★最初こそ最高 ― さやか、冗悟の「他じゃ味わえない興奮満載」の少年時代をうらやむ★
さやか:わたしこんな短歌・・・
冗悟:「今まで出逢ったことないわ!」だね。この歌、当然、好きだよね、さやかさん?
さやか:もちろんです! 冗悟サンも同じ気持ちでしょ?
冗悟:もちろんさ、さもなきゃわざわざ選んで見せたりしない。実はこれ、全ての時代の全ての短歌の中で俺が一番好きなやつの一つなんだ!
さやか:誰が作ったのか、とっても興味あるんですけど。
冗悟:他ならぬあの柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)だよ。奈良時代最高の詩人にして、日本のあらゆる歌人の中で最も聖なる存在とされる「歌聖・人麻呂」の歌さ。
さやか:どうりでとっても独自な響き・・・たしかにちょっぴり荒削りだけど、びっくりするほど力強くて、「男歌」って呼びたい感じ。
冗悟:その通り、見事に的確な言い方だね・・・平安調短歌ほど優美じゃないが、原始的で力強い、それが奈良時代の古い短歌、というか「万葉調短歌」の生命力・・・賀茂真淵(かものまぶち:1697-1769)言うところの「益荒男振り(ますらおぶり=男っぽい文体)」で、平安調の「手弱女振り(たおやめぶり=女っぽい文体)」とは対照的なスタイルだね。
さやか:ほかにもこんな力強い自然描写の人麻呂歌、ありますか?
冗悟:残念ながらこれが唯一無二の例だね・・・これに似た歌は人麻呂自身を以てしても作りようがないよ、他の連中は言うに及ばず、ね。それはちょうど「Star Wars Episode IV:スターウォーズ・エピソード4」みたいなものさ!
さやか:なんですかそれ?
冗悟:「Episode IV: A New Hope(エピソード4:新たなる希望)」=1977年の初公開当時、今までにない斬新な描写で見る者全ての度肝を抜いた、銀河系宇宙が舞台の冒険物語・・・さやかさん、「スターウォーズ」シリーズ、見たことないの?
さやか:ないです。聞いたことあるだけで。
冗悟:宇宙が舞台の冒険活劇は、あまり興味ない?
さやか:あんまり。わたし、そういうニセモノじゃなくて、ホンモノ映画のほうが好きです。
冗悟:ブルース・リーみたいな生身のアクション・ヒーローの映画?
さやか:そう! ブルース・リー最高! ジャッキー・チェンもおなじくらいいい。サモ・ハンもやっぱりグッときちゃう!
冗悟:SUMOU fan(相撲ファン)?
さやか:Sammo Hung Kam-bo(サモ・ハン・キンポー)。「燃えよドラゴン(Enter the Dragon)」の冒頭の格闘シーンでブルース・リーと戦った人・・・彼、「燃えよデブゴン(Enter the Fat Dragon)」って映画でブルースへのオマージュも捧げてるんですよ!
冗悟:「デブゴン(Fat Dragon)」とはすごい名だね!・・・それで彼は「お相撲はん」って呼ばれてるわけ?
さやか:(…)「SAMO_HUNG_KAM-BO(サモ・ハン・キンポー)」・・・それは確かに彼、ちょっぴり太めだけど、でも彼の素早い動きはあんなに太ってるぶんだけ逆にすごいんですよ! 彼らのアクション場面はとってもリアル。作り物には違いないけど、それでも彼らは生身の肉体を使って目を見張るような格闘シーンを作り上げてる ― ワイヤーアクションもコンピュータ合成画像もなし ― ホンモノなんだから! だからわたし、CGで作った宇宙冒険活劇よりも彼らの生身のアクション映画のほうが好き。
冗悟:君の言いたいことはわかったよ。オッケー、とりあえず俺たちの好みの違いはさておいて、誰にも否定できないことが一つある ― 最初の時が常に最高、ってことさ。後に続くものはみんな、たとえどんなに洗練の度を加えようが、所詮は真似事、オリジナルじゃない。真似事は決してオリジナルを越えられないんだ。そしてまた世の中にはたった一度しか存在し得ないものがある。二度繰り返されれば無意味あるいは馬鹿げたものに成り下がるんだ、「スターウォーズ」の二番煎じとして山ほど作られた安っぽいスペース・オペラみたいにね・・・これはそういう短歌なんだよ ― その種のものとしては唯一無二のもの、真似事なんて誰にも無理、人麻呂自身ですら作れない。
さやか:わかりました。この短歌が魅力的なのは、完全にオリジナルだからなんですね。
冗悟:・・・ということは、これは日本の短歌とは思えないくらい徹底的にユニークな唯一無二の存在ってこと。
さやか:・・・ということは、「こんな短歌、今まで出逢ったことない」ってわたしが叫んだのは大正解ってこと。
冗悟:まったくもってその通り。ようやく意見が一致して、嬉しいよ。
さやか:そうですね!・・・ところで、冗悟サン、今度いつか一緒に、昔のカンフー映画観ません?
冗悟:ブルース・リーやジャッキー・チェンの出てるやつ?・・・あと、例のサム・ファン(SOME-FUN=ちょぃオモロい)?
さやか: SAMO_HUNG_KAM-BO(サモ・ハン・キンポー)。CGなしで戦う彼らの姿見て一緒に楽しみましょ!
冗悟:うーむ・・・ま、やめとこ ― もうこれまでの人生の中で、彼らの映画は山ほど観てきたからね。
さやか:えーっ! それじゃ、彼らのこと嫌いみたいなフリしてたのは、みんなわたしをだますためのウソ?
冗悟:彼らが嫌いなやつがいたら、彼らみたいになりたいと思わないやつがいたら、そいつは男じゃないね。ブルース・リーもジャッキー・チェンもサモ・ハン・キンポーもユン・ピョウも・・・1970年代の男子ならね。
さやか:じゃ、冗悟サンは70年代男子だったんですね?
冗悟:60年代や70年代に少年時代を過ごした男たちにとっては、「こんなの今まで見たことない!」って叫びたくなるような新しい体験やニュー・ヒーローがてんこ盛りさ。
さやか:ぅわーっ、いいなぁ・・・じゃ、冗悟サン「燃えよドラゴン」を封切りと同時に見たってことですか?! それって、うらやましいの通り越してほとんどズルいですよ!
冗悟:あぁ、まったくだね。君のことは「かわいそうだなぁ」って思うよ・・・2010年代の少女たちよ、君らにとって「真に新しいもの」は、何処にある?
さやか:これ以上惨めな気分にさせないでくださいよ、今でも十分みじめなんだから・・・ほんと、アンフェアだわ!
冗悟:お気の毒さま。だからこそこうして君を一連の詩的冒険の旅にお誘いしてるわけさ、「こんな短歌、今まで出逢ったことないわ」みたいなやつをいっぱい取りそろえてね・・・それで多少なりとも埋め合わせになればいいんだけど。
さやか:はい、感謝してます。ほんと楽しいです。これからもそんなまったく新しい体験の数々でわたしを楽しませ続けてくださいね、冗悟サン!
冗悟:わかった。君も「こんなの今まで見たことない!」って叫び続けておくれよ。
さやか:叫び続けます、今回みたいな詩を見せ続けてくれるかぎり。
冗悟:あぁ、そうしてあげるよ・・・ってことで、後は次回のお楽しみ。じゃまたね。
さやか:ありがとうございました。じゃぁ、また。
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11)(詠天)
そらのうみにくものなみたちつきのふねほしのはやしにこぎかくるみゆ
「空の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ」
『拾遺集』雑・四八八・(『万葉集』巻七)柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)(c.660-c.720:男性)
(天空を詠んだ歌)
『夜空いっぱいに広がる大海原に、幾重にも立つ雲の波を乗り越えて、まばゆい光を放つ月の舟が漕ぎ進み、星々の森の中へと分け入って行くのが見える。』
(on the heavens)
In the vast oceans of the sky
On waves after waves of clouds
Sail the shiny vessel of the moon
Into the yonder starry forests.
そら【空】〔名〕<NOUN:the sky>
の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>
うみ【海】〔名〕<NOUN:the sea, ocean>
に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(PLACE):on>
…in the oceans of the sky
くも【雲】〔名〕<NOUN:the clouds>
の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>
なみ【浪】〔名〕<NOUN:the waves>
たつ【立つ】〔自タ四〕(たち=連用形)<VERB:be stirred up, rise up>
…there stir up waves of clouds
つき【月】〔名〕<NOUN:the moon>
の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>
ふね【舟】〔名〕<NOUN:the ship, vessel>
ほし【星】〔名〕<NOUN:the stars>
の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>
はやし【林】〔名〕<NOUN:the forest, woods>
に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(PLACE):into, towards>
こぐ【漕ぐ】〔他ガ四〕(こぎ=連用形)<VERB:row>
かくる【隠る】〔自ラ四〕(かくる=連体形)<VERB:hide away, conceal itself>
みゆ【見ゆ】〔自ヤ下二〕(みゆ=終止形)<VERB:I can see, it looks as if>
…a ship of the moon is seen to hide behind the forest of stars
《sora no umi ni kumo no nami tachi tsuki no fune hoshi no hayashi ni kogi kakuru miyu》
■『万葉集』で確証できる短歌のみ真の人麻呂歌;それ以外はたぶん「他人放る歌(ヒトマルウタ=よその誰かが放り散らかした人麻呂のクソマネ作品)」■
作り手の主観的感情のまるで投影されていない粗野だが力強い自然描写に於いて、平安調短歌とはまるで異質のこの短歌の作り手は、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ:660年頃-720年頃)。彼は同時代の山部赤人(やまべのあかひと:??-736年頃)と並んで「詩聖」と呼ばれ、いずれも粗野ながら力強い『万葉集』(『古今集:950年』の一世紀前に作られた日本で最古の歌集)の作風を代表する歌人である。
自然の全景をかくも雄大なスケールで描くことなど、平安時代の歌人の短歌の中にはまるで見られぬことと言ってよい。平安時代の歌人たちは主観的・投影的・知的・芸術的すぎる上に細部へのこだわりが強すぎて、人麻呂みたいな響きの歌など作れないのだ。図々しい歌人ども(そして少なからぬそそっかしい編者連中)の多くが、どことなく原始的で何となく人麻呂っぽく見える後代のヘンテコ作品を「柿本人麻呂 作」などとしているのだから、「伝 人麻呂(言い伝えによれば、人麻呂の作品、らしい)」というやつを見た時には注意が必要である。それと同じ作品を追跡調査して『万葉集』の中に見出せたなら、それは真性の「柿本人麻呂 作」とみなしてよいが、それ以外の場合は(ニセモノかも)と思って警戒しながら見たほうがいい。本物の人麻呂短歌は、平安調短歌のどれとも本質的に響きが違うのである(・・・本物の詩人の耳には、そうなのである)。
平安時代最大の短歌の達人である紀貫之(きのつらゆき)が人麻呂と意識的に張り合おうと頑張って、航海中の船の上から見た自然の景観のパノラマ描写を試みた時、彼は次のような詩を作った:
《てるつきのながるるみればあまのがは いづるみなとはうみにぞありける》『後撰集』羈旅・一三六四
『照る月の流るる見れば天の河 出づる・・・』(夜空を照らす月が流れて行く・・・天の川を渡航する船のように・・・出て来る)
・・・ここまでは実に順調、まことに人麻呂っぽくていい感じである;が・・・
『出づる湊は海にぞありける』(その天の川も、月も、共に、海の果ての港から出てくるものだったのだなぁ)
・・・最後の最後で貫之は「理知的」に走る誘惑に負けてしまった ― 平安の歌人であれば当然ではあるが ― 「海」を「湊(みなと・・・”港”である以前にその語源は”水門=水の戸”)」へとなぞらえて、その「水の流れ出る戸口」から天空を行く船たる「月」も月の舟の航路たる「天の川/銀河」も共に流れ出る、と詠んだのである。すでにもう一連の講釈の中で繰り返し述べてきた通り、平安の世の歌人は自然をありのままに描くことはほとんどせず、自然物を眺める際には本能的にこれを「人間の感情の主観的投影対象」とし、「人工物」になぞらえて見てしまうのだ。
貫之と並んで『古今集』の編者だった凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)が、六月最後の日(陰暦の話・・・太陽暦では7月末日)の空を眺め、あらん限り人麻呂ふうの詠歌を試みた場合、こうなる:
《なつとあきとゆきかふそらのかよひぢは かたへすずしきかぜやふくらむ》『古今集』夏・一六八
『夏と秋と行き交ふ空の通ひ路は』
・・・いいぞいいぞ、人麻呂っぽい自然の姿を描くには打って付けの壮大なキャンバスだ;が・・・
『片方涼しき風や吹くらむ(・・・片方の側=秋側だけは、涼しい風が吹いているのだろうか?・・・旧暦7月9日の「立秋」でさえあり得ないのに、6月末にそんな涼しい風が吹くものかっ!というツッコミはなし;これは単なる言葉遊びなのだから)』
・・・躬恒も結局、「万葉調短歌」としては全く不似合いな平安調短歌特有の機知(ウィット)に富んだ言い回しに走ってしまったわけだ。
年月が流れるにつれて、平安調短歌はますますもって細部にこだわるチマチマ性を強めて行き、自然物の微細な諸点にシャーロック・ホームズか有能な自然科学者のごとき詮索の眼を向けて意識を集中する細密描写へと傾いて行くことになる:
《ささがにのすがくあさぢのすゑごとに みだれてぬけるしらつゆのたま》『後拾遺集』秋・三〇六・藤原長能(ふじわらのながよし:949-1009年)
・・・小蟹の巣懸く(=クモが蜘蛛の巣を懸ける)浅茅(=草ぶき屋根)の末毎に(=その草葺き屋根の蜘蛛の巣の端っこの一つ一つの上に)乱れて(=ゆらゆら揺れながら)貫ける(=しっかり貫通しているのは)白露(=日光を反射して白く見える水滴)の玉(=まるでそれは無数の真珠を数珠つなぎにしたかのようだ)
・・・この詩からもわかる通り、細部へのこだわりは、千年以上の長きに渡る日本の伝統芸なのである。
もう一つの日本人の特性 ― 他人がやってうまく行ったものを見ると、自分も図々しく物真似して繰り返したがる傾向 ― からして、上の長能(ながよし)の短歌を共通の「ひな形(テンプレート)」とした次の二つの短歌が(さも当然のごとく)生まれている:
《あさぢはらはずゑにむすぶつゆごとに ひかりをわけてやどるつきかげ》『千載集』秋・二九六・藤原親盛(ふじわらのちかもり)
・・・浅茅原(=屋根に葺くためのワラになる植物が生い茂る野原)葉末に(=その野原に茂る無数の草々の一つ一つの葉っぱの上に)結ぶ露(=小さな水滴が宿っている)毎に(=その小さな水滴の一つ一つのそのまた上に)光を分けて(=それぞれの水滴なりの取り分を平等に反映して)宿る月影(=月の光が水滴の中に反射しながら明るく宿っている)
次の短歌は、日本の二つの伝統に二重の敬意を表しつつ作られている ― 1)これは上に掲げた二つの詩に綺麗な飾りを加えただけの丸映し(カーボンコピー)短歌である; 2)このイタダキ歌はこれまた平安初期の伝説の歌人である「蝉丸」作品である、などと図々しくも言い張っている:
《あきかぜになびくあさぢのすゑごとに おくしらつゆのあはれよのなか》『新古今集』雑・一八五〇・伝 蝉丸(なんでもこれってセミマルの歌、らしいよ、などとヌケヌケと言ってみたりする)
・・・秋風に靡く浅茅(=秋風に吹かれて揺れる屋根に葺くための草)の末毎に(=その藁葺き用の草の一つ一つの上に)置く白露(=白い真珠のように乗った水滴)の哀れ世の中(=そのゆらゆら揺れる小さな真珠めかした水滴と同じように頼りなくはかない存在、それが我々人間が身を置くこの世界なのだ)
日本人はすでにもう今から千年も昔の段階で、そのほんの百年前までの(人麻呂や赤人に代表されるような)素朴で自然派の人々とは別物になっていたわけである。平安初期にこの劇的変化をもたらしたものは一体何だったのか、それは極めて興味深い問題ではあるが、その答えが何であるにせよ、現代の日本人は「細部にこだわりまくり」で「物まねに走りがち」で「オリジナリティを無視する」平安歌人達の直接の末裔である、ということに疑いの余地はほとんどあるまい・・・いささか耳障りな言い草だったかな? 明け透けすぎたなら許してほしい、これはきっと人麻呂の雄大なる自然派詩歌の残響なのだろうから。
実際の会話相手の提供はしませんが、「さやかさん/冗悟サン」との知的にソソられる会話が出来るようにはしてあげますよ(・・・それってかなりの事じゃ、ありません?)
現時点では、合同会社ズバライエのWEB授業は、日本語で行なう日本の学生さん専用です(・・・英語圏の人たちにはゴメンナサイ)