ― これはつまり、かつての町人・商人の街から、ゆったりと余裕のある武家の居住区へと移ったということなのだろう ― 道路標識に「飯森山・鶴ヶ城、前方左折」とあるから、目指す会津のお城もいよいよ近そうだ・・・
・・・とはいえ、この広~い会津の歩道を鶴ヶ城方面へと歩いて行く人間の数は(もしかして進む方向を間違えたり行き過ぎたりしてはいまいか、と心配になるほどまでに)少ないので、人波を追う形での目的地到達は望めない・・・と思っていたところへ、さっきまで国道の右側を歩いていた青いジャージ姿の中学生っぽい女の子三人組が、信号を渡ってこっち側へ移ってきた・・・彼女たち、お城に向かうところなのかな?・・・とりあえず彼女らの後ろをついて行く形にはなったものの、元気な中学生たちの足取りは(楽しそうにペチャクチャおしゃべりしながらなのに)あまりに早すぎて全然ついて行けない・・・後ろ姿も小さくなってきた青いジャージの元気娘たちがやがて道を左折して消えると、ちょうどそのあたりにお堀と石垣が見えてきた ― どうやら、鶴ヶ城の外堀に到着したようである・・・
・・・しかし、かなり不安になってきた ― 会津若松駅からこのお堀に至るまで、テクテク歩いてきた自分が出くわした「鶴ヶ城見物に向かう(と、確実に想定される)歩行者」といえば、たったいま見た地元の青ジャージ元気娘三人組ぐらい ― お城の中には、いったいどれほどの数の観光客がいるのだろう?・・・
・・・入ってみてビックリ! ― いったいどこからこんなに降って湧いたんだ!?ってぐらいものすご~い数の花見客たちが城内を行き交っている! 至る所に植えられた桜の花の満開のさまよりも、この人波の見事さに、ただただ圧倒されてしまった・・・自分の地元の京浜東北線「王子」(徒歩13分)には八代将軍徳川吉宗公が江戸庶民のための行楽地として築いた桜の名所の「飛鳥山」があるし、山手線「駒込」(徒歩15分)界隈の旧名「染井」はいまや日本の桜の代表種となった「染井吉野(ソメイヨシノ)」の原産地、山手線「巣鴨」(徒歩17分)近くの「染井霊園」は(縁起が悪いから普通の人たちはまずもって訪れない)一部地元民限定の隠れた花見の名所だったりする・・・ので、日本や世界のどこでいかに見事に桜の花が咲こうがどれほどの花見客で賑わおうがさほど驚きもしないほどに「桜免疫」ができてしまっている自分だが、この鶴ヶ城の花見の賑わいにはびっくり仰天!!! その数の多さ自体にも驚いたが、会津若松駅からここに至るまでの人通りの少なさと鶴ヶ城内の怒濤の人波との信じられないほどの対比には、ただもう唖然とするしかなかった ― まるで狐につままれた気分というか、奇術でも見せられたような感覚である ― 1ヶ月前の「飯坂温泉春行脚」の際には二泊三日の福島の旅の間に出会った外国人旅行者の数はわずか6名という衝撃的な少なさだったが、この鶴ヶ城内の花見客には大勢の欧米からの旅行者が混じっており、日本人との区別が難しい台湾・韓国・中国あたりからの旅行者も入れると、もう数え切れないほどのインバウンド旅行客が来訪しているのは確実である・・・が、会津若松駅からこの鶴ヶ城に至るまでの道すがら、出会った外国人旅行者の数は完全にゼロであったし、外国/国内を問わず、鶴ヶ城の桜見物へと徒歩で向かう旅行者なんて、この自分以外、果たして存在したのかどうかさえ怪しい感じだった ― 40分以上の閑散散策の末に鶴ヶ城に入った途端、どこからどうやって生じたのかまるで理解不能なとんでもない人数の人波に遭遇した東京からの旅人の驚嘆が、おわかりいただけるだろうか?・・・たぶん、無理だろう ― それほどまでに摩訶不思議な世界が、会津若松の中でもこの鶴ヶ城の中に於いてのみ、局地的に、展開していたのである・・・
・・・こうなると、考え込まざるを得ない ― これだけ大勢の花見客が、どうやってこの場に出現したのか?・・・答えは2つに1つである ― この鶴ヶ城まで、自家用車あるいは直通バスで乗り付けたか、さもなくば会津若松駅からバスでやって来たかのいずれかだ ― いずれにせよその移動手段は「車」であり、「徒歩」ではない。さっき見た青いジャージ姿の中学生たちみたいな地元民を除けば、鶴ヶ城まで歩いてやってくる花見客なんてほとんどいないのだ・・・それはそうであろう ― 40分間ものテクテク行脚は、その途上にあれこれ楽しめる何かがない限り、誰もやろうとはしない・・・そして、残念ながら、今の会津若松は40分の時の経過を忘れさせてくれるような「道草の愉悦」に乏しい・・・その結果として生じたものが「鶴ヶ城の桜の周り(のみ)に唐突に出現した(車移動の)花見客の群れ」というわけである・・・
・・・何とも言えぬモヤモヤとした気分を抱えつつ、桜花を愛でるでもなく天守閣に上がるでもなくただ漫然と人波に身を任せてあちこちさまよい歩いているうちに、時刻はぼちぼち午後の5時・・・満開の桜の花よりもはるかに目につく膨大な数の花見客のざわめきに包まれながら、人で埋まった「鶴ヶ城大広間跡地」を眼前に眺める東屋(あずまや)のベンチに腰掛けてボーッと過ごす自分の脳裏には、午前中に水郡線「袋田」駅で見た「ミニ袋田の滝」の可愛らしくも寂しげな水の流れぬジオラマと、袋田駅前に停車した数台の観光バスとそこそこの数の観光客の群れとの対比が、フラッシュバックのように浮かんできた ― どれほど有名な観光スポットを抱えていても、お客が集まるのはその「スポット」一点のみ、集客効果が地元全体に波及してお金の流れを生じることはない。「地元」であっても「ゴール」でない場所には、お客は立ち寄ったりしない。彼らが存在するのは「出発地⇒休憩地点⇒お目当ての観光地」の各スポットのみ、それ以外のすべては彼らにとって存在せぬも同然、というよりむしろ「一刻も早くすっ飛ばしてゴールに辿り着くべき余計な何か」でしかないのである・・・
・・・今、自分の目の前をうごめくこの膨大な数の人々が、もし一斉に会津若松駅方面へと(徒歩で)移動し、花見の後のくつろぎのひとときを国道118/121号線沿いの喫茶店で過ごし、行楽の末の心地よい空腹を沿道の食堂で満たし、会津若松観光の締めくくりに(神明通りあたりの居酒屋で)会津の清酒で喉を潤す、といった「会津若松城下町満喫遊行」に流れるとしたら、城主なき後の鶴ヶ城も、今なお会津の民の経世済民に大いに力を尽くしてくれていることになろう・・・が、現実はそうではないということは、会津若松駅からここまでじっくり歩いてこの目と肌合いで確認した「店舗数」・「歩行者数」の少なさが実証している・・・
・・・「会津若松城内の桜」という「スポット」めがけて殺到するお客さんたちを、「会津若松城下町」という「エリア」へと導く何かが必要 ― この命題は(東京からブラリとやってきたこの旅人に指摘されるまでもなく)地元会津若松で商売を営む人々ならば誰もが痛感していることだろう・・・街並みの様子から見る限り、彼らの出した答えの多くは「廃業」だったようである・・・が、それは各商人の「個人的回答」であって、地元の「大町通り商店街」や「神明通り商店街」としての「責任ある回答」では全くない・・・今なお地元で頑張って商売している人々は、どのような「最適解」を思い描いているのだろうか?・・・会津の民の最大の強みである「我慢強さ」がその答え、というのでは、はっきり言って二進も三進も行かない状況であるように思われる・・・
・・・さりとて、時刻は既に午後5時を回っている ― 喫茶店や食堂はもう閉店時間だし、居酒屋が開くには少々早い、何とも中途半端な時間帯である・・・さてどうしたものかと迷いつつ神明通りのアーケードを歩いていると、日本中どこにでもある「TSUTAYA(ツタヤ)」のビルに毎度おなじみ「ドトールコーヒー」のお店を発見。「午後8時まで営業」とあるから、この店で軽く腹ごしらえしつつ時間をつぶして、閉店時間の午後8時頃に街へ繰り出せば、ちょうどいい塩梅に「のんべぇタイムの居酒屋巡り」になるだろう・・・ということで、東京にいるのと何一つ変わらない「ドトールコーヒーでのヒマつぶし」に入る・・・店内は混むでもなくガラガラでもない程良い閑散感、自分が席を取った横にはジャージ姿の高校生とおぼしき女の子が二人して学校内でのあれこれをおしゃべりしている(福島県の中高生は、放課後は私服でなくジャージ姿で過ごすのが決まり事なのだろうか?)・・・あっちの方では、ベールをまとった中東系の女性が連れているおチビちゃんのことを、地元のおばあさんが「かわいい!かわいい!」とやたら大声で(&老人特有の「針飛びレコード」のようなしつこさで)繰り返し繰り返しホメている・・・店の中央の円卓席にはイタリア人っぽいおにいさんがデカめのノートパソコンを持ち込んでキーボードを連打しているから、きっとネットゲームにでも打ち興じているんだろう。そのイタリアン風なお兄さん、途中でパソコンも荷物もそのままにして席を立ってトイレに行ったりしてたから、この地の滞在歴が長いようだ ― もし旅行者なら盗難を恐れて決してできない芸当なんだから、「会津の民は盗みなんて絶対しない」という信頼感を抱くに足るくらい長くこの地に暮らしているガイジンさんなのだろう ― そういう外来の地元民も、この会津の地には結構根を下ろしていたりするのだろうか? だとしたら、彼らは会津の何に魅かれ、何を生業として生活しているのだろう?・・・いささか興味が湧くところだが、一人ゲームに興じている外人さんに話しかけるべきシチュエーションでもないので、ここは軽くスルーしておこう・・・
・・・にしても、時間つぶしのコーヒー店での時の流れはなんでこうも遅いのだろう ― 午後8時の閉店時間まで粘るつもりだったが、あまりのヒマさかげんにいいかげん耐えきれずに午後7時直前でギブアップして店を出る・・・まぁいいや、ここはもう神明通り商店街、事前にネットで調べて評判が良かった居酒屋が集中しているあたりだから、開店していれば入ればよし、まだならとりあえずその立地だけでも確認しておいて、後でまた出直して来ればよいだろう・・・
・・・ということで「ドトール」を出て、神明通りのアーケードを少しばかり会津若松駅方面へ歩くと、事前に目星を付けておいた居酒屋の一つ「十六夜(いざよい)」というお店の看板が目に飛び込んできた。どうやらもう開店しているらしい・・・が、入り口のガラス越しに店内を覗き込んで見ると、2卓あるテーブルにはいずれも先客があって、今はちょっと入れそうにない雰囲気・・・午後7時~8時といえばちょうど夕食タイム、自分が望むのは夕食で空腹を満たすことではなく、じっくり腰を落ち着けて会津の清酒と名物の馬刺しなんかを味わいつつ(できれば)お店の人の口から「震災・コロナ禍・地元の景気」にまつわるお話を聞かせてもらう「長っ尻」滞在だから、ここはひとまず宿に戻り、リュックなんかは部屋に置いて、身軽になって出直して来ることにしよう ― 午後の9時過ぎになればもう「夕食メイン」のお客さんたちは消えて「呑んべえタイム」になっていることだろう・・・
・・・ということで、再度来店すべきお店(「十六夜」)にターゲットを定めつつ、ここがまたしても満席だった場合に入れそうな別の居酒屋にも目星を付けながら、夜道を歩いて「東横イン」へ・・・国道118/121号線沿いにひたすらまっすぐ歩くこと18分間、自宅から巣鴨駅までのんびり歩くぐらいの時間をかけて辿り着く・・・が、その間の信号の数の多いこと多いこと ― 後日改めて「Googleストリートビュー」でチェックしてみたら、神明通り商店街の入り口から「会津若松駅」への左折路に至るまでの直線路には、全部で12個もの信号がある ― ちなみに、ほぼ同時間をかけて我が家から「巣鴨駅」に(「染井霊園」経由で)行き着くまでに出くわす信号機の数はたった1つだけ、「駒込駅(北口)」(徒歩15分)までの信号機の数は(自分の感覚では異常なまでに多くて)7つ、「王子駅(南口)」に「飛鳥山公園」経由で13分間かけて行き着くまでに存在する信号機の数は3つである ― この信号機の数の違いを見ただけでも、福島県の交通がいかに「歩行者」ではなく「自動車」中心に展開しているかが歴然とわかる。
・・・とはいえ、時刻は既に午後7時を回っており、国道118/121号線を流れる交通量は相変わらず多いが、このメインの街道と直交する側道の多くは交通量が限りなくゼロに近い・・・にもかかわらず、国道沿いに歩く歩行者も自転車も、行く手の信号が「赤」になるたび、誰もがみな律儀に停止して、信号が「青」になるのを待っている。広い歩道を後方から自転車で並んで走ってきたジャージ姿の女子高生2人が、車も来ない赤信号でさも当たり前のように停止しては、楽しげにおしゃべりを続けている。信号が青に変わって走り出した彼女らの自転車が、また次の赤信号で停止しておしゃべりしている声が、後から徒歩で追い付いた自分の耳に楽しげに飛び込んでくる。横合いの道から走って来る車の気配一つない場合でも、「赤信号」を無視して渡ろうとする者は一人もいない ― これは、東京ではまずもって考えられない光景である。上述した通り、我が家から駒込までの道には7つもの信号機が設置されているが、そのうち「設置されるべき場所」に設置されているものは2つだけ、あとの5つは「なくても(横断歩道だけで)まったく問題ない」どころか「こんなところに信号機を設置してスムーズな交通の進行を邪魔すべきではない!」と文句を付けたくなるような場所に意味もなく(というよりハッキリと迷惑な形で)設置されており、その無意味な有害性を地元民の誰もが肌身で知っているため、「当然のこととして」信号無視されている有様である ― 東京には、そういう「守るほうがおかしい」バカげた信号やルールが山ほどあって、マトモな東京人ならそれらをバカ正直に守ったりはしない ― 「バカなルールは、作るほうが悪い! それを守るのはバカだけだし、それを守れ!と叫ぶのは最低最悪のバカだから、無視するに限る」というのが(お上りさんでもない限り)生粋の東京人の多くが自然に身に付けている処世術なのだ・・・そんな東京暮らしが板に付いている自分にとって、18分間の道のりの間に出くわす12もの信号の1つ1つを(交通量のいかんにかかわらず)ひたすら律儀に守っている会津若松の人々の振る舞いは、「あぁ、これぞまさしく(良かれ悪しかれ)会津っぽだなぁ」と思わず微笑みたくなるものであった ― 「ルールはルール、守るのが当たり前。ルールに反する振る舞いは、何がなんでもしてはならぬ。ルールがおかしいとか何とか文句を付けるのはよくないこと。ならぬものはならぬのです」という遵法意識が(例の「什(じゅう)の掟」を通して)幼年期から叩き込まれているわけであろう ― そうした意識は、「悪法への盲目的服従による社会全体の構造悪の放置」という弊害に直結するものとして指弾すべき筋も実に多いと言わざるを得ないのだが、この「夜間の赤信号徹底遵守」のような形で見せつけられると、もうこれはこれで「会津の文化」として承認&賞賛するよりほかはないだろう・・・ここまで見事な遵法精神の持ち主たちに対しては、「守るべき正しい法」以外を与えてはならない ― 「お国のために、死んで来い!」みたいな「狂った法」が平然と飛び交い易い日本では、「会津式遵法精神」が美徳ではなく悪徳になる危険性が極めて高いだけに、「その法は正しいか?」の評価基準が日本一厳格に求められるのが会津っぽであると言えるのだ・・・が、さて、実際の会津若松の人々には、「ならぬものはならぬ!」ならぬ「ならぬものは何故ならぬのか?/ならぬものをどう改めればよくなるのか?」を突き詰めて考える批判精神との二本立ての遵法精神が、どの程度まで根付いているだろうか?・・・両者は車の両輪であり、「遵法精神」だけの片輪走行ではロクでもない方向への暴走は免れないのだが・・・
・・・そういうわけで、東京でならヒョイヒョイ無視して進むであろう赤信号をも「郷(什)に入りては郷(什)に従え」の精神で守りつつ、さもなくば15分程度で着いたであろう「東横イン」の4階のヤニ臭い部屋に入り、最低限の荷物だけを身に付けた軽装の身なりを整えて、再び街に出る準備完了・・・がしかし、「呑んべぇタイム」にはまだまだ間がある・・・さりとてタバコの悪臭が染み付いたベッド9割の監獄みたいな部屋には居たくない・・・仕方がないから、タバコの悪臭のない狭苦しいトイレ&洗面所併設バスの区画に逃げ込み、やたら深い空のバスタブの中に腰を下ろして、意味もなくシャワーを浴びたりしてみる・・・心地よい春の散策ではさほど汗をかいてもいないし、夜の神明通りに飲み歩きに出かけるのにべつに「みそぎ」の必要もないのだけれど、「鶴ヶ城の花見の賑わい」と「神明通りの閑散感」との落差にいささかモヤモヤしたものを感じながら帰って来たところなので、ちょっとした験直し(げんなおし)のつもり・・・にしても、この「東横イン」は大失敗だったな ― 旅の宿の情趣は全くないし、会津若松駅には近いがお目当ての「鶴ヶ城」や「神明通り」からは遠すぎる ― 会津若松という街の地理的特性を事前にきちんとリサーチした上で、「大町通り」が終わって「野口英世青春通り」・「神明通り」に至る分岐点にある「大阪屋」あたりに宿を取っておくべきだったなぁ・・・
・・・そんなこんなでなかなか経たない時間をつぶし、午後9時まであと15分となったところで、神明通りの居酒屋目指して、ヤニ臭い「東横イン」の4Fの部屋を出る。
会津若松に来たからには当然会津の清酒が目当てだが、店の前の看板がしきりに「梅酒」をお勧めしていたから、最初はとりあえずそのあたりから(2種類ほど)いただきつつ、シークヮーサーサワーを経て、ほどほどの食事を取ってから、大将お勧めの日本酒「ゆり」の口を切ってもらう。自分はどちらかと言えば辛口の日本酒が好きなのだが、甘すぎず辛すぎず上品な飲み心地、升酒で二杯ぶん(×2=コップ4杯)飲んだが、さすがに良い酒は安酒みたいに後を引かないようで、翌日の「猪苗代湖周回サイクリング」にも何の支障も出なかった。めぼしい料理としては、会津名物の「馬刺し」のほか、「会津に来たらこれを飲め/食え、みたいなお勧めは?」の質問に大将が応えて勧めてくれた「梅水晶」というやつを(てっきり清酒と勘違いして)注文、海苔で包んでいただく上品なスタイル&味覚の梅は、日本酒のほろ酔いをほどよく和らげてくれるような佳い一品だった。ネット上では「巨大サイズの鳥の唐揚げ」が話題だったが、あいにく自分はそういう脂っこいやつは苦手なので、イカのフライあたりでお茶を濁しつつ、腹は主としてアルコールで満たすコースを取らせてもらったが、どれもこれも旨くって、会津若松到着以来(<会津バス営業所で騒ぎ立ててた老人>やら、<城下町にはちっとも流れて来ない鶴ヶ城の花見客>やらに)募っていたモヤモヤが、スーッと解消される思いのひとときだった。
他にあまり「手のかかるお客さん」がいなかったおかげで、大将は自分のテーブルの横に付きっきりで、東日本大震災直後のこと、コロナ禍のこと、会津の冬の厳しさ、そして会津若松の昔と今のことなど、いろいろ話を聞かせてくれた ― この点、「鶴ヶ城の桜満開の土曜の夜」にもかかわらずあまり客足が流れて来ない神明通り、という少々寒い現実が(地元には申し訳ないが)自分には幸いした形である・・・とはいえ、この「十六夜」には決して閑古鳥が鳴いていたわけではない ― 自分が入店した午後9時以降、新たに来店したお客さんたちは、電話で空席確認してやってきた観光客のカップルが1組と、地元のお得意さんらしい賑やかなグループが3組ほど。その常連さんたちはいずれも既にもう別のお店でかなりデキあがっちゃってた状態らしく、午後10時・11時という遅~い時間帯にさも当たり前のようになだれ込んで来ては、大声で楽しくやっている ― 他のお店が10時あたりで閉店しちゃった後で、「締めは<十六夜>で」といった感じで立ち寄れるありがた~いお店なのだろう・・・まだ消え入るには惜しい「十五夜の次の月」というお店の名前に似付かわしい展開と言うべきか・・・おかげで、こっちも日付が変わるまでたっぷり長っ尻させてもらって、大将とじ~っくりお話ができた ― 泊まるホテルの選択は間違えたが、入る居酒屋としてはこれ以上ない最高の選択だったわけである(・・・が、基本、このお店の閉店時間は「午後11時」なので、地元の元気な二次会・三次会グループの勢いにたまたま便乗できちゃったような場合以外は、みなさん、礼儀正しく「23時上がり」を励行してください・・・)
カウンター席の端に置かれた「祝!9周年」の花かごに見る通り、この「十六夜」の開店は東日本大震災の5年後の2016年。2011年には仙台で修行していたという大将の述懐によれば、「仙台の震災復興は驚くほど早かった」という。東京の人間からすれば「仙台」は「福島」よりもだいぶ北方の遠い土地のイメージだが、福島県人は「豪勢な買い物・行楽」には当然のごとく仙台まで足を伸ばすらしい。そんな「東北一派手な盛り場」の威信にかけて、太平洋岸の仙台の復興にかけるバイタリティは、福島の内陸部<中通り>・<会津>をはるかにしのいでいたようだ ― もっとも、東西に長い福島県では、震災・津波・原発事故のトリプルパンチで大打撃を受けたのは太平洋岸の<浜通り>のみであって、その西側の<中通り>や<会津>にはあの大地震もさしたる損害を与えてはいないから、「復興」というキーワードは(物理的には)あまり当てはまらないようである ― 唯一、「あの原発事故が起きた<福島県>」というだけで被ることになった「風評被害」の見えないマイナス要素が(物質的損害以上に)重く長くのしかかり続けた形である・・・そうして東日本大震災の直接的被害をさほど大きく被らなかった<中通り>と<会津>は、地震・津波・原発事故で帰るべき家を失った<浜通り>の被災者たちの一時避難先としての役割を担うこととなった・・・震災および原発事故に対する補償は、<浜通り>に対しては手厚く、西に移るにつれて手薄となり、<会津>が被った原発事故風評被害への補償としては「数万円の見舞金」が出ただけだったらしい・・・それとは対照的に、原発事故の一番の被害者として莫大な金銭を受け取っている<浜通り>の避難民たちの「豪遊」のおかげで、震災後数年間の<会津>は一種の「バブル景気」に沸いたという・・・何とも複雑な思いにさせる話である。
東西に長い県内を山や川が自然の境界線となって隔てている福島では、西端の<会津>と中央の<中通り>とをつなぐ鉄道路線はあるものの、太平洋岸の<浜通り>へは自動車を使わない限り移動できない ― 自動車用道路は通っていても、鉄道用の線路は敷かれていないのである ― 一ヶ月ほど前、14年目の3月11日の「東日本大震災追悼復興祈念式」に(献花のみの一般参列者として)加わるために<中通り>の飯坂温泉に旅した際、ついでに<会津>か<浜通り>かのいずれかにも足を伸ばそうと思って移動手段を調べた際に初めて知ったのだが、原発事故で全国的に名を知られることになった「楢葉町」・「富岡町」・「大熊町」・「浪江町」といった<浜通り>の土地に行くための鉄道路線は、太平洋岸を南北に走る「常磐線」だけ、福島県内を東西に走る列車の「磐越西線」は<中通り>と<会津>を結んでいるのみで<浜通り>にはつながっていない。<中通り>から<浜通り>の原発事故被害地域へ鉄道で向かおうとすれば、「郡山」から「いわき」まで「磐越東線(ばんえつとうせん)」を使って(ほぼ茨城県近辺まで)南下した上で改めて「常磐線」に乗って北上せねばならず、東京の「日暮里」を起点に「常磐線」で北へ移動するよりはるかに時間も手間暇もかかる ― すなわち、福島県内の東西への鉄道移動は<中通り>と<会津>の間では可能でも<浜通り>との間は実質的に不可能なのである・・・こうした事情もあってか、<浜通り>は、同じ福島県内の<中通り>・<会津>よりむしろ、同じ太平洋岸にあって常磐線でつながる<茨城県>や<宮城県(主に仙台)>との結び付きのほうが(経済的にも、ひょっとしたら心情的にも)深いようだ。311のインパクトに関しても、内陸部にあって「大地震」の被害だけを受けた<中通り>・<会津>よりは、<浜通り>の場合、同じ太平洋岸で「大地震+津波」のダブルパンチで甚大な被害を被った「宮城県」・「岩手県」との近親性が強い ― 「震災復興」というくくりで言えば、物的損壊からの復旧に必死に励む太平洋岸の「福島県<浜通り>」・「宮城県」・「岩手県」の「目に見えるリカバリー」にはニュースバリューがあるし、その復旧努力に対する助成金の算出・拠出もやりやすい・・・が、その一方で「物質的被害」ではなく「原発事故発生源としての<フクシマ>」という形で背負わされた<中通り>・<会津>の「目に見えない風評被害」への補償と回復努力に対する公的支援は、どうしたって曖昧で手薄なものになる・・・そんな中、避難してきた<浜通り>の人たちが莫大な補償金を使って豪遊するおかげで地元にささやかなバブル景気をもたらす状況は、「原発事故風評被害者」としてロクな賠償も支援も受けてはいない<中通り>や<会津>の人々にとって、不愉快とまではいかずとも、決して歓迎すべきものではなかったはずである・・・もっとも、辛抱強く慎み深い<中通り>や<会津>の人々の口からそうした不平不満が声高に飛び出す姿はあまり想像できないが、<浜通り>と<中通り&会津>との間には、鉄道不在の地理的分断に加えて、震災後のあれこれを通じての心理的分断も生じているのではないか、と思わせるお話が(今回の「十六夜」の大将からも、前回お世話になった飯坂温泉の「小松や」の女将さんからも)聞けたのは、二度に渡る福島への旅の大きな収穫であった ― 福島県内でのそうした「分断」を自分は決して望むものではないが、東京にいて耳にする「福島県の震災復興」というやつがもっぱら<浜通り>のみに限定されていて<中通り>も<会津>もまるで「福島県にあらず」みたいな感じだった理由の一端も、実際に福島県に足を運んでみて少しだけわかった気がする ― 「東日本大震災」の(地震+津波の)被災者としての<浜通り>の同類は<仙台(宮城県)>や<石巻(岩手県)>であって、<中通り>や<会津>ではなかったのだ・・・そして「東京電力福島第一原子力発電所」の(水素爆発事故の)被害者としての補償は<浜通り>のみに集中していて、同じ事故の(風評被害の)被害者であるはずの<中通り>や<会津>はまるでカヤの外なのである ― 「東電福島原発」から経済的実入りを得ていたのは<浜通り>だけ、その原発事故の手厚い補償を受けているのも<浜通り>だけ、放射性物質拡散の風評被害を受けたのは<中通り>・<会津>だけ(<浜通り>の住民は現地にはいないのだから風評被害の対象外)なのに、その風評被害に対する補償は「数万円の見舞金」だけ・・・これでは、いくら辛抱強い<中通り>・<会津>の人達だってたまったもんじゃないから、<浜通り>に対する心理的距離も当然広がるだろう ― その<浜通り>の原発事故被害中心地も、今や、事故以前の住人たちの多くは帰郷を諦め、代わりに「あの巨大な悲劇からの立ち直り」の先兵たらんとするよその土地からの若い移住者たちが集まって、まるで別の街みたいになりつつあるようだし、それに対する公的支援もやっぱり手厚いようだから、そんな「新たな<浜通り>」に対しては、旧来の住人たちも、<中通り>・<会津>の人たちも、それぞれなりに思うところは複雑なことだろう・・・もちろん<浜通り>にはしっかり復興してもらいたいが、「<会津>・<中通り>・<浜通り>三位一体一枚岩での<福島県の復興>」という構図は思い描き難い、というのが現実なのではなかろうか・・・
・・・「復興」ということで言えば、「福島県」というくくりよりもまず「地元」の凋落ぶりを何とかせねばならぬのが「会津若松」といった感じのようだ ― 今回この地を旅するにあたり、事前にネットでめぼしい飲食店を調べてみたら、「会津若松駅」や「鶴ヶ城」といった「pivotal spots(要になる地点)」の周辺にはまばらで、両者のちょうど中間に位置する「神明通り」・「野口英世青春通り」に何故か集中しているという不思議な現象に気付かされた。実際この足で歩いてみても、両者から外れる「大町通り」や「鶴ヶ城周辺」には開いているお店が少なく、これら三者は明らかに別エリアの様相を呈している ― この奇妙な街の存在様態の理由を大将に尋ねたところ、「かつてはこの神明通りの周辺に大きな百貨店が並んでいて会津若松市の一大商業拠点になっていたから」という答えが返ってきた。後日調べたところでは、この「野口英世青春通り」から「神明通り」に至るあたりはかつて「会津五街道(会津西街道・越後街道・米沢街道・白河街道・二本松街道)」の起点となっていた土地なので、百貨店の立地条件にも適っていたわけであろう・・・が、そうした百貨店も、21世紀に入ってから続々と閉店している:
■「長崎屋会津若松店」(2002年閉店)
■「大善デパート(後、ニチイダイゼン⇒ニチイ会津若松店)」(2009年閉店)
■「若松デパート(後、中合会津店)」(2010年閉店)
■「ライオン堂(後、リオンドール本店)」(2020年閉店)
・・・こうした「街のシンボル」とも言うべきデパートが21世紀の最初の十年間に相次いで撤退し、2011年には東日本大震災が起こり、最後に残った大型店が撤退した2020年はあのコロナ・パンデミックが始まった年である・・・飲食店には死ぬほどキツい「外出自粛」の数年間を経てコロナ禍の嵐がようやく過ぎ去ったのは2023~24年頃・・・2025年現在の会津若松がどれだけ打ちのめされた状況にあるか、思い知らされるデータである・・・
・・・それでもなお、駅前の「大町通り」に比べれば、「神明通り」の活気は絶えてはいない。アーケードを歩けば空き店舗が目立つが、「出店を考える人、全力で応援します!」といった看板も出ていて、商店街としての復活・再生に賭ける気概は、通りすがりの旅人でしかない自分にも伝わってくる・・・問題は、「失われた人出」をどうやって取り戻すか、である ― 今日一日の体験で骨身に沁みて痛感したことだが、「車で移動する旅行者たち&福島県民」を相手にいくら力み返ってみたところで、彼らは「旨い会津の料理や清酒」を味わうために神明通りに立ち寄ってはくれない。「人出」を求めるなら、ターゲットとすべきはやはり「磐越西線で会津若松駅に降り立つ旅行者」であろう。「ドライブ人種」を「酒」で釣ることはできないのだし、そもそも車を転がして移動する人には「目的地」以外の何も目に入らない ― 会津若松で「ドライバーのゴール」になり得るのは「鶴ヶ城」であって、「大町通り」や「神明通り」は通過地点にしかならないのである ― そう考えた場合、会津若松(「大町通り」・「野口英世青春通り」・「神明通り」)の飲食店街に「人出=活気」を取り戻すには、そこへ「旅人」を運んで来る「磐越西線」さらには「水郡線」あるいは「東北本線」といった「ローカル鉄道」に乗る人々の数を増やすしかない・・・「東北新幹線」や「直通バス」は対象外である ― あれは「目的地(のみ)への移動手段」でしかなく、それに乗る者の頭には「ゴールまで可能な限り短時間で移動すること」しかなく、そんなせっかちな旅客にとって「ゴールまでの途中駅」は「速やかに切り捨てるべき余計な過程」でしかないのだから ― 目指すべきは「ローカル列車での長時間をかけての旅程」をこそ「旅の醍醐味」として味わう「非日常的な移動体験」を求めて東北に向かう旅人であり、彼らにとっての「列車での移動」を「無駄に費やされる長い忍耐のプロセス」から「じっくり味わうべき旅のエッセンス」へと昇華させるような画期的工夫が必要なのだ・・・
・・・そうしてあれこれいろいろ思いを巡らしつつ、元気で賑やかな地元の常連さんの寄せる波(三波ほど)にチャッカリ乗っかる形で午前零時過ぎまでしぶとく居座っちゃった東京からのしつこいブラリ客に、終始にこやかに付き合ってくれた「十六夜」の大将には、心底より御礼申し上げます ― 会津っぽの人情と辛抱強さにしっかりと触れた思いがしました(・・・大将は元々<浜通り>の<いわき>の人だそうだけど・・・)・・・神明通りで飲み屋さん探してるみなさんも(入り口のガラス越しに空席が確認できたなら)入ってみるといいですよ ― 居心地の良いお店です(・・・居心地よすぎて23:00過ぎまで粘るのは、地元の常連さんに乗っかる場合以外は、御遠慮しましょうね・・・)
■1■(外来観光客は)閑散地の接客と繁華街のそれの違いを知れ♪筆者音読♪(↓2↓)(↑4↑)
ネットというのは便利なもので、観光地のお店に関する情報は、その立地から利用者の口コミまで、現地に行かずとも手に入る・・・そして、そうした口コミを流した人物の「人としての器」もまた(当人が無自覚のうちに)知ることができる(まぁ、べつに知るに値するような情報でもないのだが・・・)
会津若松のお店に関するネット上の口コミを、どれでもいいから開いて見てみるといい ― そこにはしばしば、「たいへん親身になってくれて、良いお店でした」という感激の高評価に混じって、「客である自分を無視して、店員どうし/別のお客さんとの間でず~っと話してて、なんて態度の悪い店だろうとアタマにきた! あんな店、絶対行くべきでない!」という全否定の悪評が見られるはずである・・・ここで、ちょっとした「国語」の授業 ― 全く正反対のこれら二つの情報のうち、どちらを信じればよいでしょうか? ― 答えは、こうである:
★情報としては、どちらも正しい ― ある人がそのお店に入った時、店員が別の店員あるいは先客との間で話に花が咲いている、という状況は、いくらでも想定し得る。会津若松のような「滅多にお客が来ない街」ではなおさらそうである。お客が来ないヒマな時間を店員どうしのおしゃべりで満たす必然性が、福島県のような「閑散」を基調とする土地と、東京・横浜・鎌倉・大阪・京都あたりの「人だらけ」の場所とで、いったいどれほど違うことか、ちょっとアタマを使えばどんなバカでもわかるはず・・・にもかかわらず、「自分は客だぞ! その客である自分をほったらかしといて、店員どうしでおしゃべりし続けるだなんて、いったいどういう了見だ!?」などとネット上で息巻いて鬱憤晴らしを図るなんざ、自分自身の「アタマの悪さ&人品の低劣さ」を(テメェじゃそれと気付かねぇうちに)露呈するばかりの惨めな所業・・・こういう連中の多くは、逆に、自分が入ったそのお店の人が自分に対して「滅多に来ない大事なお客」としての厚遇を施してくれた場合には「すっごく親切な良いお店! 絶対おすすめです!」みたいな激賞を流すもの・・・ということで、両極端の評価が生じるわけである。
・・・ってなわけで、会津若松のような「お世辞にも盛っているとは言えない観光地」への旅行者には、次の2つの心得が必要:
★A★ 「(人が滅多に来ないがゆえの)人恋しさ」の裏返しとしての「(たまたまandたま~に居合わせた相手への)人なつっこさ」が、自分以外の相手に向けられていたとしても、無闇に腹を立てるべからず
・・・人だらけの大都会で埋没しがちな我が身への鬱屈を抱える人間というのは、「全然売れないヒナ壇芸人」みたいなもの ― 「何としてでも自分のほうに注目を引きたい!」・「他者はもっと自分に注目すべきだ!」という意識(=「見遣し:みおこし」根性)の塊だから、自分以外の何者かが「<不当に>注目を集めている!」と感じると思い切り不機嫌になって、周囲のすべての人間に当たり散らしてその場の雰囲気をブチ壊しにかかる ― ハッキリ言って「人間の出来損ない」みたいな生き物だが、そういう出来損ないのクレーマーどもがギャァギャア騒いで誹謗中傷による営業妨害に走った場合、指弾の対象となるのはその「出来損ない人間ども」ではなく「クレームを付けられた人・店・会社」のほう、という狂って腐った構造が今の日本社会では野放しになっているので、その結果、どんな出来損ない人間どもが混入しているか知れたもんじゃない「人だらけの大都会」では、「特定の誰かへの手厚いサービス」を避けるために「あらゆる相手に対して手薄な(=木で鼻をくくるような)機械的対処」へと雪崩を打って低落して行くことになる・・・そうした「大都会の非人間的対人態度」に慣れ切った我が身の「人間以下の生き様」を認識し改めるための機会として、「会津若松の(良かれ悪しかれ)<都会じゃちょっとあり得ない>接客態度」を活用できないようでは、人としての器が小さすぎて、まったくお話にならない ― 福島県のお店では、お客のほうから「すいません、・・・してほしいんですが」と積極的に語りかけられるまでは、店員さんは店員さんで「ごくごく人間的な営み」を続けているもの、とわきまえるべし・・・お客から声をかけられてもなおガン無視し続けるような腐れ根性の店員は、都会はともかく、福島県にはいないはず ― 自分の方から何のアクションも起こさずにいても店員のほうから自分に向かって「いらっしゃいませ」と機械的に声をかけてくる都会の「マネキン店員」みたいな応対が福島県内のお店では見られなかったからといって、「無視しやがって!」と憤慨したりするのは「自分って、無視されがちな(みじめな)存在なんだよなぁ」という自己不信の裏返しと知るべし ― 「見遣り(みやり)もできない見遣し(みおこし)オンリーのダメな生き様」に染まっている大都会の出来損ない人間どもは、逆に、福島県に旅をして、己れを見つめ直したらよいかもしれない。
★B★ たまたま自分自身に向けられた「厚情」を、いい気になって独り占めするべからず
・・・今回自分がお邪魔した居酒屋「十六夜」では、一人きりのブラリ客にもかかわらず、大将は「四人掛け」のテーブルを宛がってくれた・・・が、自分としては、その後「二人以上のお客」が来店したら、そそくさと「カウンター席」に引っ越してテーブルを譲るつもりでいた・・・終始自分のテーブルに張り付いてこっちの話に耳を傾けたり地元の話をじっくり聞かせてくれたりした大将には感謝感激ではあるが、そうしたさまを「一人のお客とばかり話し込んで、こっちは無視!?」と息巻きそうな別のお客が来店したならば、自分としてはあっさり大将からの手厚い扱いを「別のお客さんに譲る回り持ち意識」を終始発動し続けていた・・・結果的には、その後来店した複数のお客たちはみんな「奥の座敷席」に収まってくれたし、各グループとも「身内会話」だけで十分盛り上がる編成だったので、自分はカウンター席に移る必要もないままに大将とじっくりお話を続けることができたのだが、そうした「他者(他のお客さん&お店の都合)に対する心配り(=「見遣り:みやり」)」の意識は(たとえどれだけ食事が進みお酒も入っていい感じになったとしても)人として当然必要なたしなみというものである ― 福島にはそうした人としての嗜みが備わった人が実に多い感じだったが、大都会にはびこる「人間の出来損ないども」にはそういう芸当は逆立ちしたってできやしない ― 「最初にこの席に着いていたのは自分なのだから、後から何人の客が来ようが、たった一人でこの四人掛け席を占めている自分が、今更カウンター席に追いやられるべきいわれはない!」 / 「いま話をしているのは自分なのだから、後からきたヤツに割り込ませてたまるもんか!」という狭い了見のエゴイズムに凝り固まっていて、それを指弾する「マトモな人間」に対しては「失礼だ!」と叫んで譲らない・・・そういうダメ人間は福島に来るべきではない、と切り捨ててしまってもよいのだが、そういう狂って腐った生き様にドップリ浸っている日頃の自分自身を見つめ直し改める機会として福島への旅を生かす程度の「最低限の人間的度量」ぐらいは、持っていてほしいものである ― そうした度量を磨いたり他者の中に見出したりする場としては、福島は、実によい「人間道場」・「人間劇場」だと思う・・・そう思えない人は、やっぱり、都会でだけ好きに生きて人に嫌われて勝手に死んでくださいな。
■2■(会津さん)「什(じゅう)の掟」はよいけれど、「あいづっこ宣言」はいかがなものか?♪筆者音読♪(↓3↓)(↑1↑)
会津若松の「鶴ヶ城」は、幕末から明治にかけての戊辰(ぼしん)の動乱のクライマックス、すなわち「古い徳川幕藩体制終焉の地」として(北海道は函館の「五稜郭:ごりょうかく」と並んで)一つの象徴となっている。徳川幕府最後の(第十五代)将軍徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷(および明治新政府)に対する恭順の意を示すべく江戸(⇒水戸)で謹慎する一方、藩祖である保科正之(ほしなまさゆき=徳川三代将軍家光の異母弟)の遺した「何がなんでも徳川家に対する忠節を貫くべし」の掟に忠実であるがゆえに「幕府に弓引く薩長の官軍」を敵に回して「賊軍」となり、「江戸無血開城」で振り上げた拳のやり場を失った明治新政府軍による「旧幕府勢力討伐」の見せしめの場となって徹底的に破壊されたのが「鶴ヶ城」と「会津藩」であった(現在のお城は1965年に復元されたものである)・・・江戸の庶民は、この会津には二度救われている ― 「江戸城に代わって叩き壊された会津の鶴ヶ城」(1868年)は二度目、その会津の藩祖の保科正之公(会津の地では「土津霊人:はにつれいじん」)は「明暦の大火(1657年)」で焼け落ちた「江戸城天守閣再建」という「徳川家の威信」のためにしかならぬムダ金使いをやめさせて、焼け出された庶民の救済のために幕府の御用金を惜しみなく使った「江戸の震災難民の救い主」でもあったのだ・・・そうした「会津の御恩」に一度として報いることもないままに、「<東京>電力<福島>第一原子力発電所」がまた2011年の水素爆発事故で「会津(福島)に対する三度目の借り」を作ってしまったわけで、生まれも育ちもずっと東京の之人冗悟(のと・じゃうご)としては、三代続いた江戸っ子の意地にかけても、自分にできる範囲での「福島(会津)に対する恩返し」をしたいと心底から望んでいる次第である・・・
・・・そうした「会津(福島)に対する個人的思い入れ」を宣言した上で敢えて言わせてもらうが、江戸幕藩体制下の会津藩で年少者教育の指針として定められた「会津藩 什(じゅう)の掟」は(封建時代の倫理観を今に伝える「史料」としては)よいけれど、それを下敷きにした「会津若松市 あいづっこ宣言」(2002年策定)に対しては ― 難癖付けるつもりはないが ― いささか注文を付けたい節がある。
・・・まずは、両者の内容紹介と、それに対する寸評から:
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはおじぎをしなければなりませぬ
三、うそを言うてはなりませぬ
四、卑怯な振舞いをしてはなりませぬ
五、弱い者をいじめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で女と言葉を交わしてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
■会津若松市「あいづっこ宣言」・・・「会津藩士養成学校(日新館)入学者の心得」である「什(じゅう)の掟」を現代風に改変した「会津の子供たちのあるべき姿」(2002年策定):
一.人をいたわります
二.「ありがとう」「ごめんなさい」を言います
三.がまんをします
四.卑怯なふるまいをしません
五.会津を誇り年上を敬います
六.夢に向かってがんばります
やってはならぬ やらねばならぬ
ならぬことはならぬものです。
・・・と、こういう形で並べられた「批判」(非難や難癖ではない)を、今の世の会津っぽたちは、どう受け止めるだろうか? ― 「ケチ付けるだけなら誰でもできる! 文句があるなら、おまえの方で、もっと立派な<新 会津っぽ宣言>でも作って並べてみろ!」と反論してくるだろうか?・・・自分が考える本物の会津っぽなら、それぐらいの気概は当然持っていることだろう・・・ということで、以下、この之人冗悟(のと・じゃうご)のpersonal principles(個人的信条)の中から「特に<会津っぽい>やつ」だけを見繕って並べた「十箇条」を掲げておく ― べつにこれを「新 会津っぽ宣言」として採用して会津若松の街じゅうに飾れ、などと言っているわけではない ― 「既存の何かに文句を言うなら、それに替わる新たな何かの具体的提案込みでやれ!」という我が私的信条に忠実に、「俺が会津の人間なら、こういう風にやるよ ― 会津って面白そうだから、ちょっと訪ねてみるか、という気分になった人々を世界中から呼び寄せるために、英語版も付けてね」と示しているだけである:
■一)礼には礼を返せ。非礼に非礼を返すな。
■二)守れぬ約束はするな。守れぬ法を放置するな。
■三)法や立場を笠に着るな。むしり合わずに支え合え。
■四)助けが要るものを、見て見ぬ振りはするな。
■五)強いものすがりは、弱い者いじめの裏返し、と知れ。
■六)心の富を貶めてまで、懐の富を増そうとするな。
■七)人への根源的信を失うな。他人様の信を裏切るな。
■八)故ある意地は張り通せ。故なき意地は張り倒せ。
■九)旧きを誇らず貶さず、新しきを驕らず拒まず、ただ相応しきを尊べ。
■十)今あるものも常ならず。無常の刹那の有り難みを知れ。
(以下は<誠賢十箇条>の英語版。タイトルにある<the Honest Wise:誠実にして賢明なる者たち>は、チョイといじれば<the Honest AIZU:正直者の会津>に化ける)
■ONE) Pay courtesy for courtesy. Never pay discourtesy for discourtesy.
■TWO) Make no promise you can’t keep. Leave no rule unamended that can’t logically be followed.
■THREE) Play no tug of war on the strength of law or position. Resort to mutual support, not to mutual plunder.
■FOUR) Never turn a blind eye to someone or something in need of help.
■FIVE) Remember: depending on the strong is the reverse side of stamping on the weak.
■SIX) Never try to thicken your purse by thinning down your wealth of the heart.
■SEVEN) Never lose basic trust in others. Never betray the trust others put in you.
■EIGHT) Stay dogged when you reasonably should. Slap the dogged who reasonably shouldn’t.
■NINE) Be not proud or contemptuous of oldness, do not boast nor loathe novelty, just soberly appreciate adequacy.
■TEN) What is here is not here to stay. Thank all the more for what happens to be here in this fleeting world.
■3■(現状、まるで無意味な障害物みたいにたちはだかる)国道118/121号線沿いの数多の信号機を(日本、否、世界初の)「SL」に変身させよ♪筆者音読♪(↓4↓)(↑2↑)
「SL」といっても「会津の国道に蒸気機関車(steam locomotive)を走らせよ」と言っているわけではない ― 「smooth(円滑に流れる)」・「smart(AI制御の)」・「sane(マトモな)」・「[traffic] lights(信号機)」に変えよ、という提言である。
国道118/121号線沿いの真夜中(午前零時過ぎ)の歩道を、「十六夜」帰りのほろ酔い気分で「神明通り」から「会津若松駅前」まで歩いていると、わずか18分間の直線移動の間に12個もの信号に引っかかる・・・そうして行く手を阻む「赤信号」を、自分同様ほろ酔い気分であろう会津の人たちはみんな、律儀に守って立ち止まっている ― もはや側道から出て来る自動車などほとんどないにもかかわらず、「ならぬものはならぬ」精神を貫いて「赤信号なのだから渡ってはならぬ」とばかり、ごくごく自然に無為の時を過ごしている・・・その遵法精神は実に尊いが、尊いだけに、その精神を発揮する対象もまた「尊ぶに足る正しい法」でなければ道理に反することになろう ― 側道からやってくる自動車の通行がないにもかかわらず「一定時間ごとに機械的にやってくる<赤信号>」でメインとなる国道118/121号線の円滑な車&人の流れを阻むのは、道理に照らして「ならぬ」振る舞いというものであろう? そんな<ならず法>の赤信号にもかかわらず律儀にこれに従い続けるのを求めるのは、ちっともなってない怠慢行為ではないのか? ― なにせ、「走行する自動車の現在地と速度を正確に見定める光学装置」と「異なる方向で交差する車&人の流れのいずれを優先的に青信号にすべきかを瞬時にして正確に計算する人工知能(AI)」の組み合わせによって「側道から車が来ない限り、メインの交通路となる国道118/121号線方向の信号機は常に<青信号>とし、側道からやって来る車が感知された場合および横断の意思を示した歩行者がいる場合に限り、国道118/121号線方向の信号機を<赤信号>とする」という気の利いた芸当が十分可能なテクノロジーが既にもう存在するのだから ― これは、東京のような狂気のごとき交通量の街では当面実現不可能な芸当であるが、会津若松の交通量ならば十分可能なはずである ― それを実現することは、「<誠賢十箇条その二>守れぬ法を放置するな」の実践であると同時に、「機械的時間差方式信号ではない、交通量連動方式スムーズスマート信号(SL)」を(おそらくは世界で最初に)現実のものとすることで「国道118/121号線沿いの会津若松」の名を全世界に知らしめる格好のPR活動となるだろう。交通量も距離もそこそこ以上ある「国道118/121号線の直線路」だからこそ、実現できればかなりのニュースになるし、ただひたすらその道をスイスイ歩いてその円滑さに感動するためだけにやってくる旅人だって(SL導入直後は)見込めるような会津のセールスポイントにもなる・・・いずれ(そう遠くないうちに)世界のあちこち(やがてはすべて)で現実のものとなるテクノロジーではあるが、いち早く実現した地域は歴史にその名を残すことになるのである! ― 聞けば、「神明通り南」の十字路にある信号機は東北地方で初めて(1956年に)設置されたものだというが、どうせなら「世界初」の栄冠のほうがシャレている。そのためのテクノロジーは既にある。それを現実に適用するための人材は大都市に偏在しているかもしれないが、大都会の道路には「実験的テクノロジーを実装するにはあまりにも多すぎる交通量」という足かせがある。もしこれを会津若松が世界に先駆けて実現すれば、「会津っぽの<ならぬものはならぬ>は、思考停止の盲目的遵法体質ではなく、<ならぬ法>を放置することなく<尊ぶべき法>に変えることで自然に誰もが<正しい法を正しく守る>ことができるように<社会の構造悪>を決して見過ごさぬ批判的正義感をも包含する、実に見事な<法の精神>なのだ!」ということを全世界に向けて示すことができる ― これだけオイシイ条件が目の前にいくつもぶら下がっているのに、それをモノにするべく動くだけの気概もないようなら、「あいづっこ宣言六.夢に向かってがんばります!」が泣きますよ、会津さん・・・
■4■(「会津若松」とか「福島県」とかの)狭い「地元」の利益や繁栄ではなく、「消滅の危機にあるあらゆるローカル鉄道とその沿線地域全般」の起死回生策を、大勢の有志を巻き込んで、実行に移せ♪筆者音読♪(↓1↓)(↑3↑)
先の章の最後のほうで述べた「ローカル列車での移動プロセスを、旅の目的そのものへと昇華させる画期的工夫」の話である ― それさえあれば「赤字ローカル線とその沿線エリアを取り巻く<人出不足>問題」の全てが解決する、とは断定しないが、それに手を付けずにただ「遠のいた客足を取り戻すための各商店街単位のローカルな忍耐&努力」だけをいくら重ねても事態の好転はあり得ないことだけは確実である。真剣に「人出」を取り戻す意志があるならば、「地元」のみならず「鉄道会社」と「沿線の寂れたローカルスポットの数々」をも巻き込んで「鉄道での移動体験そのものの愉悦を味わいに来る旅人」を爆発的に増殖させる試みに着手すべきなのだ ― そのつもりで動くなら、現状実現可能なテクノロジーだけで、「ローカル列車での移動過程そのものを、旅の主目的へと昇華させる」ことのできる画期的新機軸の開発&実装は(ものの数年程度の開発努力で)可能になるはずである・・・
「客足減少に苦しむローカル線&沿線観光地」に、「それぞれの持ち場で」ではなく「全員一丸となって」必死にその実現に動く意志と行動力があるならば ― それを真摯に示してくれさえすれば ― 不肖この之人冗悟(のと・じゃうご)、(ほぼ即座に実現可能なプランの形で)知恵を貸すのを惜しみはしない・・・のだが、おしなべて保守的な福島県民に、どこの馬の骨ともわからぬ野郎のお知恵拝借を積極的に仰ぐ進取の気性を求めるのがいかに空しいことかは、既にもう(前回の「飯坂温泉春行脚」とその後の実証実験を経て)十分熟知しているこの之人冗悟だけに、もしこのプランの実現に本腰入れて取り組むならば、パートナーとして選ぶべきは「(農地と工場への依存からの脱却努力があまり感じられない)福島県」ではなく「(水郡線活性化に賭ける熱量も高く、その手段としての先端技術実装に役立つ人材の調達先としての筑波学園都市をも抱えている)茨城県」だろう、という漠たる予感がある・・・
・・・だがしかし、もし会津若松の側で「ローカル鉄道を熱愛するとともにその衰退を心底憂える地元民」と「そこそこ以上のIT技術を持つ理系人材」と「アイディア実現にまつわる権利・義務関係調整のプロフェッショナル」を用意できるなら、声を掛けてもらえれば、福島県に対する個人的思い入れの強いこの之人冗悟、喜んで力になりますよ ― 「神明通り商店街」の「(ローカルなレベルでの)再生に賭ける熱意」は今回の旅で(そこそこは)伝わってきたので、その意志と熱意を「磐越西線・水郡線・東北本線」あたりまでの「ワイド・ローカルなレベル」まで広げてもう少し多くの「心底の危機感をもって動く東北の民」を巻き込んでくれさえすれば、少なくとも、この四半世紀(2000~2025年)の間に会津若松が陥った「引き潮」の潮流にそれなり以上の変化をもたらすことだけは、確実に約束できますから・・・もっとも、この之人冗悟がその画期的新機軸の実装を通して見据えているのは、「会津若松」とか「福島県」とか「東北地方」とかだけのローカル鉄道&沿線救済ではなく、日本全国ひいては全世界で「廃線」の危機に瀕したローカル鉄道と「消滅」の危機に瀕した閑古鳥観光地のすべて・・・なので、もし加わるつもりなら、「自分たちの地元にだけ利益誘導」みたいなセコいこと考える人達はお呼びでないし、早晩「世界を相手にするための英語力」もまた必要になってくるので、どうぞそのおつもりで・・・
・・・ということで、「会津若松」にまつわるあれこれの話題は、これにてひとまずおしまい(・・・また、会えるといいんだけどね)
会津若松駅前は「地方都市」といった感じだったが、猪苗代駅前は「田舎」そのものののどかな光景 ― 駅舎を出た右側にはタクシーとバスが停まっており、左側の端には目指す「猪苗代観光協会」の建物があって、その真ん前が帰路(15:02)にお世話になる東京までの高速バスの停留所 ― これで、とりあえず押さえておくべき施設の立地は全部把握した・・・が、お目当ての貸し自転車(いなチャリ)の貸し出し開始まではまだ50分近くある・・・ということで、駅周辺をブラブラ散策してみることにする・・・まだまだ早朝でお店が開く時間ではないが、そもそもお店自体、駅舎の真ん前に1つ2つある以外、存在していない感じである。左側へ行っても山と田畑以外何もなさそうな雰囲気、まっすぐ行けば磐梯山に行き着いてしまいそうなので、とりあえず右側の道を辿って歩く・・・観光地の会津若松駅前を伸びる「大町通り」には、閉店したかつての商家が寂しげに並ぶ感じだったが、こちら猪苗代駅前の田舎道は、観光とは無縁の農家が立ち並んでひたすらのどかな雰囲気・・・だが、どこまで歩いても観光客向けの施設とかには出会えそうにもない・・・やがて、左側にアクアマリン・カラーの歩道橋がある十字路に差し掛かる。彼方には山が見え、直進すると「米沢」に至ると標識に書いてある。十字路を渡った右側には「Kubota(クボタ)」の農機具販売店があり、「家族のために、農作業の安全を」という幟(のぼり)がショールームの中に見える ― 今は亡き自分の父親は「久保田鉄工」で定年まで働き、福島の親戚の一人は農作業中に転倒したトラクターの下敷きになって死んでいるだけに、何とも言えず複雑な気分にさせられる幟である・・・さてと、これ以上先に進んでも何の意味もなさそうなので、ぼちぼち猪苗代駅へと引き返すことにしよう。
途中、標識も目安になるような店も建物も何もないので、迷子になりそうになりながらどうにか駅舎まで帰り着く・・・が、猪苗代観光協会が営業開始する08:30まではまだ間があるので、駅舎内の端にあるトイレで一息入れてから、トイレを出た先のベンチ前にある自販機でホットの缶コーヒーを買う ― ゆうべは日付が変わるまで神明通りの「十六夜」で会津の清酒を味わって、今朝は午前6時台には起床、そもそも昨日の朝からして午前5時台に起きて8時間かけての鈍行列車の旅をしているわけで、2日分の睡眠不足が溜まっているから、せめてカフェインチャージしてこの先のサイクリングチャレンジに備えておこうというわけである・・・が、久々に飲んだ缶コーヒーは、何とも言えずヘンな味 ― 昨晩から今朝にかけての「東横イン」での宿泊&朝食みたいで、金出して味わうような代物じゃなかったな、って感じ・・・
・・・その缶コーヒー自販機の横にあるコインロッカーでは、欧米系の女性が荷物を預けている。キャンパーの出で立ちだから、山のほうへと向かうつもりなのだろう・・・駅前右方のバスが停まっているあたりには、やはり欧米系の男性3人組(手ぶらのシャツ姿)が楽しげにはしゃいでいる ― 猪苗代には、日本人より外国人旅行者のほうが多いのかもしれない ― 昨日乗った磐越西線(郡山⇒会津若松)でも、この猪苗代あたりの駅から乗り込んで来た台湾・中華系の女性たち(4~5人ほど)の旅行客がいたし、鶴ヶ城の桜見物には数え切れないほどの外国人旅行者が混じっていたし、諸外国ではもう「放射能汚染地帯としてのフクシマ」というイメージは(少なくともこの会津若松・磐梯山方面に関しては)薄らいでいるのかもしれない ― それは喜ばしいことだが、インバウンド旅行者に比して、日本人の旅行客のほうはどうなのだろう? 猪苗代エリアの観光と言えば初夏~晩秋の磐梯山登山がメイン、冬場のスキー場のこともたま~に耳にするが、春~夏の観光の目玉は、何なのだろう?・・・とりあえず、今日一日(と言っても午後3時までにはアガりだが)猪苗代湖の周りを自転車で巡れば、観光地としての猪苗代(湖)の隆盛/衰退のさまは自ずと感じ取れることだろう・・・
・・・そうして時刻が08:30になったところで、開いたばかりの猪苗代観光協会に一番乗り・・・「いなチャリ」の貸し出し開始にはまだ30分あるが、とりあえず必要書類だけ用意してもらった上で、猪苗代湖一周自転車巡り(通称「イナイチ」)の大まかなコースやお勧めのお店などを案内してもらう・・・自分の地元の荒川土手には長~いサイクリングロード(本当は自転車用道路じゃない緊急用河川敷道路)があって、南は東京湾に面した江戸川区の外れから、北上すると埼玉県の武蔵丘陵森林公園のあたりまで(一部、迷路みたいになってるけど)延々チャリンコで気持ちよ~く走ることができる・・・それと同じイメージを抱いていたのだが、どうも猪苗代湖周辺にはそういう自転車専用のコースが整備されているわけではなく、自動車と同じ道路の端を走る形になるらしい・・・ま、いいさ、自分の本当の目的は猪苗代湖周辺の「商況観察」であって「快適サイクリング」ではないのだから・・・
・・・そうして「いなチャリ」借りるのに必要な書類を書いているところへ、先ほど駅のコインロッカーに荷物を預けていた欧米系女性が入って来た・・・猪苗代観光協会の案内係の女性は、どうやら英語は苦手でスマホの翻訳機能が頼りらしい・・・ということで、いささか出しゃばりとは思ったが、欧米系女性に向けて「Shall I translate for you?(あなたに代わって、翻訳しましょうか?)」と申し出て、案内所の女性との間での通訳をする成り行きとなる ― 話をかいつまんで言えば、女性はベルギーからの来訪者で、磐梯山に登山するつもりで来たらしいが、あいにく磐梯山はまだ山開き前なので一般旅行者は(警察にあれこれ届け出を出さない限り)山には入れない、ということで「山の麓までバスで行って、散策コースを楽しんで来てください」という話で落ち着いた ― のだが、この程度の話の通訳をするのに、自分の口から出て来る英語のたどたどしいことったら、もう・・・英語教材開発者として我ながらこっ恥ずかしい水準 ― 英語例文山ほど書いてそれをMP3音声として吹き込んではいても、外国人との英語での対話は(記憶している限りでは1992年以来)全然してないからなぁ・・・っつーか、その英語教材開発のために部屋に閉じこもりっきりで日本人との会話自体ほとんどしない仙人みたいな生活を30年以上続けてきたわけで、これじゃあ(和/英を問わず)コミュニケーション能力サビつくのも当然か・・・ま、還暦も過ぎて、今さらコミュ力磨き直したところで、さしたる意味もないだろうけど・・・
・・・ってなところで、めでたく「いなチャリ」(前カゴ&電動アシスト付きの8段変速27インチクロスバイク)を借り出し、気分を取り直して、猪苗代湖一周チャレンジに出発!・・・サイクリング専用路ではない普通の国道を通って湖の周辺を回る形だそうだから、何はともあれ猪苗代湖に向かってひた走り、大きな自動車道に出くわしたなら、左側通行でただひたすら湖に沿って(反時計回りに)回ればいい・・・田舎道をあぁでもないこうでもないと辿りつつ、磐越西線の線路を渡り、猪苗代湖の方角へ向かう・・・結構な時間と距離を経て、ようやく湖が見える交通量の多い道に出る・・・道幅はさほど広くなく、思っていたより猪苗代湖から離れていて、「湖畔周遊道路」という感じではない ― 国道と猪苗代湖の間には農地があって、その向こうに何となく猪苗代湖がある雰囲気を感じながら、後方から来る自動車の存在を気にしつつ走る、といった感じ・・・後で調べたら、この道は国道49号線、地図の上でも猪苗代湖との間にはだいぶ距離があり、湖畔の雰囲気がようやく味わえるのは、相当な距離を走った末に「猪苗代観光船」が見えて来るあたりからである・・・が、そうしてレイクサイドビューが楽しめる区間に出たと思ったのも束の間、道はまた木立に囲まれて、猪苗代湖から遠ざかって行く感じになる・・・他に進むべき道もないので、仕方なくそのまままっすぐ走り続けるのだが、もうどう考えても猪苗代湖の周りを走る感じではなくなってきた・・・やがて「この先、会津若松」という道路標識に出くわしたところで、さすがにこれじゃダメだろうと判断し、反対車線に出て引き返す・・・とにかく、猪苗代湖の存在が全く感じられなくなる前の段階で、湖の方向へ曲がる道路を辿らなければならない・・・やがて「会津レクリエーション公園」という看板のあるT字路を発見、方向的には猪苗代湖沿いに向かいそうなので、とりあえずそっちの側道へ分け入ってみる・・・
・・・そこから先は、とにかく右往左往、湖畔の道に出たかと思えば、また山中や田舎道に戻される、の繰り返し・・・ところどころに出現する「イナイチ」という小さな青いコース案内に半信半疑で従うも、「これ、明らかに違うだろ?」と思えるとんでもない場所に導かれ、「クマに注意」の看板のある山の中に迷い込んだり、田んぼ道の真ん中や枯れ草ジュウタンのデコボコ道の上で黄色いヘビさんと(二回ほど)御対面したりと、まぁ、「サイクリング」というよりは「オリエンテーリング」みたいな珍道中となった・・・
・・・この間、自転車で走る人間にはただの一人も出会うことがなかった ― 途中で分け入った山間のワインディングロードでは、1時間以上走っても出くわした自動車の数わずか6台 ― 国道49号線を外れて迷い込んだあの道・この道のどれもこれも、まるで人通り・車通りのない長~い私道みたいな状態で、路上駐車したまま猪苗代湖に腰まで届くゴムブーツ履いて入って釣りを楽しんでるドライバーを一人見た以外、人間には全く出会うことがない・・・これ、普通の旅人にとってはかなり不安な状況だろうが、自分にとっては「!最高!」の雰囲気であった ― 道路上には砂利や木の実が落ちていたりして必ずしも快適な路面状況ではなかったが、残雪もなく、赤信号に引っかかることもほとんどなく、とにかくひたすら風を切って走る・・・こんな輪行体験、東京では(たとえ草木も眠る丑三つ時に街に繰り出したって)絶対に味わえないし、会津若松の国道118/121号線でも(山ほど出くわす信号機に阻まれて)やっぱり味わえまい。猪苗代湖の周り(というにはかなり難があるヘンテコ道)だからこそ体験できる「誰にも何にも邪魔されずに一人でひた走るチャリ転がし」の爽快感と、数十分おきに出くわす「ここ、いったい、どこなんだ?」のワンダー迷路の数々 ― 最初に思い描いていた「荒川土手サイクリングロードの猪苗代湖版」のストレートな爽快感とは全然違ったが、「田舎で迷子」のワクワクするスリルと、時折出現する「猪苗代湖が見える誰もいないワインディングロード」を疾走(というか、失踪?)するカタルシスは、ちょっとよそでは味わえないユニークな体験であった・・・まぁ、「迷子の不安」はともかく、悪路では「こんなとこでパンクしたら万事休すだぞ」の恐怖と二人連れの道中ではあったが・・・
・・・たぶん、この日自分が辿った猪苗代湖周辺コースは、wonder course(驚嘆すべき行路)ではあったが、wander course(間違って辿った迷路)だったと思う ― あんな右往左往しまくる迷子すれすれの輪行体験の道程が、「猪苗代湖一周サイクリング(イナイチ)」として大々的に宣伝されるサイクリングコースであるはずがない ― けれども、こんな愉快な迷走体験、味わえた自分は(パンクもバッテリー切れもなしに帰り着けたことまで含めて)最高にラッキーだったと思う・・・
・・・その後、田舎の畦道をあちこち振り回された挙げ句、地元の農家の人から教わった山道に分け入り、凄まじく荒れまくった上り坂をそこそこ登った末に(二本めの)巨大な倒木に「とうせんぼ」食らったところで、それ以上進むことを断念 ― 時刻は既に午後1時を回っていたし、バッテリー残量も半分を切っていた ― これはもう「ここが折り返し地点、後はもう、来た道を戻るがよい」という猪苗代の神様のお告げだろう ― iPhoneで現在地を確認したところ、猪苗代湖全周のまだ5分の1しか進めていなかったのだから、本来正しい「イナイチ」のコースから一体どれだけ逸脱した道を迷走し続けてたんだよ!?ってな話である・・・そうして、復路は「勝手知ったる他人の庭」みたいな感じになった迷走コースを駆け抜けて、味も素っ気もない国道49号線に出て、「猪苗代観光船(<かめ丸>&<はくちょう丸>)」の姿が見える湖畔のホテル(LAKE SIDE HOTEL MINATOYA)の食堂で一休み、パンとサラダとアイスコーヒーの遅い昼食を取ってから、猪苗代駅方面目指してひた走り、「野口英世記念館」横の売店で「ゆべし」と「きんつば」のおみやげを買い、国道49号が115号と交わるT字路を左折、目の前に出現した巨大な「道の駅 猪苗代」に立ち入りたい誘惑に駆られつつも、時刻はすでに午後2時をかなり回っているので泣く泣く断念、巨大ビニールハウスのイチゴ園を横目で見ながら、猪苗代駅目指して突っ走る・・・が、走れど走れど駅には辿り着けない ― どうやら(山道でもないのに!)またまた道に迷ったようだ・・・iPhoneで現在位置を確かめようとするが、どうしたわけか電源が落ちたまま起動しない・・・時刻は既に午後2時半に近い・・・最後の最後になんという展開 ― これで帰りのバスに間に合わなかったらバカもいいところだな、山中の迷路の数々を見事クリアしておいて、猪苗代駅の目と鼻の先の平坦路で迷子になるなんて・・・と、道端の家の庭に農家のおじいさんを発見、すがる思いで猪苗代駅までの道筋を尋ねる・・・教えられた通りに(残り少ないバッテリーを最大出力にして)チャリを飛ばすと、やがて前方には見覚えのあるアクアマリン・カラーの歩道橋とKubota(クボタ)のお店が・・・あぁ、この道を曲がれば、ようやく猪苗代駅に帰り着ける ― 今朝の8時頃にブラブラとこの十字路まで時間つぶしに歩いた挙げ句迷子になりかけながら猪苗代駅まで戻った時は、「我ながらムダなことしてるなぁ」と思ったりしたが、どうしてどうして、あの朝の散策のおかげで命拾いした形である・・・
・・・かくして、駅前の「猪苗代観光協会」に「いなチャリ」を無事返却できた時点で時刻は午後2時40分過ぎ、スリル満点のワンダーサイクリングを満喫して心底楽しかったことを伝えたら、職員(女性1男性1)の方も喜んでくれた・・・ついでに、同じルートで先日サイクリングに出たイギリス人旅行者の三人組の一人が途中でコケて地元のドライバーの車に助けてもらって戻って来てかえってその親切に感激してくれた、みたいな話をしてくれた ― この猪苗代まで来て「いなチャリ」転がして冒険と当惑の旅に出ようという奇特なお客は、ガイジンさんに限られるのかもしれない ― 正規のコースさえ辿れば日本人だって問題なく「イナイチ」できるのかもしれないが、事前のコース下見も道中のスマホナビゲーションもなしにただ「湖になるべく近い道」を当てずっぽうに走るだけでは、たぶん、誰もが「ワンダーランド」(wonder:驚嘆じゃなくwander:迷走のほうのワンダー)に迷い込むことは確実なので、ガイジンさんにとってはかなりタフなワンダー体験になっちゃうことだろう・・・ま、そうなったらなったで、救いの神として必ずや出現するであろう「会津の民の人情」に包まれて感動して帰る、というオチが付くだろうから、それはそれでいいんだけれど、既定路線からの逸脱に免疫のない小心者の日本人旅行者には、ひたすらツラいばかりのトラウマ体験になっちゃうかもしれない・・・
・・・この自分にとっても、今回の「イナイチもどき」の珍道中は、面白い体験ではあったが、イマイチ達成感のない結末となった ― 猪苗代湖一周どころか全周の5分の1も回れずに引き返して来たので、「猪苗代湖周辺にはどのような形で旅行者に訴えかける魅力(のお店)があるか?」を確認するという今回の旅の主目的は完全に頓挫した形である ― わずか5分の1ばかりの国道49号線沿いの行程に関して言えば、「湖畔のリゾート感覚」を味わえるスポットと言ったら「猪苗代観光船」乗り場付近の広場とその近所の「LAKE SIDE HOTEL MINATOYA」の窓際の席ぐらい ― それ以外にも飲食可能とおぼしき店はいくつかあるにはあったが、いずれも「国道49号線沿いのドライブイン」といった感じであって、「鉄道旅で猪苗代観光に来たブラリ客向けのお勧めスポット」とは言えないものばかり・・・まぁ、全体の5分の1しか見ていないのだから総括的なことは言えないが、どうやら「猪苗代湖は、車で来るのが前提の場所」ということだけは言えるようだ ― 少なくとも「貸し自転車に乗って楽しく周遊できる観光地」とは間違っても言えない・・・散々コースを間違って結局全体の5分の1も回れなかった旅人が言うのだから、間違いはない(・・・あるいは、コースさえ間違わなければ間違いなく楽しいサイクリングスポットになるのかな?・・・どうしてもそうは思えないんだけど・・・) ― 少なくとも、国道49号線の端の石ころや木の実や枝がいっぱい落ちている車道を(一部だけ「歩道」はあるけれど)自動車と並んで走る長~い道のり(途中に暗いトンネル2カ所付き)は、普通のサイクリストにはかなり不安なコースのはず・・・自分なんかは、交通量の多い東京の明治通りの車道の端をチャリでしょっちゅう走ってるから問題ないが、それでもやはりバックミラーなしの貸し自転車で国道49号線を車と並んで走るのは、さすがに心安い体験ではなかった ― あの道を走るなら、「右手首に巻き付けるリストバンド型バックミラー」は自前で用意したほうがいいだろう・・・本来なら「いなチャリ」にバックミラーが付属するのが一番良いのだが・・・
・・・というわけで、全般的にいささか消化不良気味に終わった今回の「猪苗代湖一周サイクリングチャレンジ」、また次回ここへ来て今度こそ(ちゃんと正しいコースを回って)コンプリートを目指すつもりがあるか、と問われれば、答えは「NO」である・・・結局、猪苗代湖の周りをいくら回っても「湖の景色」はどこからどう見たってちっとも変わらない ― サイクリング体験にバリエーションを加えるものは、お店その他の「人の運営する観光スポット」だが、どうやら猪苗代湖にはそうした彩りがかなり乏しい、というか、それなりのスポットがあったとしてもそれは「自動車旅行用」に特化されたものであって、自転車で移動する限り「走っても走ってもなかなかそれらしい施設には辿り着けない」感じの空しさがある。湖畔には何カ所か「キャンピング」や「フィッシング」のための平坦なエリアが見られたが、いずれも「自動車で乗り付けるための場所」であって、「磐越西線猪苗代駅下車の旅行者」はお呼びでない感じだった・・・今回は5分の1しか見ていないけれども、福島県の特性からして、他の5分の4もやはり「自動車旅専用リゾート」となっていることはほぼ確実だろう ― 総合的に考えて、猪苗代湖周辺がリゾート地として意味を成すのは「車で移動する家族または友人のグループ」に対してだけ、というのが今回の感想である・・・少なくとも、「猪苗代駅」を出発点とする限りは「ブラリとやってきた旅人がサイクリングを楽しめる湖畔のリゾート」ではない。もしこのエリアがサイクリングを目的とする旅行者たちで賑わってしまったなら、自動車と同じ道の端を自転車走行せねばならぬ以上、両側1車線ずつしかない狭い国道49号線を「自転車+自動車ペア」がそれぞれ逆方向へ流れる図は、あまりに危険すぎて想像したくもない感じである。今回の自分は、午前9時過ぎから午後3時近くまで走っても他に一台の自転車とも遭遇しなかったからよかったものの、もし逆方向にもサイクリストたちが列を成して走っていたら「接触事故」の確率がどれほど上がるかと考えると、心底ゾッとする・・・
・・・もし猪苗代湖周辺を「サイクリスト用リゾート」にしたいのであれば、国道49号線より湖畔寄りの農地(の一部)を「自転車専用道路」に作り替える必要があるだろう・・・が、それが現実的に可能だとは思えない ― 農地買収に労苦や金銭を投じるには、「サイクリスト用リゾートとして生まれ変わった猪苗代湖」がよほどの活況を呈して地元経済を潤してくれるという確実な見通しが必要だが、現状、とてもそういう想定は成り立たないからである・・・
・・・今回は訪問せずに終わった「磐梯山」方面はどうだろう?・・・山の麓の「土津(はにつ)神社」まで行って保科正之公の霊に御挨拶するだけなら(3キロ少々なので)自転車でも大丈夫そうだが、それをしたい気分になるかどうかは(御朱印集めが趣味の人でもない限り)神社と猪苗代駅の間にある市街地に「立ち寄ってみたい観光スポット」がどれくらい存在するかによるだろう・・・磐梯山のスキー場までは猪苗代駅からチャリ飛ばしても行けそうな距離ではあるが、冬の雪道を自転車走行なんて無理だから「自動車での移動」が必須・・・裏磐梯にある「五色沼」までは路線バスで30分の距離(15キロ以上)なのでこれまた自転車で行くには無理がある・・・あれこれ考え合わせると、旅行者が猪苗代駅に降り立つ可能性は(「磐梯山登山」および「五色沼」への経由地として以外は)かなり低くなる ― 猪苗代駅周辺に「外国からの旅行者」が目立つ気がしたのは、事情を知っている日本人旅行者が「鉄道利用での猪苗代訪問」を避けているという現実の裏返しなのかもしれない・・・まぁ、それでも「会津磐梯山への登山者」という御得意様さえ来てくれれば(晩春から晩秋まで)観光地としての猪苗代は十分やっていけるのかもしれないが、「いなチャリ」の活躍機会はあまり多くなさそうである。
自分が乗り込んだ時にはバスは既にもうほぼ満席 ― 彼らのほぼ全員が「鶴ヶ城の花見を終えて会津若松から東京に帰る観光客」であることは確実であるが、彼らのうちのいったい何人が「大町通り」や「野口英世青春通り」や「神明通り」の飲食店を潤す消費行動を取ったのだろう ― 「電車旅行」を避けての「バス移動」を選ぶ観光客にとって、ゴールの「鶴ヶ城」とスタート地点「会津若松駅」との間には、「バス(orタクシー)移動の余計な時間&出費」があっただけなのではあるまいか・・・
・・・左側の最後尾の通路側で窓外の景色を見ることもできぬ座席に身を沈めたその後は(一ヶ月ほど前の飯坂温泉旅行の帰路に「那須高原サービスエリア」であったような出来事も何もなく)ウンザリするような渋滞に巻き込まれて1時間半近く遅れて王子駅に(前回の旅と同じ午後8時過ぎに)到着するまで(二度のサービスエリアでの休憩で外に出た以外は一切何のアクションもないまま)シートベルトで縛り付けられた座席の上で口から目まで覆った黒いマスクで車内の明かりをシャットアウトしながら誰一人言葉を発することもないお通夜のようなバス旅をひたすら寝て過ごした ― 「猪苗代駅前」から「王子駅前」までの5時間近くは、ただそうした「移動」の過程であって、往路の水郡線のような「旅」ではまったくなかった・・・それが「バスor自動車or新幹線」を移動手段に選んだ旅行者が必ず陥る構造的必然 ― 「旅」はゴール地点(このバスの場合は<会津若松>、より正確に言えば<鶴ヶ城>)から始まり、ゴール地点のみで終わる・・・途中のすべては「無意味でわずらわしい(早く終わってほしいのになかなか過ぎ去らない)移動の時間」でしかない・・・ゴール地点以外の全てに於いて、旅人は「旅程(=旅人の感覚ではムダな移動時間)」から完全に疎外されており、その「ムダな中間過程」を可能な限り切り詰めるために選択されるのが「高速バス」であり「新幹線」であり「手近なリゾートスポット」なのである・・・「旅」というのはそもそも「日常からの離脱」であり、その旅程の全てが「非日常的体験」として賞味されるべき「珍味」であり「酔狂な暇つぶし」であるというのに、まったく何とまぁ本末転倒のゴクロウサマなヒマツブシもあったものだ・・・とかなんとか言いつつも、自分もその「何の意味もない移動過程」を「動く仮眠室」としての高速バスの中で(5時間ほどもかけて)過ごして東京に帰って来たわけではあるが、このプロセスの無意味な空しさというやつは、何度味わわされてもまったく免疫ができない「苦い後味」である ― 前回の飯坂温泉春行脚の帰路みたいに「ちょっとしたエピソード」が慰めを添えてくれる場合はいいけれど、今回の「猪苗代駅⇒王子駅前」の渋滞バスには「仮眠」以外の何もなかった・・・それが「単なる移動としての自動車&新幹線の旅」の宿命なのである ― この「死んだ時間」をどうにかしようとしても絶対にどうにもできっこない「車&新幹線」の構造的難点、そこにこそ、実に、「赤字ローカル列車とその沿線の閑古鳥観光地」の起死回生の復活策がある・・・のだが、まぁ、その具体的内容についてはここに書き記すことはしない ― 福島県(できれば、会津若松)あるいは茨城県(の水郡線再生に真剣に取り組む人々)からのお声掛かりを、ただ粛々と待つばかりである・・・
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。。。(今回の旅は)おわり(・・・だけど、之人冗悟の福島行脚は、まだ続く・・・たぶん)