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31短歌10)おなじみの風の中の違うメッセージ ― 冗悟、さやかに「老いの感覚」を教える

10)(秋立つ日よめる)

あききぬとめにはさやかにみえねどもかぜのおとにぞおどろかれぬる

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」

藤原敏行(ふぢはらのとしゆき)

♪(吟)♪

★おなじみの風の中の違うメッセージ ― 冗悟、さやかに「老いの感覚」を教える★

冗悟:やぁ、これはヘンな所でお会いしましたね「さやか」さん、1100年も昔の短歌の中とは!・・・びっくりした?

さやか:この短歌にですか? 全然。よーく知ってますこれ。日本人ならたいていおなじみじゃないんですかこれ。冗悟サンがどうしてこれ選んだのか、よくわからない。

冗悟:君が「わたしこんな短歌今まで出逢ったことないわ」って言わなくてすむようにするためさ。

さやか:それはどうも。わたしこんなになじみ深い短歌今まで出逢ったことないです。

冗悟:人は馴染めばナメるもの・・・さやかさん、ほんとによーくわかってるつもりかな、この短歌?

さやか:はぃ・・・でも、あらためてそう言われてみると・・・この短歌、ちょっと見ただけじゃわからない深い意味がある、ってことですか?

冗悟:君の若い瞳には映らない何かが、あるかもね。

さやか:それって、わたしもっと大人にならないとこの短歌の真のメッセージはわからない、って意味ですか?

冗悟:そうとも言えないな。たぶん君はこの詩の意味はちゃんとわかってると思うよ。でも、君も年輪を重ねるにつれて、それ以上のものをそこに感じるようになるかもね、ってことさ・・・俺みたいにね。

さやか:わたしたちの大好きなあの《春毎に花の盛りは有りなめど 相見む事は命なりけり:はるごとにはなのさかりはありなめど あひみむことはいのちなりけり》の歌みたいに?(第五話参照)

冗悟:うぅーん・・・いいこと言うねぇ、君の「教えの父」として、俺、ほんと鼻高いよ。

さやか:喜んでもらえてうれしいわ、「パパ」!

冗悟:夏の終わりの出し抜けに優しい風の中には、我が愛しの教えの娘よ、うら若き君の想像も及ばぬ何かがあるのだよ。

さやか:なんかそれ、「教えの父」というより「教会の神父さま」みたいです、冗悟サン。

冗悟:本当はハムレットの声で言ったつもりなんだけど ― 「There are more things in heaven and earth, Horatio, than are dreamt of in your philosophy.:この天地の間には、ホレイショよ、君の哲学では想像も及ばぬ何かがあるのだよ」

さやか:うーん・・・もっと成長するまでわたしにはいずれにせよわからない、って言いたいわけですか?

冗悟:あるいは、年を取るまでは、ね・・・というか、「自分も年なんだなぁ」って感じるようになるまでは、かな。

さやか:つまり「風の音にぞ驚かれぬる」は「わたしも年とってきてるんだなぁ、って気付くこと」をさりげなく意味してる、ってことですか?

冗悟:万人向けの解釈じゃないけどね、俺はただ自分自身の個人的回想を口にしてるだけで。

さやか:つまり、冗悟サンは以前に「俺も年取ってきてるんだなぁ」って感じて、夏の風の変化にそれをしみじみ思い知らされたことがある、ってことですか?

冗悟:まぁ、だいたいそんなところかな。

さやか:それって、なんかヘン・・・「三十過ぎても全然変わらなかったのは俺的中心核が決して変わらなかったからだ」って、前に冗悟サン言ってた気がする・・・。(第六話参照)

冗悟:正確に覚えててくれて、嬉しいよ。

さやか:それなのに今度は、夏の風の変化に驚いて、俺も年取ってきてるなぁって感じたんですか?・・・本質的に変わることのない「俺的中心核」への積み重ねで生きる限り、冗悟サンの夏は永遠に色褪せないんじゃなかったんですか?

冗悟:矛盾してるように聞こえるかい?

さやか:うーん・・・きっと冗悟サンのことだから何か魔法の解決法隠してるんだと思う。一見矛盾する「永遠の若さ」と「突然感じる老い」との間の溝を埋める魔法の公式・・・耳澄まして聞いちゃおぅ、っと。

冗悟:俺はいつでも君に必ず何か納得行く答えを与えてくれるはずって、信じてる?

さやか:信じてます。

冗悟:オッケー、ならその信頼に敬意を表して、ひとつ即興で短歌などひねってみるか・・・というか敏行(としゆき)の短歌を即席でいじくり回してみようか・・・こんな感じ ― 《おいぬるとわがこころにはおもはねど こらのおとにぞおどろかれぬる》老いぬると我が心には思はねど 子等の音にぞ驚かれぬる。

さやか:「子らの音」・・・わたしも含めた冗悟サンの「教え子たち」のことですか?

冗悟:大当たり。

さやか:「子らの音にぞ驚かれぬる」って、わたしの何の音に驚くんだろぅ?・・・「結婚しました」の音信、とか?

冗悟:そうそう。もしかしたら「うちの子供たちのこと、教えの父として、よろしくお願いしますね」とか、いつの日か君が俺に頼みに来たりして。

さやか:あまりに遠すぎてあり得ない感じ・・・自分が結婚してる姿だって想像できないのに。

冗悟:自分が年取った姿だって想像できないだろ?・・・突如として自分の周りで「風が変わる」までは・・・そう、変わるんだよ、周りの風が、自分自身は変わらなくても、少なくとも自分では全然変わってないと感じていても、風は確かに変わるんだ、自分の周りの光景を一変させてしまうんだよ、自分が「自分自身」にとっても「周りのみんな」にとっても同じように若かった当時とは、ガラリと変わっちゃうんだ。そうなった時、突如として気付くんだよ ― 「他の連中にとって、自分はもう若くないんだな」って・・・自分の内面ではまだ若いと感じていても、ね。

さやか:わかりました・・・ぁ、いぇ、実際には今はまだわからないけど。冗悟サンの言うことが本当だったなぁってわたしが気付くのは、他の人たちの目から見てわたしがもう若くなくなっちゃったその時、なんですね・・・でもそれって、この秋風の短歌から出てくるお話としてはちょっぴり悲しすぎる気もします。

冗悟:あぁ全くだ、俺もそう思うよ。でも、そういう突飛な解釈だって、引っ張り出せないことはないってこと、それを君に知ってもらいたかったのさ。平安時代の短歌は本質的に人間中心であって純然たる自然描写じゃないから、自分自身の個人的感覚をそこに投影することができるのさ。短歌は構造的に「含蓄」の芸術だからね、言葉数も少ないし、説明も詳しくないし・・・31文字ってのはいい数だよ、短すぎもせず長すぎもせず。17文字の俳句ほどぶっきらぼうに短くもなし、140文字のツイッターほど無意味に多過ぎもしない。

さやか:若すぎもせず老けすぎてもいない・・・それならわたしの場合、25から27あたりかな・・・三十いくつじゃ女性としてはちょっと年行きすぎっぽいし。

冗悟:おっと! お口に気をつけようね、さやかさん、実際三十路の坂を越えた時、君がどう感じるかはその時になってみないとわからないんだから。将来の君自身のためにも、すでにもう現時点で三十過ぎの女性たちの感情を害さぬためにも、今この時点で特定の年齢を云々するのはやめといたほうがいいと思うよ。

さやか:冗悟サンがそう言うなら・・・ところで冗悟サン、おいくつなんですか?・・・お差し支えなければ、ですけど。

冗悟:年代的に言えば君の倍以上、さやかさんのパパにもなれる年齢だね。精神的に言えば君と同じくらい、さやかさんのお友達にもなれるくらいの若さかな。

さやか:そんなとこだと思った。

冗悟:君の質問に、正しく答えられたかな?

さやか:うん、まぁ、正しい答えだと思います。あまり厳密じゃないけど。

冗悟:年齢に関しては、あまり厳密すぎると楽しみが台無しになる。

さやか:夏の終わりの季節の変化みたいに、ですか?

冗悟:いいエンディングだね・・・この会話もぼちぼちおしまいの頃合いかな?

さやか:今日のぶんとしてはね・・・この件は後でまたお話したいです・・・たぶんわたしが・・・27?とかになった後で。

冗悟:もう忘れちゃったのかい ― 具体的な年齢を口にするのはご遠慮願います、お嬢さん、って言ったろ?

さやか:ぁちゃーっ! ごめんなさい、わたし曖昧にぼかすの苦手なんです。

冗悟:あぁ、知ってるさ ― 君は名にし負ふ「さやか」さん、だもんね。それじゃまたね、刃物みたいに鋭い「冴やか」さん。

さやか:ありがとうございました、「年齢未詳の冗悟サン」。ではまた。

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10)(秋立つ日よめる)

あききぬとめにはさやかにみえねどもかぜのおとにぞおどろかれぬる

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」

『古今集』秋・一六九・藤原敏行(ふぢはらのとしゆき)(?-901or907:男性)

(立秋の日の詠歌)

『暦の上ではもう秋が来たといっても、見渡せば周りの景色はどれもこれもみな夏模様、はっきりと秋めいた色彩などどこにもない・・・のだが、ふと肌に感じる風だけは微妙に涼しげ・・・もう秋はすぐそこまで来ているのだなぁ。』

(on the first Autumn day on lunar calendar)

The first day of Autumn still leaves my eyes cold.

Everything in sight is hot, no sign of autumn yet.

But wait, the wind is cool… air-mail from coming fall.

あき【秋】〔名〕<NOUN:Autumn>

く【来】〔自カ変〕(き=連用形)<VERB:come, arrive>

ぬ【ぬ】〔助動ナ変型〕完了(ぬ=終止形)<AUXILIARY VERB(PERFECT TENSE):has already -ed>

と【と】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(MANNER):like, as if>

め【目】〔名〕<NOUN:eye, visual sense>

に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(DIRECTION):to, toward>

は【は】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(LIMITATION):as for, in the case of, when it comes to>

さやか【清か】〔形動ナリ〕(さやかに=連用形)<ADVERB:clearly>

みゆ【見ゆ】〔自ヤ下二〕(みえ=連用形)<VERB:look, appear, seem>

ず【ず】〔助動特殊型〕打消(ね=已然形)<AUXILIARY VERB(NEGATIVE):not>

ども【ども】〔接助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(CONCESSION):although>

…although the arrival of Autumn is not so clear to see to my eyes

かぜ【風】〔名〕<NOUN:the wind, breeze>

の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>

おと【音】〔名〕<NOUN:the sound, feel>

に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(REASON):by, due to, because of>

ぞ【ぞ】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(EMPHATIC)>

おどろく【驚く】〔自カ四〕(おどろか=未然形)<VERB:suddenly realize, notice>

る【る】〔助動ラ下二型〕自発(れ=連用形)<AUXILIARY VERB(SPONTANEITY):naturally feel>

ぬ【ぬ】〔助動ナ変型〕完了(ぬる=連体形係り結び)<AUXILIARY VERB(PERFECT TENSE)>

…the sound of the breeze [that feels more cool than hot] wakes me up [to the passage of Summer and arrival of Autumn]

《aki kinu to meni wa sayakani miene domo kaze no oto ni zo odorokare nuru》

■古くからの言い伝えに対し、従順な「はい」を返すか、独特な「いいぇ」を返すか■

 今回の短歌はとても有名な作品 ― 藤原定家(ふじわらのていか:1162-1241)の選んだ『小倉百人一首』に採録されていないものの中では最も有名な短歌の一つと言って間違いないだろう。夏の終わりの風の変化、まだ涼しくはないがもう暑すぎもしないその微妙な感覚に言及しているのがこの歌の人気の理由である。

 夏から秋への季節の移り変わりは、目にはほとんど見えないし、肌の感触ではっきりわかるものでもない。春が過ぎ行く時には花や木々の様変わりが移り行く季節を我々に教えてくれるが、夏の陰りにはそれがない。春風の場合は冬の寒風よりも明らかに優しい肌触りだが、「秋立つ日(陰暦の秋の初日)」に吹く風が夏の風と比べて歴然と涼しいということはない。だからこそ藤原敏行(ふじわらのとしゆき)は「風の<違い>にぞ驚かれぬる」ではなく「風の<音>にぞ驚かれぬる」と言っているのである・・・誰もが知る通り、風そのものには夏から秋にかけてさほど大きな違いはないのだから。秋の最初の日(太陽暦では八月の七日か八日にあたる)は、暦が言うほど涼しくはない・・・にもかかわらず、多くの人々がそう信じ込みたがるのは、夏の暑さがこれ以上続くと考えるのは耐え難いからこそだろう。以下に示す一連の歌人たちもそのクチであって、彼らは自分自身の実際の感覚に忠実であるよりも、他人様の言い分への忠義立ての道を選んだようである:

《にはかにもかぜのすずしくなりぬるか あきたつひとはむべもいひけり》『後撰集』秋・二一七・よみ人しらず 俄かにも風の凉しくなりぬるか 秋立つ日とはむべも言ひけり(出し抜けに風が涼しくなってきたのは気のせいか? 「秋立つ日」とはなるほどよく言ったものである)

《ほどもなくなつのすずしくなりぬるは ひとにしられであきやきぬらむ》『後拾遺集』夏・二二九・藤原頼宗(ふじわらのよりむね:993-1065) 程も無く夏の凉しくなりぬるは 人に知られで秋や来ぬらむ(あの暑かった夏があっという間に涼しくなってしまったのは、人知れず秋が来たということだろうか?)

《みなづきのてるひのかげはさしながら かぜのみあきのけしきなるかな》『金葉集』夏・一四五・藤原忠通(ふじわらのよりただ:1097-1164) 水無月の照る日の影は差しながら 風のみ秋の景色なるかな(陰暦六月の太陽の日差しは相変わらず暑いけれど、吹く風だけは秋の気配のようだ)

・・・この短歌の「詞書」には「六月廿日頃に、立秋の日、人のもとに遣はしける(=六月二十日頃の”立秋の日”に人のもとに送った歌)」とあるから、この年に限っては例年よりかなり早く(の都合で)「立秋の日」が来てしまったことがわかる。そんな早すぎる立秋の日の風が「秋の気色」になることなど物理的にあり得ないのに、それでもこの歌人がそんな空々しいウソを並べ立てる衝動を抑えられなかったのは、「立秋の日」がこうもバカみたいに季節の実感とズレている年は珍しかったからこそである。この短歌は「日本では、権威風吹かせているものは、たとえいかに怪しげであろうと、個人の実体感覚よりも優先される」という事実を証明するものとして覚えておくとよいだろう。

 自分自身の個人的感覚には明らかにそぐわない昔ながらの言い伝えに対して、上の数々の短歌のように陳腐な敬意を表するのにはおそらく我慢ならなかったということであろう、藤原敏行は自らの(言い伝えとも陳腐な暦迎合短歌群とも異なる)「違い」を表わすのに「風の<音>」という言い回しを選んだ。だがここで言う「音」とはどういう種類の「音」だろうか? 来るべき秋の風の実際の「音」だとすれば、それは秋が深まるにつれて「優しくなる」よりむしろ「烈しくなる」はず・・・なにせ日本の秋は悪名高き台風の季節なのだから・・・「みんな気をつけろ、暴風雨がやって来るぞ!」と敏行は我々に警告しているのだろうか? 明らかに違うであろう・・・では敏行は「風の音」なる言い回しで何を示唆しているのだろう?

 おそらくは上の問いかけへの返答として、この敏行の短歌を収録した『古今集(905年)』の編者の一人である紀貫之(きのつらゆき:872-945)は、次のような詠歌を残している:

《をぎのはのそよぐおとこそあきかぜの ひとにしらるるはじめなりけれ》『拾遺集』秋・一三九 荻の葉の戦ぐ音こそ秋風の 人に知らるる初めなりけれ(荻の葉が風に揺られてカサコソと立てる音こそ、秋風が人に知られる最初のものだったのだなぁ)

・・・夏の盛りには、木々の葉っぱは「暑さを逃れて隠れ込む日陰」以外の何の印象も残さない。風に揺られてカサコソと鳴る葉っぱの音が人々に意識され始めるのは、暑さを逃れることよりも、自然の中でゆっくり進む季節の微妙な変化に聞き耳を立てようとする気分になってからのことである。「夏」という季節は「目」と「肌」で感じるものであり、「音」で感じる季節ではない。「耳」が「目と肌」に取って代わったら、我々もぼちぼち秋支度を始める頃合いなのである。それが敏行の言わんとするところですよ、と、この貫之の詩はそう説明しているのだ。

 貫之の仕事はいつもながら申し分ない・・・もっとも彼のその声は、敏行の短歌の中の「音」の真の響き同様、大方の日本人の耳には届かない。彼らは昔からの言い習わしに粛々と耳を傾けるばかりで、「風の音」という表現中に込められたほとんど認識不可能な微妙な「違い」(言い習わしとも違うし、言い習わしの言いなりになるばかりの大方の日本人とも違う、敏行独自の表現)の真意を問いただそうとしてじっくりき込むような真似は、しないのだから・・・まぁ、別にどうでもいいんだけどね、短歌の感じ方は人それぞれ、読者の数だけ存在するのだから。

「英語を話せる自分自身」を自らの内に持つということは、「さやかさん/冗悟サン」みたいな会話相手が隣にいるみたいなもの。
実際の会話相手の提供はしませんが、「さやかさん/冗悟サン」との知的にソソられる会話が出来るようにはしてあげますよ(・・・それってかなりの事じゃ、ありません?)
===!御注意!===
現時点では、合同会社ズバライエのWEB授業は、日本語で行なう日本の学生さん専用です(・・・英語圏の人たちにはゴメンナサイ)

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