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31短歌17)愛の意味は人それぞれ ― さやかの告白に、冗悟たじろぐ

17)(題しらず)

あはざりしときいかなりしものとてかただいまのまもみねばこひしき

「逢はざりし時如何なりしものとてか只今の間も見ねば恋しき」

よみ人しらず

♪(吟)♪

★愛の意味は人それぞれ ― さやかの告白に、冗悟たじろぐ★

冗悟:さぁ「恋」の時間だよ、それもしばらくの間は「幸せな恋歌」の時間・・・準備はいいかい、さやかさん?

さやか:どういう意味かしら・・・

冗悟:べつに大した意味などないさ ― たかが「恋」、最も原始的で最も単純な人間的感情・・・その意味では動物的感情でもあるけど。

さやか:なんか、ケダモノっぽい響き・・・

冗悟:不穏当に聞こえたらごめん。俺としては気をつけなきゃね・・・特にさやかさんみたいな十代の少女を前にする時には。「恋」ってのは、高校の教室で大っぴらに語り合うには不向きなテーマだからね・・・平安調短歌の中では一番の人気者だけど。

さやか:それってよく聞きます・・・統計的に正しいんですか?

冗悟:気になるならここにデータがあるよ。八代集の約9,700首のうち、「恋」の部立に属する短歌は約2,650首・・・27%という驚くべき数字だ! 平安時代の和歌集全体の優に四分の一以上は「恋愛」でひしめき合っているんだよ!

さやか:平安貴族の生活の四分の一は「恋愛」で占められていたんですか?・・・それ以外は何してたんだろう?・・・三分の一は「睡眠」でしょう? あと三分の一は「仕事」でしょう? 四分の一はすでにもう「恋愛」が占めてるから・・・ぁらやだ、それ以外の活動の時間なんてほとんどないわ、いつ「勉強」してたんだろう?

冗悟:君は本当にそんなに几帳面な性格なの? それとも単なるジョークかな、さやかさん?

さやか:もちろん冗談ですよ・・・わたしがそんなおバカさんに見えます?

冗悟:いや、見えないけど、俺はただ、君の忙しい学校生活の中に占める「恋愛」比率(portion)はあまりにも低すぎて、love potion number 9とか試してる時間はないのかな、なんて思っただけさ。

さやか:「ラブ・ポーション・ナンバー9」って何ですか?

冗悟:ぁー・・・なんでもない。知りたければ後でWEBで検索してみて。俺が言いたかったのは、本当に恋にはまりこんでる時には、恋することに忙しすぎて他の何もできなくなるってこと ― とにかくほんとに恋・恋・恋 ― やることなすこと恋愛のみ、それ以外は何もしたくない・・・愛さえあれば他は何もいらないなんて本気で思ったりするものさ;現実の「人生」には「恋愛」以外にもずいぶん沢山やらなきゃいけないことがあるってのにね。恋愛ってのは実に超現実的なものだよ、それ以外の人生のありとあらゆるものに取って代わっちゃう、恋愛以外の何も考えられなくなっちゃう、ある種の静止状状態(stasis:ステイシス)に入り込んじゃう ― 時の流れは止まり、人生の憂さも全て消え去る、恍惚状態の常態化さ・・・でもそれも、君が、あるいは彼が、突如として気付くまでの話・・・そう、出し抜けに気付くんだよ、君の、あるいは彼の人生は、こんな非現実的な夢物語に浪費するにはあまりにも貴重すぎる、ってね ― もしも二人とも同時に夢から覚めたなら、それはありきたりな失恋物語。もしも君が冷めるのが彼よりも早すぎたなら、ヘタすればそれは悪夢、彼は執念深いストーカーと化し、君は哀れな犠牲者と化す。恋人どうしは、恋に落ちるのは同時でも、フィニッシュするのは同時じゃない(・・・finishは「性行為の最中、性的興奮の絶頂に達する(イッちゃう)」の意にもなる)・・・ぉっとっと! 危ないあぶない、「慎重に」いかないとね。ごめんごめん、君を置き去りにして俺一人アツくなりすぎちゃったよ、さやかさん。

さやか:(…)もう、終わりました? お忘れかもしれないけど、わたし、まだ始めてすらいないんですけど。

冗悟:ほんとごめん、俺一人先走って一人でフィニッシュしちゃって・・・さぁ、今度は君の番だよ、さやかさん、この短歌についてどう思う? あるいは「恋愛」そのものについて、どう思う?・・・御意見拝聴。

さやか:(…)この詩、わたしのあなたへの思いを、わたしたちの関係についての思いを、代弁してくれてる、って言ったら、どうします、冗悟サン?

冗悟:ぁー・・・もし俺を手玉に取ろうとしてるなら、「悪くないね」って言わせてもらうよ ― そんなゾクっとくる台詞、君の口から聞かされて平気でいられる男なんて一人もいないよ、さやかさん。君はとってもかわいくてとっても魅力的だから、大抵の男はそれ、ジョークや甘い褒め言葉として軽く受け流す気分にはなれないだろうね。

さやか:わたし、冗悟サンを手玉に取ろうなんて思ってません ― わたしがあなたの前ではどれだけ誠実か、知ってるでしょ?

冗悟:君、俺に恋してる、って感じてるのかい?

さやか:そうです。この短歌の言うとおり。

冗悟:もし君が本当にこの短歌が君の気持ちを代弁してるって思ってるなら、君が俺に本当に恋してるって思ってるなら、その場合、俺としては君の混乱を正してやる責任があるだろうね。

さやか:「混乱」って何ですか?

冗悟:「恋」をそれ以外の何かと取り違えてるってことさ ― 恋愛感情に似てるけど、本質的に違うものと、ね。

さやか:わたし、勘違いしてる、って言うんですか?

冗悟:あぁ、きっとね・・・その幻惑、覚ましてあげる。準備はいい?

さやか:聞いてます、真剣に。

冗悟:オッケー、じゃ手っ取り早く一撃でケリ付けよう ― 俺に出会ってから、君の学校での成績、ガタ落ちしてる? それとも上がってきてる?

さやか:わたしたちの関係が始まってから、前よりずっと上がってます。

冗悟:よろしい。Q.E.D.(以上、証明終わり)。

さやか:ぇ、何ですか?

冗悟:Quod Erat Demonstrandum ― 数学用語さ、ラテン語で「証明の要ありし件」ながら、今やくて証明済みなるもの。君の学校での成績が、下がらずにむしろ上がってるって事実は、何でもかんでもむさぼり尽くす「恋愛」なんかよりも、人生にとってもっとずっと実質豊富で大事なものに君がいま入れ込んでる、ってことの動かぬ証拠だよ・・・君は俺に恋してるんじゃなくて、俺と君とが共有してるものにれ込んでるんだ ― 知ることへの愛、芸術への愛、鳥の歌への愛、ブルース・リーへの愛、そして君も俺も楽しくて楽しくて仕方がないこの素敵な会話への愛・・・それがあまりにも楽しいものだから、君はこの会話を今よりもっと良いものにしようと、君自身のことももっと良くしようと、知的にも感情的にも今以上のものになろうと、頑張ってるわけさ、気の利いたコメントで俺のことをもっと楽しませるために、この会話のパートナーとして価値ある存在としての君自身を感じるために。それは、君にも俺にもどちらにとってもいいことだよ、俺たちは、お互いに対してできるだけ多くのものをあげようと頑張りながら、それを通じて自分自身をずっといいものにしてるわけだからね。ところが、もしこれが「恋愛」だったと仮定すれば、その場合俺たちはお互いどうしなるべく多くのものを奪い合おうとするだろうね・・・何のためらいもなしに、何も悪いことしてるつもりもなしに、自分には当然そうする資格があるはずだとまるで疑わずに、奪い合うはず ― やがてどちらか一方が疑いを抱くその時まで、ね・・・ごめんね、また君を置き去りにして一人熱弁ふるっちゃったけど、ウソじゃないよ、本当のことなんだ ― 君と俺とがお互いどうし「奪い合う」んじゃなくて「与え合う」ことに喜びを見出している限り、それは真の「恋愛」じゃない。残酷なまでにケダモノ的な意味での「恋愛」とは、似て非なるものなんだ。

さやか:「恋愛」って、残酷でケダモノ的なものなんですか?

冗悟:最も純粋で最も烈しい恋愛の場合は、そうなるね。

さやか:「恋愛」には、それ以外の段階もありますか?

冗悟:それをえて「愛」って呼ぶなら、うん、いくつかの段階はあり得るよ。もし君がそう望むなら、この会話を共に喜ぶ俺たちの興味・関心も一種の「愛」って呼んでもいいかもしれない。もっともそういう「愛」は、この短歌を生み出す元になった「恋愛」感情とは別種のものだけどね。

さやか:どこが違うんですか?

冗悟:「愛」の対象が違う ― 純粋にしてケダモノ的な恋愛の場合、その対象は「君」であり「俺」であって、「君」は「俺」から、「俺」は「君」から、奪えるだけのものをお互い奪い合うんだよ。この会話に対する俺たちの「愛」の場合、その対象は、この会話に対して俺たちが感じる「共通の喜び」。会話から喜びを引き出すと同時に、俺たちはこの会話を盛り上げようとなるべく多くのものを与え合おうとする。

さやか:でも、恋人どうしだって ― 冗悟サンの言う「純粋にケダモノ的な」恋人どうしだって ― やっぱりお互いに対して何かあげようとすると思います。妻と夫も、家庭生活をなるべく幸せなものにするために、お互いどうし助け合うじゃないですか・・・それでもやっぱり彼らはお互いどうし奪い合おうとしてる、って言うんですか?

冗悟:いいや。君の言う通り、良き夫婦はお互いどうし協力して家庭生活をより良いものにしようと努力すると思うよ。でも、そういう男女の建設的な行動の背後にあるものは、「愛」とは違うものなんだよ。純粋にケダモノ的な「愛」よりもっとずっと長続きするもの・・・実際、俺思うんだけど、「恋愛」だけじゃ、男女を一生涯ずっと仲良くやって行くパートナーとして結び合わせるには、全然足りないね。「恋愛」は「起爆剤」にはなっても「燃料」には決してならない・・・もっとも俺は、あまり断定的なこと言うつもりはないけどね、結婚して自分の家庭や子供を持ったこともない身なんだから。その意味では、「夫婦の愛」についてあれこれ言う資格がない点で、俺も君と条件は一緒だよ、さやかさん。

さやか:(…)さやか、冗悟サンのことを愛してない、って思いますか?

冗悟:愛してくれてると思うよ。好きでもない誰かさんとの会話なんて、楽しめるわけがないからね。でもそれはこの短歌の言う「愛」とは別物なんだよ。

さやか:わたし、わかりません、どこがそんなに違うんですか?

冗悟:君は、俺が君のそばにいない時、みじめな気分になるかい?

さやか:実は、そうなんです。冗悟サン以外の人達と一緒にいると、耐え難いほど退屈してるわたしがいます。

冗悟:「君と一緒におしゃべりする」以外のことを、俺がするのは、耐えられないと感じるかい?

さやか:ぅーん・・・わかりません。冗悟サンには冗悟サンのお仕事があるし、わたし、その邪魔をして迷惑かけたくありません・・・でも、なるべくずっと一緒にいたいって思ってます。

冗悟:でも、君は耐えられるだろ、俺に会わずにいるのにも、俺が誰か他の女性と一緒にいるのを見るのも?

さやか:わたし・・・冗悟サンが他の女性に恋してるのを見たら、悲しいと思います。

冗悟:それはそうさ。俺だって君が他の男と恋愛してるのを見たら、バツが悪い思いするはずだもの。

さやか:ほんとですか?

冗悟:あぁ。その場合俺は「我ながら気の利かない間抜け野郎だなぁ俺は」って感じるだろうよ、本来ならそんなお近付きになっちゃいけないはずの他の誰かのガールフレンドとの会話に心の底から入れ込んだりするなんて。でも改めて考えてみれば、それは俺の内心から湧き上がる感情じゃなくて、世間からの圧力だよね ― 他人様の目から見て気の利かないバカな男になっちゃうのがイヤだってだけで、君を失いたくないとか、君が四六時中俺のそばに恋人としていてくれないとイヤだとか、そういう感情じゃない。もし俺が本気で君に恋してたら、いつもいつも君を見つめていないとイヤだ、って思うはずだよ・・・ちょうどこの詩が言ってるみたいにね。誰かに本当に恋をすると、その誰かの立場を思いやる余裕なんてなくなる ― 言い換えれば「見遣り(みやり=相手の心情を思いやり、相手へと歩み寄ること)」は消え失せて、代わりに徹底的に必死な「見遣し(みおこし)」に陥る ― 「ほら、こっちを見て、私と一緒にいて、私のことだけ愛して、あなたは私のもの、他の誰にも手は触れさせない!」ってことになるのさ ― ありとあらゆる瞬間を君と一緒に、君だけと共に生きてくれることを、君はその相手に望むことになる・・・それって、君が俺に望んでることかい、さやかさん?

さやか:(…)もしわたしがそう言ったら、あなたの迷惑になっちゃうから・・・

冗悟:そうなれば、俺たち二人のこの楽しい会話も終わりになる・・・君はそれを恐れているのかな?

さやか:わたしが冗悟サンなら、答えがわかってる質問はしません・・・

冗悟:君の感情を害したなら、ごめんね。俺はただはっきり言っておきたかっただけさ ― 俺は君のことを絶対に失いたくない、この楽しい会話になくてはならない掛け替えのない唯一無二の存在としての君のことを、失うつもりはない、ってね。君は俺のことをこの会話のパートナーとして「愛してる」し、この会話は君にとってほんとに楽しいものだから、いつまでもずっとこの会話を楽しんでいたいと君は望むだろうけど、それは必ずしも「さやかが冗悟と人生のパートナーとして結ばれたいと望んでる」ってわけじゃないんだ。それって、君ぐらいの年齢の女の子が陥りがちな甘い混乱ってやつだよ。でも、この甘い混乱につけ込んで、良からぬ考え抱いた悪い男どもは、恋愛経験の少ない若い女の子たちを食い物にしようとすることが多いんだ。だから、どんな男との関係でも、この種の甘い混乱でヘンなことにならないように気をつけないといけないよ。「これって、恋とは違う」ってこと、君の側でははっきり認識していても、相手の男の側でもそれを「恋」と勘違いしないように、きっちり分けてくれるように、慎重な配慮が必要だからね・・・大抵の男どもは、君みたいに魅力的な女性が相手だと、「自分は恋愛してるんだ、お互いどうし好き合ってるんだ」みたいなロマンチックな幻想に陥りたがるものなんだから・・・俺、少々説教が過ぎたかな?

さやか:(…)そのお説教、間違ってないんだろうと思います・・・理解できてもうれしくないレッスンは、これが始めてです。

冗悟:理解する必要はないさ。「恋愛」は「理解」向けの対象じゃない・・・わかる時が来ればわかるものさ。ブルース・リーが「燃えよドラゴン」の冒頭で言ってた台詞、思い出してごらん。

さやか:「考えるな ― 感じるんだ・・・」

冗悟:「愛とは感じること ― 愛を感じること・・・愛とは、愛されずにはいられない気持ちになること」・・・誰が言った台詞か、わかるかな?

さやか:のと・じゃうご?

冗悟:ジョン・レノン(John Lennon, in “Love(1970)”)さ・・・もっとも、本当に恋した人なら誰でも言うだろう台詞だけどね ― 本当に誰かに恋すると、恋人に「愛されたい」んじゃなくて「愛されずにはいられない」んだ。

さやか:「恋愛」って必死なもの、ってことですか?

冗悟:そしてまた自己中心的なもの。

さやか:冗悟サンの言うこと聞いてると、まるで「見遣り(みやり=相手のことを思いやり歩み寄る態度)」の持ち主は誰も恋に落ちることなんてできないみたい・・・

冗悟:基本的には他人の気持ちを思いやって歩み寄ることができるはずの人でさえも、本当に恋をすると必死で利己的にならざるを得ない、ってことさ。

さやか:「恋愛」って一種の「病気」みたい・・・

冗悟:もしかしたら「ビョーキ」だからこそ本物の恋愛は長続きしないのかもね。さもなきゃ、本当に恋した連中は確実に神経やられちゃうし人生もコワれちまう・・・べつに全ての「心の病」が悪いことずくめ、ってわけじゃないんだけどね。

さやか:「恋愛」は美しい「心の病」ですか?

冗悟:「恋愛」が美しいとは、俺は思わない。恋愛が美しいのは「言葉の上」だけさ、「裸の相手の身体の上」じゃちっとも美しくない・・・おっと、また忘れてた、「慎重に」いかないとね・・・断定的すぎる言い方は避けないと。生身の恋愛でも美しい、って人達だっているかもしれない。恋愛は純粋に個人的な感情なんだ、なぜならそれはどこまでも自己中心的だからさ ― 「愛」をどう感じるかは人それぞれ、人間の数だけ「愛」の種類も存在する・・・だからこそ「恋歌」が平安短歌の中で27%もの圧倒的存在感を持つわけさ ― 「恋愛」の話となると、どんな男にも女にも、その人なりの言い分がある。

さやか:言い換えれば、恋愛に関しては、「冗悟サンの答え」が「正解」と思う必要はない、ってことですか?

冗悟:「恋愛」に関しては、その通り、君が何を感じようと、「愛」に関してはそれが常に正解なんだ。でも「恋」に関する平安調短歌の場合には、俺の言い分聞いといた方が何かと得すると思うよ。

さやか:わかりました、そうします・・・ところで冗悟サン、まだわたしあなたに十分伝えられてないことがあります。

冗悟:謹んで拝聴しましょう・・・

さやか:この短歌の「逢はざりし時如何なりしものとてか(=あなたに出逢う前のわたしは、一体どうやって生きていたんだろう?)」の部分だけは、確実にわたしの思いを代弁してくれてます ― わたし、冗悟サンと出逢って一緒にお話していろんなことを学んでから、以前のわたしとは別人になりました。冗悟サンにはほんとにお世話になってます、本当に感謝してます、そのこと、冗悟サンに知ってもらいたいんです。

冗悟:そう言ってもらえて、嬉しいよ。

さやか:正直に言うと、わたしがこんなにも別人になっちゃったこと、うれしいと同時に怖いんです・・・いつかあなたがいなくなるかと思うと・・・もし冗悟サンがいなくなったら、わたし、別人になります、今より悪い自分になっちゃいます。だからわたし、あなたを絶対失いたくない・・・そんな考えはわがままだってわかってます、けど、それがわたしの本心なんです ― これって・・・「恋」ですか?

冗悟:「腕立て伏せ」の話、覚えてる?(第十六話参照)

さやか:忘れっこありません・・・

冗悟:かつては毎日500回の腕立てをやってた男が、今ではたったの100回まで減っちゃった ― 俺はかつての俺じゃない、けど「昔より悪い自分」になったとは感じない・・・これって「負け犬の遠吠え」に聞こえるかな?

さやか:いいえ。それは冗悟サンが「向上心の悪循環(aspiration spiral)」を克服して「進歩の奴隷(slave to advancement)」ではなくなった証拠です。

冗悟:君にはほんと鼻が高いよ、さやかさん。何を話しても君はその話の分だけ確実に向上するんだね。でも、残念ながら、何事も永遠には続かない、君とのこの楽しい会話にもいつかは終わりが来るだろう。でも、終わっちゃった後でもなお、何らかのものは君の中に残るだろう。俺は今でも腕立てに「恋してる」よ、連続500回なんてもうやらないけどね。同じように、俺は君と永遠に一緒にいることはできないだろうけど、それでも何かは確実に君と一緒に残るだろう、俺たちの楽しい会話の成果として・・・あるいはこの「之人冗悟」という名のヘンテコな人物への君の「愛」の形見として・・・そうした記憶の王国の輝ける領土拡張を、出来る間は、出来る限り、一緒に目指して行こうよ。失うことを恐れていたって、何も得るところはないさ。「Carpe diem!」だよ。(第十五話参照)

さやか:「今日をつかめ」でしたっけ?

冗悟:そうさ! 春も夏も永遠には続かないけど、だからって楽しまずにいる理由にはならないよ、楽しめる間は、ね。春も夏も永遠に楽しみ続けたいなんて望むのは愚かなわがままというものだろうけど、実際春や夏が続いてる限りは楽しめるだけ楽しんじゃうのが当然ってもんさ。君のそばに俺がいて、俺のそばに君がいる間は、楽しめるだけ楽しんでおけばいいのさ。

さやか:何も心配せずに?

冗悟:その通り。君が俺に「本当に恋してる」みたいな錯覚さえ抱いてもらっても別にいいんだよ ― 父親みたいな顔して君にお説教した後で、君のその少女っぽい空想に付け込んで悪いことしたりなんて、俺、絶対しないからさ。

さやか:(…)お言葉を返すようですけど、冗悟サン、わたしの個人的感覚について、あまり断定的なこと言ってほしくないです ― あなたにとっては「錯覚」や「少女っぽい空想」かもしれないけど、わたしにとっては必ずしもそうとは限らないでしょ? 「愛をどう感じるかは人それぞれ」 ― それが今日の、よくわからないことが多かった「愛」のレッスンの、わたしにとって一番印象深かった部分・・・どう思います、冗悟サン?

冗悟:うーん・・・

さやか:何か言ってください・・・

冗悟:・・・そうだなぁ・・・ごめん、さっき言ったあれ、悪かったよ ― 君のこと、俺、明らかに見くびってたようだ。君はまるで、いや、確実にもう、大人の女性だよ、俺と対等、あるいは俺より上手かもしれない・・・恐れ入りました・・・オッケー、君の個人的感覚、尊重するよ、君のこと「少女」扱いはしない、つまりその、「恋愛に関して少女っぽい空想抱いた誰かさん」みたいな扱いはしないよ・・・何か言ってくれる、さやかさん?

さやか:たった一日あなたと一緒にいただけで、わたしまるで別人みたい!

冗悟:まったく・・・男の子はいくつになっても男の子のまんま、だけど、「少女」はいきなり「女」に化ける・・・君にはいろいろ教えられるよ、さやかさん。

さやか:冗悟サンにそう言ってもらえてうれしいです。次はどんな「恋愛」の詩が出てくるか、待ち遠しいわ!

冗悟:俺にとってもスリル満点だよ、君がその詩から何を引っ張り出すことか・・・あるいは、その恋の歌が君の中から何を引っ張り出すことか・・・

さやか:今わかりました ― 冗悟サン一つ、完全に間違ってましたね。

冗悟:そうかい、どこが?

さやか:冗悟サン、「恋愛は女の子と一緒に大っぴらに語り合うには不向きなテーマ」って言ってましたよね。でもわたしに言わせれば、「恋愛」って、女の子が大の男を負かすには一番いいテーマ。冗悟サンみたいに知性のの大きい男性相手でもね・・・わたしこのテーマ、ほんと好き!

冗悟:・・・どうやらこの先、俺にとってしんどい道中になりそうだな・・・

さやか:わたしたちにとって楽しい道中が待ってますよ!・・・わたしたちを待ってる「恋の歌」って、どれくらいあるんですか?

冗悟:あと八つ。

さやか:永遠に続けばいいのに!

冗悟:それには賛成でき・・・(I couldn’t agree with you less=まるで賛成できない)

さやか:まーす!(I couldn’t agree with you more=これ以上ないくらい大賛成)

冗悟:まぁ、そういうことにしとこうか・・・次の戦いに備えての戦力回復のため、本日は前線から撤退したいのでありますが・・・よろしいでありましょうか、さやか姫?

さやか:撤退許可を与えます ― 下がってよろしい、冗悟兵卒。すぐまた戦線へ復帰するように!

冗悟:ありがとうございます、姫。では、また。

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17)(題しらず)

あはざりしときいかなりしものとてかただいまのまもみねばこひしき

「逢はざりし時如何なりしものとてか只今の間も見ねば恋しき」

『後撰集』恋・五六四・よみ人しらず

『あなたと出会って恋をして、そうなる前だって私は生きていたわけだけど、いったいその頃はどうやって生きていたんだろう、と不思議に思えるくらいに、今の私はもう、一人で過ごす一瞬一瞬が耐え難いほどに、あなたのことが恋しくて逢いたくてたまらないのです。』

I can’t imagine my life alone before I fell in love.

Now a moment without you near is too painful for me to bear.

あふ【逢ふ】〔自ハ四〕(あは=未然形)<VERB:be mutually in love with, have affairs with>

ず【ず】〔助動特殊型〕打消(ざり=連用形)<AUXILIARY VERB(NEGATIVE):not>

き【き】〔助動特殊型〕過去(し=連体形)<AUXILIARY VERB(PAST)>

とき【時】〔名〕<NOUN:the time, days>

…in those days when I had not known you

いかなり【如何なり】〔形動ナリ〕(いかなり=連用形)<ADVERB:how is A, in what way does A exist>

き【き】〔助動特殊型〕過去(し=連体形)<AUXILIARY VERB(PAST)>

もの【物】〔名〕<NOUN:the way, how>

とて【とて】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(MANNER):in what way>

か【か】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(INTERROGATIVE):?>

…I simply can’t remember how I spent my time [alone without you]

ただ【只】〔副〕<ADVERB:only, just>

いま【今】〔名〕<NOUN:right now>

の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>

ま【間】〔名〕<NOUN:instant, moment>

も【も】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(EMPHATIC):even>

…even at this very moment [I spend alone without you]

みる【見る】(み=未然形)<VERB:see, meet, have a date, rendezvous>

ず【ず】〔助動特殊型〕打消(ね=已然形)<AUXILIARY VERB(NEGATIVE):not>

ば【ば】〔接助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(CONDITION):if, when>

こひし【恋し】〔形シク〕(こひしき=連体形係り結び)<VERB:yearn for, be impatient for>

…I just can’t stand not seeing you

《awazarishi toki ikanarishi mono tote ka tada ima no ma mo mine ba koishiki》

後朝の意味するもの■

 「恋愛」に関してはいかなる論理的議論も不可能、という結論に終わった上の長~い議論の後で、この短歌を論理的に理解しようと試みるのも馬鹿げたことかもしれないが、それでもなお有益な情報として付け加えておくと、この種の短歌は「後朝の文」(きぬぎぬのふみ=情事の翌朝の手紙)と呼ばれる。

 平安時代を通じてずっと、恋愛事情は現代とはかなり違っていた。男性から女性にれることはあっても、女性側から男性に恋することは不可能(少なくとも恋愛の開始時点に於いては) ― 男側が常に主導権を握り、女性は常に「待つ身」だったのである。

 そしてまた覚えておかねばならないことがある ― 今日の基準からみるとかなり不思議なことながら、男と女はお互いどうし「逢って&結婚してもいい」と約束するまでは「出逢うことはなかった」のである。勘違いしてもらっては困るのだが、日本の男は初デートで女とセックスできるのが当然とみなしていたなどと言っているわけではなく、日本の女性はその男(あるいは美しい短歌を添えた彼の恋文)が彼女を十分うっとりさせて「この男となら情事に及んでもいい」と感じさせるまでは(・・・あるいは彼女の両親が「この男なら自分達の孫の父親にふさわしい」と確信するまでは)いかなる男にも姿を見せなかった、というだけの話である。

 それでいてしかし、平安時代の恋愛では、男と女はお互いどうし「逢う」(そしてひょっとしたら「性交渉を持つ」)と約束するまでは、相手が実際どんな姿をしているのかを知らなかったのである。言葉を換えて言えば、彼らの恋愛は純粋に空想的なもの、ロマンチックなラブレターのやりとりを通じて育まれるものだったのである ― 初デートで初めて本当にお互いの姿を見て、それから次の段階(物理的かつ肉欲的恋愛段階)が始まるまでは・・・そうした「第二段階」があれば、の話であるが。もしも女性の側の(あるいは男性側の)ロマンチックにふくらませた相手のイメージと実際に目にした相手の現実の姿とのギャップが耐え難いほどひどければ、男も女も逢うのはたった一度きり・・・一度で全て御破算、次のデートはもうないわけだ。

 そんな実情だったから、平安時代の男と女(とりわけ、女)にとってののっぴきならない瞬間は、彼らが最初に生身で出逢ってお互いの本当の姿を知った時、ではなくて、初逢瀬から一日か二日以内に「お礼状」が男から女のもとへと届く時・・・または全く届かない時、なのである。彼女が自分に逢うことを(そしておそらくは肉体関係を結ぶことを)許してくれてどうもありがとう、とお礼を述べた上で、次のデートを(おそらくは今後ともずっと続く恋愛パートナーシップの始まりとして)おねだりするこの種の手紙のことを、「後朝の文」と呼ぶ。

 「後朝」(=事果てて後の朝)は元々「衣々(きぬぎぬ=彼はこっちの服、彼女はあっちの服、というふうに男女それぞれが別々の衣服に身を包んで)」の意味であり、男女が裸で床の中、一つに交じり合っていたことをほのめかす語である。この言い回しからも察しがつくかもしれないが、平安時代の男と女は、たとえお互いれ合っていても、同じ家に暮らして翌朝には同じ寝床で二人とも裸のまま目覚める、というようなことは(たとえ結婚した夫婦同士でも)なかったのだ。平安男女の恋愛は「女の部屋の中」で展開した。愛人の男性側で彼女のことを愛してやりたくなった時だけ、そして彼女(及び夜の闇を照らす明るい月)が男性に彼女の部屋を訪れて愛の営みを交わすのを許した時だけ、男が女の部屋を訪れるのである・・・そして事が果てた後は、夜の月が早朝の太陽に取って代わられる頃、男女はまた別れ別れになるのである。

 上記の事情を聞いた後で、この短歌の真の味わいを感じてみてほしい ― 前夜に初めて逢った男からの「後朝」の恋文が届くのを今か今かと待ち焦がれている平安女性の立場に身を置いて、この短歌をじっくり読んでみてほしい・・・君なら、二度目のデート、許しますか?・・・もちろん!(初デートで見た相手の姿が実際どの程度のものだったかは、この際考慮の対象外とする)

 この情熱的な「後朝の文」に心底れ込んじゃった人向けに、同じくらい(あるいはもっと)情熱的に「また逢いましょう(&結ばれましょう)」と求めてくる恋の歌をいくつかサービスしておこう:

《あひみでもありにしものをいつのまに ならひてひとのこひしかるらむ》『拾遺集』恋・七一二・よみ人しらず 逢ひ見でも在りにしものを何時の間に 馴らひて人の恋しかるらむ(あなたに逢うことがなかった頃にも、私は確かに生きていたはずなのに、今ではこんなにも恋しくて逢わずにはいられない思いになるほどあなたにかれてしまったのは、いったいいつからのことでしょうか)

《あひみてののちのこころにくらぶれば むかしはものをおもはざりけり》『拾遺集』恋・七一〇・藤原敦忠(ふじわらのあつただ) 逢ひ見ての後の心に比ぶれば 昔は物を思はざりけり(あなたとお逢いするようになってから、私もいろいろと物を思うようになりました。それを思えば、あなたとのお付き合いが始まる前の私は、何も考えずに生きていたような気がします)

《おもひやるこころにたぐふみなりせば ひとひにちたびきみはみてまし》『後撰集』恋・六七九・大江千古(おおえのちふる) 思ひ遣る心に比ふ身なりせば 一日に千度君は見てまし(あなたへ寄せる私のこの思いに、この身がぴたりと寄り添うものならば、一日に一千回はあなたにお逢いしていることでしょうに)

・・・ここに紹介した歌の数々、どれもみな君には同じに響いたかな? まぁたぶんそんなもんだろう・・・なぜなら、これらの歌人は君の恋人ではないのだから ― 自分が本当に愛する男の元から届いて初めて、他の誰にも似ていない彼ならではの愛に満ちた告白に聞こえるもの、それが「後朝の文」なのだから。

「英語を話せる自分自身」を自らの内に持つということは、「さやかさん/冗悟サン」みたいな会話相手が隣にいるみたいなもの。
実際の会話相手の提供はしませんが、「さやかさん/冗悟サン」との知的にソソられる会話が出来るようにはしてあげますよ(・・・それってかなりの事じゃ、ありません?)
===!御注意!===
現時点では、合同会社ズバライエのWEB授業は、日本語で行なう日本の学生さん専用です(・・・英語圏の人たちにはゴメンナサイ)

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