★芸術と人生について ― さやか、冗悟の人生観に驚く★
冗悟:夏の詩をもう一つ・・・さて、さやかさんのご感想は?
さやか:わたし、こんな短歌・・・
冗悟・・・今まで出逢ったことないわ?
さやか:三度も続けて同じこと言うなんてバカみたいだけど、でもそれがこの詩に触れてのわたしの素直な感覚なんです。今までに見た短歌の中で一番不思議・・・「短歌」というより「俳句」みたい。
冗悟:俺もそう思う。だからこそこうして取り上げて君に見せたわけさ・・・気に入ってくれた?
さやか:はい。その涼しげな(coolな)響き・・・「クール」って言っても近頃たいていの人達がなんてこともないものに触れるたび叫びまくってる安っぽい「クール!」じゃなくって、本当に涼しげなこの清涼感・・・目にもクール、耳にもクール、肌触りまでクールなひんやり感で、口ずさむだけでこの身が涼しくなります ― 「言葉のクーラー」って呼びたいくらい。
冗悟:うぅーん・・・さやかさんってほんと「詩人」だね。
さやか:わたしなんか全然。「詩人」ってのはこの歌の作者みたいな人を言うんですよ・・・誰かなこの人?・・・慈円(じえん)? 当時の有名な歌人ですか?
冗悟:それはもう有名な歌人だよ。『千載集(1188年)』に9作品、『新古今集(1210-1216年)』に至っては92作品、なんと101首もの慈円の詩が登場するくらいだから。
さやか:たった一つの歌集に92首ですか!? ぅわぁー!・・・じゃ、ぜんぶでいったい何作品登場するんですか?
冗悟:総数は同じ101首、八代集の中では慈円は第七・第八の時代まで登場しないから。彼はいわゆる「新古今時代」の最も著名な詩人の一人だよ。
さやか:二つの勅撰集だけで100回以上登場なんて・・・それって、異様なことじゃないですか?
冗悟:『千載集』と『新古今集』に関して言えば、それほど異様なことじゃないよ。この二つの勅撰集は、同一作者が何回登場したかとか、同じ作品が過去の勅撰集との間で重複してないかとか、そういうことは気にしないから。問題は「詩」であって「詩人」じゃない。その詩が美しければ、他のとダブっていようがオリジナルじゃなかろうが、そんなのまるで気にしない。詩としての美が全てに優先するんだ・・・芸術的に美しければ現実離れしていようがそんなの気にしない、それが「新古今調」さ。
さやか:人生よりもまず芸術・・・あるいは芸術こそが人生、ですか? なんか芥川龍之介思い出しちゃう・・・彼、なんて言ってましたっけ?
冗悟:「人生は一行のボオドレエルにも若かない」・・・『或阿呆の一生』より、かな?
さやか:そう、それ!・・・それって、冗悟サンも感じてることですか?
冗悟:人生なんて本質的に無意味だよ、芸術があろうがなかろうが。
さやか:えぇっ?!
冗悟:人生そのものには本当に全く何の価値もない。だからこそ、その無価値な人生に価値を与えようとしてあれこれ足掻くわけさ ― 誰かを愛したり誰かに愛されたり、金を稼いでは使うことで自分は”valuable(価値ある存在)”だと感じてみたり、「名無しの誰かさん」から抜け出そうと必死の売名行為に走ってみたり ― 「芸術」ってやつもまた、基本的に無意味なこの世で過ごす空っぽな時間に何らかの意味を与えるための必死の人間の足掻きの一つに過ぎないよ・・・「天」に与えられた時間だか、「自然」に与えられた時間だか、「神様」に与えられた時間だかは知らないけどね。
さやか:「親からもらった時間」だと思います。わたし、自分の人生が結局無意味な死で終わるさまを両親に見せて悲しませたくありません。
冗悟:うん、それはいい、とってもいいよ、さやかさん。そういう考え方をする限り、君の人生は決して無意味なものに終わったりしないから。「誰か」のために生きる ― それが自分の人生を価値あるものにする一番の道さ。「何か」のために生きるよりずっといい・・・たとえその「何か」が後代の批評家の目にいかに価値あるものに見えたとしても、「誰か」のために捧げた人生ほどの価値はない。君にとって大事な「誰か」、君の人生を君にとってとても価値あるものにしてくれる「誰か」・・・まぁ、「男性」かな?
さやか:「わたしたち」・・・結局みんな行き着くところは「わたしたち=人との関わり」であって「それ=物事や概念」じゃない、ってことですよね?
冗悟:そういうこと。君が一番幸せなのは「誰か」と一緒にいる時であって、「何か」を手にしている時じゃない ― その「何か」の価値を芥川龍之介(1892-1927)がどれほど声高に叫ぼうとも、ね ― 「芸術」だけがぽつねんとある姿なんて、さびしいものさ・・・無価値とは言わないけどね。でも、隣りで一緒にそれを愛好してくれる「誰か」と一緒に味わう「芸術」って、素敵な感じだとは思わない?
さやか:異議なし! これからも一緒に愛好しましょ、冗悟サン。
冗悟:もちろん! 二人一緒のこの冒険を長続きさせるためにも、お楽しみは次回に取っておくことにしよう・・・本日はこれまで。じゃまたね、さやかさん。
さやか:ありがとうございました。またすぐにお逢いしましょ。
----------
9)(題しらず)
やまかげやいはもるしみずおとさえてなつのほかなるひぐらしのこゑ
「山陰や岩漏る清水音冴えて夏の外なる蜩の声」
『千載集』夏・二一〇・慈円(じゑん)(1155-1225:男性)
『山深い木立の中、岩の上を静かに流れる湧き水の音が涼しげに響き渡る・・・彼方に聞こえるのは物静かなヒグラシの鳴き声・・・夏の暑さも喧騒も、ここだけはまるで別世界。』
Deep in mountains in the shade of trees,
Sounds of rocky streams freshly wash my ears,
Deeper still I hear cicadas coolly sing…
Do they really know it’s summer in the world outside?
やま【山】〔名〕<NOUN:the mountain>
かげ【蔭】〔名〕<NOUN:the shadow, shade>
や【や】〔感〕<INTERJECTION>
…in the dark side of the mountain
いは【岩】〔名〕<NOUN:the rock>
もる【漏る】〔自ラ四〕(もる=連体形)<VERB:ooze out, spring from>
しみず【清水】〔名〕<NOUN:the pure clear water>
おと【音】〔名〕<NOUN:the sound>
さゆ【冴ゆ】〔自ヤ下二〕(さえ=連用形)<VERB:get sharp, keen, sound fresh>
て【て】〔接助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(SIMULTANEITY):and>
…I can clearly hear clean springwater running on the surface of rocks
なつ【夏】〔名〕<NOUN:Summer>
の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>
ほか【外】〔名〕<ADJECTIVE:outside, alien to>
なり【なり】〔助動ナリ型〕断定(なる=連体形)<AUXILIARY VERB(ASSERTION)>
ひぐらし【蜩】〔名〕<NOUN:cicadas (entomologically, ‘Tanna japonensis’)>
の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>
こゑ【声】〔名〕<NOUN:the voice>
…the voice of a cicada is heard [as if it came from] outside of Summer
《yama kage ya iwa moru shimizu oto sae te natsu no hoka naru higurashi no koe》
■物語から絵画へ ― 短歌から俳句へ■
慈円(じえん:1155-1225)の手になるこの涼しげに絵画的な詩の一編は、第五勅撰集『金葉集(1126年)』とその続編『詞花集(1151年)』の頃から頻繁に登場するようになる自然写実主義的短歌の一つである。この種の「自然派短歌」は、自然描写に於いても本質的に主観的で詩人自らの個人的感情の投影された「鏡」としてのみ自然の景物を描いていた平安調の他の短歌とは趣が異なる。その種の伝統的平安調短歌と違って、この詩は単に自然それ自体の姿を描写するのみ、詩人の目に映る物事を淡々と描くのみ(と言っても必ずしも野にある本物の自然の姿ではなく、詩人自らの脳内にある想像世界であることはほぼ確実)、そこに詩人の主観的感想の描写は一切ない ― ただ「夏の外なる(なつのほかなる=夏とは違う感じの)」という言い回しでもって、この情景の醸し出す不思議な涼しさを読者のイメージの中に印象付けようとしている点のみが「詩人の個人的出しゃばり」であり、それ以外ではこの詩人個人の思惑など詩中のどこにも存在しない。
個人的感情を交えずに自然描写に徹する ― これは「俳句」(5-7-5音節の日本語17文字から成る短文詩)の典型的様式である。慈円の手になるこの詩は「俳句」の祖先の一つとみなして差し支えないだろう・・・もっとも「夏の外なる(・・・夏っぽくない)」なる説明的一節を入れるなど、本物の「俳句」には決して考えられないことではあるが(・・・17文字の制約を持つ「俳句」の中では、作者が何を感じたか、あるいは作者が読者に何を感じてほしいのかを、くどくどと言葉で説明する余地など一切ないのである)。
17文字の「俳句」と31文字の「短歌」の違いをはっきりと読者に認識してもらうために、「俳句」という文芸ジャンルの創始者たる松尾芭蕉(まつおばしょう:1644-1694年)の作った二つの有名な俳句の例を引くことにしよう:
《ふるいけやかはづとびこむみづのおと》古池や蛙飛び込む水の音
・・・もしこれを17語(「17文字のアルファベット」ではない「17の英単語」)を並べた英語版5-7-5で翻訳するなら、次のような感じになるだろう:
An old pond is here(私の目の前に古い池がある)
A frog jumps in somewhere I hear(どこかで一匹の蛙が飛び込む音がする)
There is nothing else there(ほかにはそこに、何もない)
・・・5-7-5形式を念頭に置かずに作るなら、次のような4-5-4単語の英文にしたいところ:
A pond, old pond(池・・・古い池)
Leaps in a small frog(飛び込むは、小さな蛙)
Fading off into silence(波紋はフェードアウトして静寂の中へ消え入る)
・・・この詩を取り巻く状況を31文字/5-7-5-7-7音節の日本語で説明すると、次の通り:
《われひとりながめしものとおもひしを こけむすいけにかはづいるらむ》by 之人冗悟 我一人眺めしものと思ひしを 苔生す池に蛙入るらむ(こんな場所でぼんやり眺めているのはこの私一人だと思っていたのに、苔の生えた古い池に、どこかで蛙も一匹、飛び込んだようである)
芭蕉の俳句のもう一句は、今回紹介した慈円の短歌にどことなく似ている:
《しずかさやいはにしみいるせみのこゑ》閑さや岩に滲み入る蝉の声
・・・5-7-5の型通りの英語で翻訳すると、次のようになる:
Sound of silence prevails here(静寂の音が辺り一面を覆い尽くす中)
Something cool invades to disappear into rocks(涼しげな何かが侵入し、あの岩この岩へと消えて行く)
Cicada singing in quiet harmony(一匹のヒグラシの、周囲の静寂との静かなる合唱の声)
・・・何文字使おうが気にしないのであれば、次のような2-3-4語の英訳を試みるところ:
Tranquility pervades(静けさが広がる)
A cicada’s voice permeates(一匹の蝉の声が滲み渡る)
Through silence into rocks(静寂の中を滲み通って岩の中へと消えて行く)
・・・いささか説明口調の31文字(31語ではない)の日本語にすると、次のような感じ:
《ひぐらしはみみよりいりてみにしみて みるいはにさへしみいりぬべし》by 之人冗悟 蜩は耳より入りて身に沁みて 見る岩にさへ滲み入りぬべし(ヒグラシの声は、聞く者の耳から入り、心にじんわり沁み入って、やがては岩の中へと滲み入ることだろう)
何の感情も込めず説明もしない5-7-5の「俳句」のぶっきらぼうなまでに示唆的な特性は、こうしてみると(平安末の自然派短歌の5-7-5-7-7と比べてみると)確かにまだ随分遠い ― 500年も遠い ― 先の話のようである。
実際の会話相手の提供はしませんが、「さやかさん/冗悟サン」との知的にソソられる会話が出来るようにはしてあげますよ(・・・それってかなりの事じゃ、ありません?)
現時点では、合同会社ズバライエのWEB授業は、日本語で行なう日本の学生さん専用です(・・・英語圏の人たちにはゴメンナサイ)