★唯一無二の存在とは何か ― さやか、この会話の中での自分の立ち位置について不安になる★
冗悟:さやかさん、この詩、どう思う?
さやか:うーん・・・ちょっと身構えちゃいます。日本人がいとも簡単にマネしたり拍手したりする「お決まりコース」を冗悟サンがどれだけ嫌ってるか、知っちゃった後なので。
冗悟:・・・ってことは、前回の俺のエッセイ、読んでくれたわけだ?
さやか:読みました・・・正直言って、かなりショックでした。
冗悟:ショック?・・・俺が日本人社会の中では自分は「余所者」だと白状したから? 鈍感で満足げな蜂の巣の群れの一員として確立されたパターン行動の反復に身を委ねるのが大好物の狂った俗物の群れから離れた存在だ、と宣言したから?
さやか:そうじゃないんです。あの文章読む前からもうわたしなんとなく、冗悟サンは今まで出会ったどの日本人とも全然ちがうって感じてましたから・・・あの文章読んでわたしがショックを受けたのは、冗悟サンが言ってる内容にわたしが全面的に賛成だ、って気づいたからです・・・ということは、わたしも・・・
冗悟:さらば、日本人集合体 ― ようこそ、独立独歩唯一無二の異邦人連合へ・・・それが、怖いのかな?
さやか:ちょっとだけ・・・ゾクッって感じ・・・でもまたワクワク感もあって、微妙・・・。
冗悟:集合体への迎合は、何か大きなもの、自分個人の小さな枠組みを遥かに超えた偉大なものへと一つに溶け合って、自分自身の自己存在なんて消えてなくなる感じが、気持ちいいからね・・・ただ単に「自分らしくあること」を貫くためだけに放棄するにはいささか気持ちよすぎる・・・とりわけ日本人にはそうだろうね。
さやか:そう思います。冗悟サンみたいに強烈な個性と圧倒的な知識と文化的たしなみのある人の場合はそんなに問題にもならないんでしょうけど、わたしにはそんな個人としてのユニークさなんてないし・・・わたしはただの平凡な17歳の女の子、日本の普通の高校に通ってなんてこともない普通の日本人の平凡な友達に交じって生きてるだけだから・・・
冗悟:まぁそんな感じだろうね・・・それを嫌って人群れから抜け出そうとして「自分はあんたらとは違うんだ、あばよ日本人ども!」なんて声高に言い放ってみても、何も得るところはないと思うよ。
さやか:・・・でもわたし、実際、自分は違うんだ、って感じ始めてます・・・これって多分に冗悟サンの影響ですよ。
冗悟:さやかさんの苦境に関しては冗悟サンの責任、大、のようだね。
さやか:ぁ、いぇ、責めてるわけじゃないんです、ただ・・・ちょっと不安なんです。
冗悟:気持ちはわかるよ・・・じゃ、不安の一因を作った者として、さやかさんに一つ質問してもいいかな?
さやか:はい。
冗悟:その君の学校だけど、そこにいつまで「所属」し続けるつもりかな?
さやか:一年半・・・来年進級に失敗しなければ、の話ですけど・・・そんな答えで、いいですか?
冗悟:「違うな」ってわかってるはずだよ、さやかさん。
さやか:うーん・・・わかりません、じゃどう答えればいいんですか?
冗悟:永遠に高校生のままではいられないってこと、知ってるよね
さやか:もちろんわかってます。
冗悟:その高校を卒業した後は、どうするつもり?
さやか:大学に行くつもりです・・・具体的には早稲田大学に入りたいです・・・理由も言います?
冗悟:いや、いいよ。君の個人的事情に興味はないよ、っていう意味じゃなくて、ここでの当面の話題に関係ないから。君がどんな大学に入ろうと、卒業後にどんな仕事を選ぼうと、さらにはどんな男を結婚相手に選ぼうと、そんなの関係ないんだよ ― 関係あるのは唯一、さやかさん、君自身がどういう人間へと成長して行くか、ってことだけなんだ。君にとって、どっちの影響が大きいと思う ― 君の周りの環境、例えば「大学・会社・友人・隣近所・ボーイフレンドあるいは夫」のほうかな、それとも「さやかさん自身」かな? ― 言い換えれば「君が生きて行く過程で、すること、思うこと、成し遂げること」・・・どっちのほうがさやかさんを大きく左右する?
さやか:わたし自身です・・・周りの人たちや物事ももちろんかなり影響するでしょうけど。
冗悟:あぁ、君の周辺からの影響も確実にあるだろうね、この「冗悟サンとかいうヘンテコな人物」が君に影響を及ぼしているみたいにね。
さやか:ほんと、わたし影響受けてます・・・イヤじゃないんですけど。
冗悟:うん、好むと好まざるとにかからわず、俺は君に影響を与える・・・君もまた俺に影響を与える。
さやか:そうですか? わたし、冗悟サンに何か影響与えてます?
冗悟:気付かないかい?
さやか:いいえ。わたしの方は確実に冗悟サンから色々学んでますけど、冗悟サンの方は、わたしみたいな女の子と話しても同じような収穫があるとは思えません、っていうか何の収穫もないんじゃないかと思います。
冗悟:世の中に、他の何物にも影響を及ぼさない出来事なんて存在しないよ。
さやか:抽象的な言い方をすれば確かにそうなんでしょうけど、正直言ってわたし、冗悟サンに何もしてあげてないんじゃないか、って思います。
冗悟:ちゃんとしてくれてるさ ― この一連の会話、君なしでは成立してないよ、さやかさん。
さやか:ぁー・・・はぃ、そうですね・・・でも、べつにわたし以外の誰でもよかったんじゃないですか? だって、冗悟サンはわたしの先生としても司会進行役としてもこの場になくてはならない(indispensable)替えの効かない人(irreplaceable)だけど、わたしは・・・べつにわたしじゃなくても他の誰でもいいような気がします。ここで本当に必要なのは冗悟サン、あなただけ、あなたの知識と知性だけ、わたしじゃない。
冗悟:「indispensable(なくてはならない存在)」って、言ったね。
さやか:はい、言いました。なくてはならないのは冗悟サンで、わたしじゃないです。
冗悟:それと「irreplaceable(掛け替えのない存在)」?
さやか:そうです・・・。
冗悟:嬉しいよ、とっても。君はすごくいい友達を持ってるね、さやかさん。
さやか:いい友だち?
冗悟:たったいま君が口にした言葉のことさ ― INDISPENSABLE(なくてはならない存在), IRREPLACEABLE(掛け替えのない存在)・・・すごく元気の出る言葉だと思わない?
さやか:・・・でしょうね、もしわたしが実際なくてはならない掛け替えのない存在だとしたら。
冗悟:彼らの一番の親友、知ってる?
さやか:はぃ?
冗悟:「indispensable(なくてはならない)」と「irreplaceable(掛け替えのない)」の御二方に一番近いお友達の言葉、わかるかな?
さやか:・・・「valuable(価値ある)」ですか?
冗悟:ちがう。「valuable(価値ある)」ってのは下劣な言葉さ、「オマエがオレに対して何らかの価値を持たない限り、オマエの存在は無価値である」と宣言してるみたいなヤツだからね・・・この種のコトバは地獄にこそふさわしい。このテの下劣な言葉に振り回されてる限り、「相対性の地獄」の中で自分で自分を苦しめる運命と永遠に縁が切れないよ。
さやか:相対性の、地獄・・・
冗悟:そう。何らかの相対的判断基準で万物の価値を計る下劣な習慣を捨て去らない限り、永遠の地獄へと自分自身を投獄することになる。自分で自分に値札を貼り続ける限り、「最高値」以外は満足できなくなる。他人の値段との比較でも、自分の人生のその他の段階で付けた高値との相対比較でも、どっちと比べてもより高値でない限り、不満で不幸、って寸法さ。他人と比べて自分が見劣りしてないか常に気になる。授業にきちんとついて行けてるか、流行に乗り遅れてないか、学校での順位は上がってるか下がってるか、いつも気になって仕方がない・・・だけど、そういう値札はみんな、いかに高値でも、永遠には続かない。どんな美人の女性でも、永遠に美人のままではいられない。花はみないつかは萎れる運命なんだ・・・それもあっという間にね。どんなに強い男も賢い男も、その王国の王座に君臨し続けることはできない ― 年取れば筋肉は衰えるし、大脳の働きだって鈍るんだ・・・「バットマン」を知ってるかい?
さやか:ぇーと・・・誰ですか?
冗悟:オッケー、「バットマン」はもういいや。「ブルース・リー」は知ってるかな?
さやか:はい! わたしブルース・リーの大ファンです! 彼の映画はぜんぶ、何度も何度も観てます!
冗悟:ブルース・リーは、強いと思う?
さやか:ブルース・リーより強い男なんて他に思い浮かびません!
冗悟:そうだね・・・「スーパーマン」は知ってるかい?
さやか:「スーパーマン」ですか?・・・はい、知ってますけど。
冗悟:ブルース・リーとスーパーマン、どっちが強いと思う?
さやか:えー、ダメですよそんなの、フェアじゃないです、「スーパーマン」は漫画の主人公で、ブルース・リーは生身の格闘家だもの。
冗悟:オッケー、それなら「宮本武蔵」は知ってるかい?
さやか:ブルース・リーと宮本武蔵とどっちが強い、って聞くつもりですか?
冗悟:うん・・・バカな質問だと思うかな?
さやか:当然ですよ・・・宮本武蔵は刀で戦う人でしょ? ブルース・リーの武器は拳と脚・・・ときどきヌンチャクも使うけど、刀とか鉄砲とかは絶対使わないもの。
冗悟:彼らの戦い方のルールは違う・・・である以上、宮本武蔵とブルース・リーを、同じ土俵の上で競わせてどっちが強いか、その相対価値を決めようとするのは意味がない・・・って、さやかさんもそう思わない?
さやか:あぁ~・・・冗悟サンが何をわたしに伝えたいか、わかってきました・・・「相対比較はバカげている」ってことですね?
冗悟:相対比較が常にバカげているってわけじゃないけど、いつでも常に何らかの相対尺度に照らして全ての価値を比べてみるのは、間違いなくバカげているね。
さやか:その通りだと思います。
冗悟:仮にブルース・リーが宮本武蔵の刀で斬り殺されたとしたら、さやかさんの中の「地上最強の男」としてのブルース・リーのイメージ、崩れちゃうかな?
さやか:いいえ! 彼は永遠にわたしのヒーローです。
冗悟:逆にまた、もし仮に宮本武蔵が素手でブルース・リーと戦って打ち負かされたとしたら、それで武蔵の史上最強の剣豪としてのイメージは崩壊する?
さやか:そうは思いません。
冗悟:佐々木小次郎は宮本武蔵との戦いに敗れたのだから、武蔵よりも価値がない存在だと思う?
さやか:佐々木小次郎のことはよく知らないですけど、彼も偉大な剣豪だったと思います。だって、巌流島での小次郎と武蔵の戦いは、いまだに武蔵の戦いの歴史の中でも最高の見せ場として語り継がれてるわけですから。
冗悟:さやかさんがブルース・リーを凄いと思うのは、彼が地球上で一番強い男だからかな? 宮本武蔵やスーパーマンやバットマンやウルヴァリンや超人ハルクやモハメッド・アリや大山倍達、その他諸々よりも強い男だから、かな?
さやか:いいえ・・・冗悟サンが列挙した強い男たちのほとんど誰もわたしは知らないけど、その・・・ウルヴァイオリン(Woolviolin・・・羊毛バイオリン)ほど実際強くなかったとしても、それでもやっぱりブルース・リーは凄いと思います。
冗悟:きっとそうだろうね、そのウールバイオリン(ようもうヴィオロン)ってどんなやつかは知らないけど・・・さてと今度は、未来のさやかさんがどこぞの殿方に嫁いだ姿を想像してみようか?
さやか:(…)ゎ_かりました、やってみます、全然想像できないんですけど・・
冗悟:単純な質問をするよ ― さやかさんは、この男が「自分こそ世界で一番の男」と君に証明してみせたから結婚するのかな?・・・それとも単に彼が君の人生にとってなくてはならない(indispensable)他の誰にも替えられない(irreplaceable)男だからこそ結婚するのかな?
さやか:彼がなくてはならない(indispensable)掛け替えのない(irreplaceable)人だからです。
冗悟:言い換えれば、彼が君にとってこの世でただ一人の男性だから?
さやか:はい。
冗悟:他の人達が彼にどの程度の価値を認めているかは、関係ない?
さやか:関係ないです、彼がわたしにとって大事な人なら。
冗悟:つまり・・・彼はあらゆる比較の対象外、ってことかな?
さやか:その通りです。
冗悟:ならば、そんな彼をさやかさんはどう形容するかな・・・「価値ある人(valuable)」?
さやか:ちがいます!
冗悟:「唯一無二の人(unique)」?
さやか:あっ、はぃ! それだわ ― 「唯一無二の(ユニーク)!」 ― 他の誰とも比べられないこの世でただ一人の存在!
冗悟:ようやく発見できて、よかったね ― ユニーク(unique)=唯一無二のもの ― 例の大切な言葉「なくてはならない(indispensable)」と「掛け替えのない(irreplaceable)」に最も近い友達・・・いつの日か、そんなユニークでなくてはならない掛け替えのない男性が、人生のパートナーとして見つかるといいね、さやかさん。
さやか:(…)ありがとうございます、冗悟サン・・・ほんと、どう言ったらいいんだろぅ、感謝の言葉がみつからないです・・・とにかくもうわたし・・・
冗悟:・・・またもや新発見しちゃってそれに気付いた分だけ人生またまた良くなりそうで、思わず興奮してます、って感じかな?
さやか:はい・・・ほんと、ありがとうございます。
冗悟:こちらこそありがとう、さやかさん、打てば響くような君の反応の良さのおかげで、この会話もユニークで魅力的なレッスンに化けちゃったよ・・・曰く ― さやかさんが愛する男性は、世間で比較的価値が高いとされるから君の愛を射止めたわけではなく、他の誰でもないさやかさんただ一人にとって唯一無二の(unique)なくてはならない(indispensable)掛け替えのない(irreplaceable)男性だからこそ君に愛されるに至った・・・同様、さやかさんが誰かに愛され必要とされる時、それは君が相対的に見て価値が高いからではなく、他の世間はいざ知らずとにかくその誰かさんにとって君がユニークな存在だからこそそうなるのである、と・・・信じてね、さやかさん、君には他の誰にも真似できない独自の魅力があるんだ、この俺にとってはね。
さやか:(…)それってつまり・・・わたし、ずっとあなたと一緒にいていいって・・・たとえ相対的な価値は低くても冗悟サンと一緒にいていいってこと、ですか?
冗悟:あぁ・・・相対尺度に訴えて自分の価値を高く見せようとしない限り、昨日の自分より今日はより良い自分になろうと頑張り続ける限り、他の連中が踏みならしたお決まりコースに粛々と従ったりせずに自分なりに新たな地平を切り開くための問いかけを続ける限り、「他の連中」との比較上じゃなく「さっきまでの自分自身」との比較の上で違う自分になろうと頑張り続ける限り・・・さやかさんがそうし続ける限り、いつまでもそばにいてくれていいんだよ。二人で一緒にこの会話をユニークな価値あるものにして行こうね・・・今までとは違う新たな自分の姿、さやかさんも、俺も、常に発見できるように一緒に頑張って行こう。
さやか:はい、がんばります!
冗悟:さてと・・・ぼちぼちこの紀貫之(きのつらゆき)の詩についてのお話、初めてもいいかな?
さやか:あー、詩のことすっかり忘れてました・・・
冗悟:それはいぃ、新鮮な気分でスタートできるからね・・・で、この詩だけど、さやかさんはどう思う?
さやか:うーん・・・美しいと思います。
冗悟:そうだね、美しい詩だ、春の美しい景色の、ね。
さやか:とっても美しいです、景色も詩も両方とも・・・でも、美しすぎてちょっと落ち着きません・・・つまりその・・・デジャ・ビュ(既視現象=前にも見たことがある気がする)みたいで・・・これって何度も言い古されてませんか ― 冬の白雪みたいに春の桜の花が散る情景、って?
冗悟:あぁ、言い古されてるね、数限りなく。
さやか:ということは・・・これもまた「お決まりコース」ですか?
冗悟:そう感じたから、会話の最初にたじろいだわけだ。
さやか:はい。
冗悟:わかった、それなら一つ質問しよう ― 君はこの詩にユニークな魅力を感じるかな?・・・いろんな人達に何度となく言い古されたテーマだけれど、それでもこの詩はさやかさんにとって新鮮な美とユニークな価値を持つもの、って感じるかな?
さやか:感じます・・・わたしほんと、最初にこれ見た瞬間に「詩的恍惚状態」に陥っちゃった。
冗悟:この詩に一目惚れしちゃったわけだね。
さやか:はい、一目惚れでした・・・今も好きです。
冗悟:他の誰が何と言おうと、他の人がどんな値札を付けようと、そんなのお構いなしにさやかさんはこの詩が好き?
さやか:そうです。
冗悟:それなら、これは君にとってすごい詩なんだよ・・・俺にとってもそう。また共通項が増えて嬉しいよ、さやかさん。
さやか:わたしも! ありがとうございます、この詩に引き合わせてくれて。わたしの個人的宝物にしようと思います。
冗悟:どういたしまして、こちらこそ楽しかったよ、さやかさん・・・ぅん、これってなかなかいいエンディングだと思わない?
さやか:今日のレッスンのエンディング、でしょ?・・・わたしたちの詩的冒険旅行はまだまだ続く・・・ですよね・・・永遠に?
冗悟:そうだといいね。じゃまたね。
さやか:ありがとうございました。
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4)(亭子院の歌合に)
さくらちるこのしたかぜはさむからでそらにしられぬゆきぞふりける
「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」
『拾遺集』春・六四・紀貫之(きのつらゆき)(ca.866-945:男性)
(宇多院主催の「延喜十三年亭子院歌合」での詠歌)
『満開だった桜も散る頃になると、木の下に立って惜しみ見送る私に吹き付ける風もまるで冷たさを感じさせぬ春の気配・・・なのに頭上には季節外れの雪が舞う・・・深まる春を目にも肌にも鮮やかに印象付ける、桜吹雪の華麗な舞い。』
(in a TANKA competition at Teiji-in)
Flowers falling down from cherry trees above
Look just like snow in strangely warm storm.
さくら【桜】〔名〕<NOUN:cherry blossom>
ちる【散る】〔自ラ四〕(ちる=連体形)<VERB:fall down, leave trees>
こ【木】〔名〕<NOUN:trees>
の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>
したかぜ【下風】〔名〕<NOUN:the wind underneath>
は【は】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(SUBJECT)>
さむし【寒し】〔形ク〕(さむから=未然形)<VERB:feel cold, chilly>
で【で】〔接助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(SITUATION):without being -ing, despite -ing>
…the wind blowing below the cherry trees where flowers fall down does not feel cold, and yet
そら【空】〔名〕<NOUN:the sky, air>
に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(PLACE): in>
しる【知る】〔他ラ四〕(しら=未然形)<VERB:know, realize, be familiar with>
る【る】〔助動ラ下二型〕受身(れ=未然形)<AUXILIARY VERB(PASSIVE VOICE):be -ed>
ず【ず】〔助動特殊型〕打消(ぬ=連体形)<AUXILIARY VERB(NEGATIVE):not>
ゆき【雪】〔名〕<NOUN:the snow>
ぞ【ぞ】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(EMPHATIC)>
ふる【降る】〔自ラ四〕(ふり=連用形)<VERB:fall down>
けり【けり】〔助動ラ変型〕過去(ける=連体形係り結び)<AUXILIARY VERB(DISCOVERY):I found out>
…I find strange kind of snow falling down in the sky [only around the cherry trees]
《sakura chiru ko no shitakaze wa samukara de sora ni shirarenu yuki zo furi keru》
■昔ながらの場面を新鮮に美しい言葉で・・・平安調短歌では難しい注文 ― 歌人・読者双方にとって■
間違いなく「桜」は日本の短歌に於ける春のスーパースターである。八代集の約9,700首中に311回登場、八代集の「春」の部立を構成する約1,100首のうちでも、「桜」の登場回数239(「春」全体の21%)は、春の季節に先立って咲く「梅」の10%と比較しても圧倒的である。
そしてまた「桜」の白紛れの対抗馬の御三方「雪」・「霞」・「雲」もまた、それぞれ10%・10%・6%という極めて高い登場率を誇ることにも注目すべきだろう。しごく自然な事実として、「梅」が「桜」と同時に見られることは(自然界に於いても平安調短歌に於いても)まずあり得ない。*
・・・*八代集に於けるこの原則の唯一の例外は、ばかばかしいまでのないものねだりを歌にした次の一首のみである ― 《うめのかをさくらのはなににほはせて やなぎがえだにさかせてしがな》『後拾遺集』春・八二・中原致時(なかはらのむねとき) 梅の香を桜の花に匂はせて 柳が枝に咲かせてしがな(梅の香りを桜の花に漂わせて柳の枝の上に咲かせてみたいものだ)
その一方で、「雪」・「霞」・「雲」の白く霞んだ帳(とばり=ヴェール:veil)は、春の短歌の中では「桜」との混同を意図的に誘うような登場の仕方をする傾向がある。統計的に言えば、「春」の部立の中での「桜と雲」の組み合わせの白紛れの登場回数は27回、「桜と雪」は19回、「桜と霞」は18回・・・八代集の中だけですらこの数なのだから、この言い古された「桜/雲/雪/霞」の「まぎらわしペア」が、由緒正しき決まり文句に心地良く寄り添うのが大好きな日本人たちの口に乗る回数がどれほど多かったことか、想像してみてほしい・・・。
とはいえ、このエピソードで紹介した春の美景の短歌を「ステレオタイプ(お決まりの例のやつ)」として片付けてしまうのは間違いである ― この短歌こそ、その種の平安調短歌の伝統的イメージを決定づけた「創始者たち」の一つであり、その作り手は他ならぬあの紀貫之(きのつらゆき:872-945年)なのだから。彼こそは、まだ唐歌(からうた=漢詩)とのライバル争いを繰り広げていた最初期の短歌を盛り立てた最大の功労者であり、『古今集』や『土佐日記』(そして恐らくは『伊勢物語』も)といった画期的な作品群の編者/作者だったのだから。
何かを最初に(洗練を欠く形で)言い出した人物こそ、古くからある何かを(より洗練された形で)言い直した人物よりも、敬われるべきである ― これが、発明の世界で古来受け継がれてきた鉄則である・・・もっとも、現実の消費者向け製品の産業界での競争は必ずしもこの鉄則通りではなくて、独自の創造性に欠けるものの既存の何かの改善には卓越した能力を示す日本の国が1980年代には我が世の春を(束の間ながら)謳歌した、というような話も過去にはあったわけだが・・・まぁ、そんな昔話はさておいて、平安調短歌の最初期に作られたこの短歌へと話を戻すことにしよう。この歌は(じきに言い古されることになる)「桜の花びらが雪のかけらのように舞い落ちるさま」を扱っているわけだが・・・後々の人々が改善を加える余地が、そこにあるだろうか? とてもそうは思えない ― この作品の美はまさに完璧である! 最初にそれを発明した人物が、それを最も完璧な形で完成した人物でもあるわけだ・・・この傑作に於ける紀貫之はまさに「発明者・兼・完成者」であり、この短歌こそが「春に降る奇妙に暖かい雪」としての桜花の見立てという日本人の伝統的美意識への道を開いたのである。後代の歌人たちはみな、古来知られた名場面に対し、原典より見劣りするヘタクソな表現での二番煎じを演じる愚挙を避けるために、貫之と同じ道を歩むわけには行かなくなってしまったわけだ。あるいはまた後代の追従者たちは、元来の創作物を、他に類を見ない新奇な表現で「再発明」してみせるしかなくなってしまったわけである・・・もっとも、この種の試みは常に、何とも理解に苦しむヘンなもの(ギリシア神話に出てくる異種猛獣寄せ集め怪物のキマイラや、死んだ人間の肉体を継ぎ合わせて作られた再生人間のフランケンシュタインの怪物めいた代物)に終わる危険と隣り合わせであったし、原典と異なる発明を目指す野心が強すぎるあまりに作者以外誰も理解できない難解なものになってしまう危険も常に伴った・・・あるいはまた「自分たちは他の連中とは違うのだ」という排他的選良意識をプンプン漂わせた玄人ぶり集団にのみ受け入れられ拍手喝采されるような高飛車な代物に終わる危険性をも常に背負わされることとなったわけである。
というわけで、以下、(三世紀にわたる詩的伝統の蓄積の末の)平安末期/鎌倉初期という「短歌の爛熟期」に於ける二人の匠の手になる「再発明」の実際の姿をお目にかけることにしよう:
《よしのやまさくらがえだにゆきちりて はなおそげなるとしにもあるかな》『新古今集』春・七九・西行法師(さいぎょうほうし:1118-1190) 吉野山桜が枝に雪散りて 花遅げなる年にもあるかな(・・・解釈は、以下、順繰りに)
・・・西行の言葉を真に受けてはならない。彼は、読み手の詩的才芸のほどを試しているのだから。
「吉野山」が何で有名か、御存知だろうか? そう「雪」と「見事なまでの桜の木々」、どちらも周囲を真っ白に染め尽くす圧倒的な存在感で、あまりに白すぎて早春には「雪」か「桜」かほとんど区別が付かなくなるぐらいの圧巻なのである。
西行がどうして「雪散りて」と言っているのか、何故「雪降りて」や「雪積もりて」ではないのか、不思議だとは思わないか? もし西行が吉野の有名な雪に言及するつもりなら、よりによって「桜の枝の上」に視線を限定する必要があるだろうか・・・むしろ辺り一面を塗りつぶす見事なまでの雪の白さに圧倒されていて然るべきではないのか?
そしてまた「花遅げなる年」とはまた奇妙だとは思わないか? 今年に限って「桜の花の開花は遅れるだろう」と、君は本気でそう思うか? だとすれば、理由は? 「桜が枝に雪散りて」だから?・・・もしそう考えるなら、君はまんまと西行にかつがれたことになる。思い出してほしい ― 西行は歌人であって気象予報士ではないのだ。そんな彼が何故「桜の枝の上に散り散りに積もった雪」を引き合いに出して「今年は例年になく桜の開花が遅くなるだろう」と彼が予想する理由説明をしなければならないのか?
そしてまた思い出してほしい ― 西行はあの有名な(あるいは悪名高い?)「新古今時代=古今集の再発明の時代」の最も著名な歌人の一人なのである。この時代の短歌は、三世紀に及ぶ伝統の積み重ねの結果、往年のように素直ではなくなっていたのだということを忘れてはならない。
これでもうわかったろう ― この短歌に於ける「桜が枝に散りたる雪」は、ほかでもない、白く紛らわしいヴェールの中に意図的に包み隠された「桜」そのものなのである!
「そんなバカな!」と君は言うだろうか?・・・ もしそうなら、それは君自身の想像力の欠如の証拠品である ― 紀貫之や藤原公任(ふじわらのきんとう)や和泉式部(いずみしきぶ)といった偉大なる先達によって築き上げられた三世紀に及ぶ詩的伝統の果てに、先人達とは異なる新奇なるものの創造を迫られた当時の歌人たちの境遇に、君は、自らを重ねてみなければならないのである。
もしそうした文芸的展望があれば、この詩は次のように言っているのだと解釈できるだろう ― 『桜の木々の枝の上には白い雪が相変わらず点々と居座っているように見える・・・今年の桜の開花は例年になく遅くなりそうだ・・・って、おぃ待てよ! いや、それは間違いだ。桜の枝の上の白いもの、私が「雪」だとばかり思って見ていたものは、実は「桜の花」だったのだ! なんと奇妙な見間違い・・・あぁ、そうか、思い出した ― ここは吉野山、かの有名な雪と桜の名所じゃないか・・・まんまと一杯食わされちゃったよ!』・・・さて、君はどうだろう? まんまと一杯食わされたクチだろうか? その手は喰わずに正解出して賢い笑顔でニンマリしているだろうか? それとも、何とも人を食った判じ物に振り回されてしかめっ面浮かべているところだろうか?
「この程度じゃ物足りない」という人向けに(あるいは「もうホントたくさん!」と思っている人向けにも、ホントに西行一つでたくさんだったのか思い知ってもらうために)さらにもう一つ、他ならぬあの藤原定家(ふじわらのていか:1162-1241)の手になるパズルをお目に掛けよう ― 彼はあの有名な『百人一首』に納められた百人の歌人による百首の短歌を選んだ人である。まず賭けてもいいが、この短歌は君には何が何だかさっぱりわけがわからないはずである(わざわざこのキマイラ怪獣的事例をここに引っ張ってきて見世物にしようという誰かさんの手助けでもない限りは、とてもとても・・・)・・・嘘だと思うなら、正しく解釈できるかどうか挑んでみた上で「オマエの負けだ!」とこの筆者を打ち負かしてみるがよい(できるものなら、ね):
《さくらいろのにはのはるかぜあともなし とはばぞひとのゆきとだにみむ》『新古今集』春・一三四 桜色の庭の春風跡もなし訪はばぞ人の雪とだに見む(・・・現代語訳は、この後の解説をじっくり追いつつ、じわじわと)
一見すると、この定家の短歌は西行のそれよりも親切に思える。今回は「桜色の庭」という言い回しで始まっているので、「桜の白」と「雪の白」とを見誤る可能性は最初から否定されているからだ(注意:平安時代の桜の色は「白」であって「ピンク=薄桃色」ではない)。この情景が展開するのは誰かの家の庭 ― たぶん定家の邸宅の庭であって、西行の詩のような吉野山の野外ではない、ということもまた明白である。
奇妙な混乱の風が吹き始めるのは第二句からである ― 「春風跡も無し」・・・春風が何の痕跡も残さない・・・って、何の痕跡を残さないのか?・・・春風が吹いて消え去るものは何か?・・・答えは「桜」に決まっている、と君は思うだろう;より正確に言えば「庭に散り敷ける桜」だと・・・その庭に降り積もった桜の花びらたちが、春風によって吹き飛ばされて跡形もなくなってしまう図を、君は思い浮かべるに違いない。
だが、ちょっと待て ― 庭に散り敷いてこれを雪のように見せていた桜の花びらたちが春風によってすでにもう吹き飛ばされてしまった後だとすれば、定家が「桜色の庭」と言っているのはおかしくないか? 散り敷いた桜の花びらたちを春風が吹き飛ばした後の庭 ― それまでは冬の庭のように一面真っ白く見えていたはずのその庭 ― は、今や空っぽ、何もないはずではないか。桜もなければ雪もなく、詩人の想像力を掻き立てるような面白いものなど何一つないとは思わないか?
それでもなお定家は「桜色の庭」と言い張っている;しかも同時にまた彼は「跡も無し」と言って歎いている・・・もし本当に「庭には桜の花の痕跡もない」のであれば「桜の花びらで白く染まった庭」がそこにあるはずもない・・・その場合、冒頭部の桜色の庭」という言い回しは単なる幻影に過ぎないのだろうか? 美しい春の景色が目の前から消え去るのをつい最近目撃して悲しい思いをしたその「今はもう消えてなくなった桜色の庭」を定家が記憶の中で思い出しているだけなのだろうか? また定家が結句「訪はばぞ人の雪とだに見む」で歎いているのは、その「今は消えてなくなってしまった桜の花びらで真っ白く覆われた庭」が消え去る前に誰か訪問客が来て、ぎりぎりセーフでその桜の白を雪の白と勘違いしてくれていたらよかったのに、などとないものねだりの追想をしているのだろうか?・・・だとすれば、何と込み入った想像であることか!
もし君がそこまで深く考えたなら、その論理的推論能力の素晴らしさは誇っていい・・・が、残念ながら論理性だけでは平安調短歌の正しい解釈は約束されない ― とりわけ、あの信じ難いまでの排他的難解性を誇る「新古今時代=古今集再発明の時期」の短歌は、論理一辺倒では正しく解釈できないのだ。
もし君の想像力がそこまで深くは至らずに「舞い散る雪のごとく散る桜の花びら」の図止まりなら、君としては(定家が意図したほどには)深く頭を悩ます必要もなしにただ(定家以外のごく普通の人々がそうするように)「桜の花が散るのを惜しみながら見送る定家の姿」を思い描くだけで御満悦、ということになるだろう。
しかしながら改めて考えてみると、上に示した純粋に論理的な解釈は、実際のところ、まったく馬鹿げている ― 「桜の花びらと白い雪との混同」という言い古されたイメージが、どれほど根強く確立されていたか、思い出してほしい ― そのカビの生えた錯覚については平安時代であれば誰もが知っていたはずなのに、「訪問客がいてくれたらよかったのに、桜の花びらが空中を舞う姿を、あるいはその花びらで白く覆い尽くされた庭を、雪と錯覚してくれていたらよかったのに」などと、定家が歎いたりするだろうか?・・・「桜/雪/霞/雲の白紛れ」という由緒正しき伝統芸も知らずに定家の庭の白さを実際に雪と錯覚するような人間なんて、平安時代には一人も存在しなかったはずではないか。
・・・とまぁこの時点で君は予定通り袋小路で立ち往生しているはずだから(ちがうかな?)、ぼちぼち救命ボート投入のお時間である・・・他ならぬ定家の父親の藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい:1114-1204)の手になる救命ボート、どうぞお乗りあれ:
《けふはもしきみもやとふとながむれど まだあともなきにはのゆきかな》『新古今集』冬・六六四 今日はもし君もや訪ふと眺むれど 未だ跡も無き庭の雪かな(もしかしたら今日はあなたが訪問してくれるかもしれない、と思って何となく待っているのだけれど、いまだに誰も来ず、庭に積もった雪には足跡一つないまま、白いまま)
これでおわかりであろう、我々の疑問に対する解答は、この詩の結句「未だ跡も無き庭の雪かな(=誰かが入ってきて踏みしめた跡もないまま、手つかずの真っ白状態のままの我が家の庭)」の中にあったのである。本物の雪が積もって白く染まった庭の中に誰かがやってきたならば、そこには訪問の証しとしての足跡が残るだろう。同様、桜の花びらが散って白い雪景色のように染まった庭に誰かが入ってきたならば、その訪問の痕跡として足跡が残るだろう・・・か?・・・あるいは実際には残らないかもしれない(桜の花びらと雪とでは、見た目はそっくりな白ではあっても、物質的形質は極めて異なるのだから)。しかし、「新古今集」のイメージ世界の中では、現実に即した事実性はしばしば、洗練された空想の前に道を譲るのである。庭に降り積もった桜の花びらの白いジュウタンの上に訪問者の足跡が実際に残るか残らないかは、徹頭徹尾「新古今調」のこの定家の短歌に関しては、どうでもよいことなのだ。この詩の思いの焦点は「桜の花びらの白いカーペット」に注がれているのではなく「訪問者が一人もいないこと」にこそあるのだから。
かくして、定家の短歌の中の謎の言い回し「春風跡も無し」は、「木々から落ちて春風に吹かれて庭一面を雪のように覆った桜の花びらたちの上には<今なお訪問者の足跡の一つも付いていない>(私はずっと辛抱強く待っているというのに)」と解釈できることになる。結句には「訪はばぞ人の雪とだに見む(=散り敷いた桜の白を誰かが雪と勘違いするのは、その人が我が家の庭を訪れてくれてこその話である)」とあるけれど、「誰かさんが実際に桜の白に染まった庭を雪の白と錯覚してくれればいいのに」などと定家が特に望んでいるわけではない(平安時代にはどんな間抜けでもそんな陳腐な錯覚に陥ったりはしない、ということを思い出してほしい)。定家としては単に、そんな由緒正しき(手垢が付いてはいるけれど)伝統芸たる「桜と雪の白紛れ」というやつに、この潜在的には興趣ありげな(実際には誰も来ず寂しい)春の庭で、共に打ち興じられる訪問者が誰一人いないことを、歎いているだけなのである。あの厄介な「春風」なる語句をここに引っ張ってみせたのは、定家の内心の焦りを表現するためである(早くはやく、早く来てくれないと、桜の白に染まった庭が、春風に吹き飛ばされて跡形もなく消えちゃうよ!)・・・実際には、問題の庭は今もなお春風による消去も受けずに手つかずのままなわけであるが、同時にまたその庭は誰の訪問も受けずに手つかず(&足跡付かず)のままでもある・・・ちょうど彼の父親(俊成)の短歌の中の雪が積もって真っ白な庭がぽつんと空虚な客待ちを続けているのと同じように。
このように、他の短歌を間接的に引き合いに出す(あるいは霞がかった感じでほのめかす)やり方を、「本歌取り(=他の短歌の一部の語句や言い回しを含む短歌)」と呼ぶ・・・その引用の仕方があまりにも露骨すぎる場合は「本歌盗り(=他の誰かの原作からの盗用詩歌)」と呼ばれることもある。しかしながら、ここで掲げた定家の短歌の場合、彼の父俊成の原典から借り出しているものは、特定の語句ではない ― さくらいろの<には>のはるかぜ<あともなし><とはば>ぞひとの<ゆき>とだにみむ / けふはもしきみもや<とふ>とながむれどまだ<あともなき><には>のゆきかな ― 「語句」ではなくてむしろ「詩歌全体の雰囲気」(詩人は誰かの来訪を虚しく待っているが、庭の寂しく白いじゅうたんには足跡一つ付かぬまま)を引き合いに出しているわけである。こうした場合の呼び名は「本説取り(=他の詩歌・物語・伝説等の作品背景を借りた詩歌)」となる。この種の「本歌取り」あるいは「本説取り」によるイメージ拝借は、名のある偉大な先達から引き継がれた自分たちの豊かな文芸遺産を誇らかに意識している詠み手/読み手の間でしか通用しない。新古今の歌人たちは、三百年に渡る文学的蓄積の中で歌人や物語作者たちの手で長々と築き上げられてきた幾多の「パラレル宇宙(自分たちのこの世界とは別次元に存在するもう一つの世界)」をほのめかすことで、三十一文字の短歌の世界を遙かに超えた大いなる存在へとこれを豊かに拡張することに貪欲に取り組んだことで有名なのである(あるいは、悪名が高いのだ)。
この定家の短歌の中の桜が「空中を舞っている(だけ)」と見る刹那的空想の自由はもちろん読者の権利(というか現代読者の多くが辿るお決まりコース)だが、新古今短歌としてのこの歌の情況は「庭に散り敷く雪の絨毯もどき」でないと興趣が足りないこと、俊成の短歌を交えての錯綜的解説を見た上で、納得していただけたであろうか? まぁ、納得しようがするまいがそれは諸君の自由であって、諸君の個人的見解になど定家もこの筆者も共に何ら干渉するつもりはないのだが、定家の本意がどこまで深いか想像してみる態度もなしにこの「正真正銘の新古今歌」の解釈を試みるのはやめておいたほうがいい。それでも執拗に食い下がる読者が「桜花を庭に散り敷かせるオマエの見立てはマチガイ」/「桜花は宙を舞っていてこそ雪!という我が見立てこそ正解!」と言い張るようなら、当方としてはただこう言うだけである ― 「うん、まぁ、その場合なら定家は’あともなし:跡も無し=痕跡一つ残ってはいない’などと回顧モードで言うことは決してないでしょうね。その代わりに彼は言うんじゃないかな、’あやもなし:文も無し=そんなことしたって無駄だ’とか’つれもなし:つれもなし/連れも無し=虚しいばかりだ/道連れ一人いやしない’とか’せんもなし:詮も無し=一体何のためにこの桜花は散るのだろう?’あるいは’いとむなし:いと空し=私の心はひどく空虚だ、誰に賞美されることもなく無意味に散るばかりの桜花だってきっと同じ気持ちだろう’と・・・そうでないと桜花は’ただ定家の記憶の中で散るばかり’になってしまい、’今現在定家の目の前で実際に宙を舞っている’ことにはならないから ― 前にも指摘した通り、’跡も無き物=今はもうそこに存在もしない物事’について歎いてみせたって意味ないわけだから」。
・・・というわけだが、さて、今の君の気分はいかが?・・・はぃはぃ、君の言いたいことはわかります・・・この定家の排他的難解短歌は「詩歌」というより「ナゾナゾ」じゃないか ― 大事なコマが欠けたとびきり難しいジグソーパズルじゃないか!・・・って、君はたぶんそう思ってるはず。決定的ヒントとして引っ張って見せた例の俊成の短歌に馴染みのある場合(・・・って可能性はほぼゼロに近いと思うけど)以外は、定家のこの挑戦的ナゾナゾを正しく解釈できる望みは実質ゼロ。そうしてそのパズルを最終的に解けたとしても、君は、自らの知的大勝利を誇らしく思うだろうか、それとも、こんな人を寄せ付けない難題投げ付けられて脳味噌無理矢理コキ使う羽目に陥ったことに憤慨するのが正解だろうか?・・・参考までに紹介すると、新古今歌人たちの特性たるこの種の排他的難解性は、彼らの同時代のもっとおとなしい昔ながらの歌人の面々からの批判を受けていて、ここで紹介したようなワケのわからん詩歌のことを彼らは「新儀非拠達磨歌」と呼んだ・・・伝統的な短歌の本式の作法に従わない新奇な詩歌のカルト(狂った新興宗教)ども、という意味である・・・排他的深遠さを振り回すにも程があるこうした新古今短歌に対する反感は、後代にはますます強まって行くことになる。新古今短歌を正しく解釈する上で不可欠な「偉大なるご先祖さま」との複雑に入り組んだ相互関係なんて、時代が経てばたつほど大方の人々にとっては見えなくなるのが当然なのだから、いよいよもってワケわからない感じの「新古今歌」が、ますます嫌われるのも、当然なのだ。
新古今短歌に対するこの筆者個人の好き・嫌いは敢えてここでは述べずにおいて、次の事実を指摘するだけにとどめておこう ― いわゆる「八代集=八つの主要な勅撰和歌集」はこの「新古今集」を以て終わりを告げた。その後も「勅撰和歌集」の編纂作業は一部の歌の流派によって散発的に続けられはしたが、それは自分達の詩歌の流派の代表作を集めただけの代物(その時代の短歌の代表選集では必ずしもないもの)であり、そうした身内芸能の発表会も、室町中期の1439年をもって途絶えてしまった。
総じて言えば、かつて栄華を誇った短歌という芸術は、平安時代の終わりにその息を引き取ったと言って差し支えなく、その「辞世の句」とも言うべき集大成が「新古今集(1210-1216年)」なのである。ここに引用した西行や定家の詩歌のごとき排他的で謎めいた「black swans(黒い白鳥=伝統的短歌とは明らかに違う異端児たち)」は、一面では三百年におよぶ蓄積の末の詩的堆積層の厚みを示すものであるが、その反面では、京都の朝廷内やその周辺のみで繰り広げられた平安貴族たちの間の排他的近親交配の末に致死的水準まで濁り果ててしまった芸術的血液のドロドロぶりの証左でもある・・・身内にしか通じない排他的濃密性を病的水準にまで高めてしまった短歌が、もはや日本の普通の人々の自然な国民的伝統遺産としての健全な生存など不可能と言えるところまで達してしまったのが、「新古今時代」なのである。
どんな良いことにもみな終わりはやってくる。どんな分野の経歴でも、最もワクワクする期待に満ちた段階(同時に最も困難な段階でもあるが)は、その最初期にやってくる・・・ということで、この記事の最後は、紀貫之の手になる幾つかの詩を紹介して締めくくろうと思う。これを見れば、短歌がまだその幼少期にあった一〇世紀初頭、詩人たちがどんな新鮮な創造的自由を享受していたかがわかってもらえるだろう・・・その当時は、最初の勅撰集『古今集(905年)』の中に次のような荒削りで説明口調の短歌が平気で並んでいたのである ― 《よしのやまきえせぬゆきとみえつるは みねつづきさくさくらなりけり》『古今集』春・四一・よみ人しらず 吉野山消えせぬ雪と見えつるは 峰続き咲く桜なりけり(吉野山に春になってもまだ消えずに残っている雪のように見えたものは、山の尾根づたいに横長に咲く桜の白い花の錯覚だったのだなぁ)
・・・ということで、<桜花>が<白い春のヴェール>の幾つかとわざとらしく紛れているその最も若々しいイメージを、短歌世界永遠の名匠たる紀貫之の手練れの技で、とくと御賞味あれ:
1)《さくらばなさきにけらしなあしひきの やまのかひよりみゆるしらくも》『古今集』春・五九 桜花咲きにけらしな足引の 山の峡より見ゆる白雲(桜の花がすでにもう花開いたらしい。というのも、山が途切れた空の空間ではなく、山と山との間の狭い空間(=峡:かひ)を縫うようにして白い雲が棚引いているのが見えるから(実際にはそれは「白雲」ではなくて山の尾根づたいに咲く「桜の花」なのだけど))
2)《しらくもとみえつるものをさくらばな けふはちるとやいろことになる》『後撰集』春・一一九 白雲と見えつる物を桜花 今日は散るとや色異になる(昨日までは山にかかった白い雲に見えていたのに、今日は所々「白」ではなくて「緑色」の部分が見える・・・ということは、桜の花が満開を過ぎて、葉桜になってきたということだろうか?)
3)《はるふかくなりぬとおもふをさくらばな ちるこのもとはまだゆきぞふる》『拾遺集』春・六三 春深くなりぬと思ふを桜花 散る木の本は未だ雪ぞ降る(春ももうだいぶ深まったと思っていたのに、桜の花が散る木の下だけは、まだ雪が降っている)
4)《ゆくみづにかぜのふきいるるさくらばな きえずながるるゆきかとぞみる》『古今集』春・一一四 行く水に風の吹き入るる桜花 消えず流るる雪かとぞ見る(川を流れる水の上を、枝から散った桜の花びらたちが、風に吹かれて覆っているさまは、まるで春になっても消えもせずにいる雪が水に流れて漂っているように見える)
5)《さくらばなちりぬるかぜのなごりには みづなきそらになみぞたちける》『古今集』春・八九 桜花散りぬる風の名残には 水無き空に波ぞ立ちける(桜の花が散ってしまった後の空には、風に舞う花びらたちが筋をなして、まるで水もない空に波が立っているように見える)
6)《ゆきとみてぬれもやするとさくらばな ちるにたもとをかづきつるかな》『古今集』元永本&清輔本のみ・八一 雪と見て濡れもやすると桜花 散るに袂を潜きつるかな(その白い色に思わず雪と思って「濡れまいか?」と感じたけれど、実際にはそれは桜の花・・・その散り行く姿を惜しむあまり、私の袖のたもとは、雪ならぬ我が涙で濡れてしまったよ)
・・・これでおわかりいただけたであろう ― 「春」こそ一番良い季節;だが悲しいかなそれはあまりにも短い ― 花にとっても人にとっても、そして芸術にとっても・・・
実際の会話相手の提供はしませんが、「さやかさん/冗悟サン」との知的にソソられる会話が出来るようにはしてあげますよ(・・・それってかなりの事じゃ、ありません?)
現時点では、合同会社ズバライエのWEB授業は、日本語で行なう日本の学生さん専用です(・・・英語圏の人たちにはゴメンナサイ)