★深遠にして難解にして早すぎて理解不能 ― さやか、秋の憂愁に染まらぬ我が身を実証する★
冗悟:さぁ、秋もこの短歌にて遂におしまい・・・どんな印象かな、さやかさん?
さやか:ぜーんぶ緑・・・ぜーんぜんグリーク(all Greek=何がなんだかわからない)。
冗悟:うぅーん・・・とっても詩的な言い回しだけど、「ちんぷんかんぷん」ってことだね・・・気に入ったよ!
さやか:そう? 気に入ったのはどっち、この短歌? それともわたし?
冗悟:両方気に入った。
さやか:そう言うと思った。
冗悟:気に入ったよ、本気で。この短歌は本当に好きだけど、君には解釈が難しいだろうなと思ってた。けど、君は解釈しようと頑張って、この詩の色 ― 「槇立つ山の秋の夕暮れ」の色 ― は「ぜーんぶ緑」ってことまでは突き止めたんだから立派なものさ・・・そう、君の言う通り、槇の色はいつも変わらず緑 ― いつまでも変わらず色褪せない・・・その点ではこの極めて新古今調の短歌も同じだね。
さやか:時の試練に耐えて生き残ってきた古典的名作、ってことですか?
冗悟:これまでもこれからも、ずっとずっと時の風化作用に耐えて生き残るだろうね、我々の文明が続く限り。
さやか:ふーん・・・変わらぬ緑、ぜーんぶ緑、だけどわたしにはちんぷんかんぷん・・・助けてくれます、冗悟サン?
冗悟:いいよ。まず最初に、君なりに翻訳してみてくれる、さやかさん?
さやか:「わたしは発見した、寂しさはその色ではないと ― ぜんぶ緑 ― 槇の木が秋の夕暮れの中に立つ山の景色」・・・こんな感じで、後ろも前も右も左も、何がなんだかちんぷんかんぷん!
冗悟:うん、まぁ・・・なんとなくわかる気がするけどね。
さやか:わかります? どこが後ろでどっちが前ですか?
冗悟:君はロング・テール(wrong tail:間違った尻尾)をつかまえて、ヘッド(あたま・脳味噌)に釘付けしちゃったんだな。
さやか:長い(long)しっぽ?・・・それとも違う(wrong)しっぽ?
冗悟:正しくはないけど、完全な「間違い」とも言えないやつ ― 「緑」色 ― それが「ロング・テールをヘッドに釘付け」の意味さ。
さやか:正しくないけど完全まちがいでもない?・・・どういう意味ですか?
冗悟:「槇」の色を「緑」と理解したところまでは正しいんだけど、「その色」は「緑」だと考えたのは間違いなんだ。実際にはそれは特に何色というわけでもないんだから。
さやか:槇は緑だけどその色は緑じゃなくて特に何色でもない・・・? またこんがらがってきちゃった、おねがい、助けて冗悟サーン!
冗悟:めそめそ声出さないで、君は健闘してるよ、ゴールはすぐそこだからね、さやかさん・・・オッケー、それじゃさっきの翻訳の出だしを少し変えよう ― 「その色」はやめて「あの色・この色」にしてみよう。もう一度訳し直してくれるかな?
さやか:はい・・・「わたしは発見した、寂しさはあの色・この色ではないと ― ぜんぶ緑 ― ・・・・」
冗悟:おっと、ストップ! ごめん、言い忘れてた ― 「ぜんぶ緑」も取っ払っちゃおう。もう一度やり直してくれる?
さやか:はーい ― 「わたしは発見した、寂しさはあの色・この色ではないと ― 槇の木が秋の夕暮れの中に立つ山の景色」・・・
冗悟:さてと、これだとどんな感じかな、さやかさん?
さやか:「わたしは発見した、寂しさはあの色・この色ではないと」・・・それって「さびしさは特定の色合いに依存するものではない」って意味ですか?
冗悟:いつもながら君はかわいい上に鋭いね、さやかさん。そう、「寂しい」って感情は何がきっかけで起こるかわからないものなんだよ。
さやか:でも、それならなんでこの詩人は、寂しさは「何」がきっかけで起こるかわからないって書かないで、「どの色」がきっかけで起こるかわからないって書いたんですか?
冗悟:うぅーん・・・それもまたいい質問だね、君の質問はいつだってズバリ核心を突いてくる、さすがは「冴やか」さんだ! 正解にまた一歩近づいてるよ。改めて考えてみようか ― 秋の色・・・そう言われて思い浮かぶものは? 「ぜーんぶ緑」かな、それともそれ以外の色かな?
さやか:・・・「紅葉」、黄色や赤く染まった葉っぱ。
冗悟:いいよ、とってもいい・・・その葉っぱ、夏には黄色や赤だったかな?
さやか:うぅん、春や夏には緑色・・・黄色や赤に変わるのは秋・・・で、冬が来ると散っちゃうの。
冗悟:「緑」が「黄色」や「赤」に変わってそれから・・・何もなくなる・・・秋は寂しい季節だよね?
さやか:よくよく考えれば、そうですね。
冗悟:木の葉の「緑」が「黄色」や「赤」に変わる時、我々は「もう秋も深いんだなぁ」って感じる・・・それって、実に寂しい景色だとは思わない?
さやか:そう言われてみれば、そうですね。
冗悟:オッケー、じゃ注目の対象を「黄色と赤」から他のものへ変えてみよう。
さやか:「緑」へ、ですか?・・・なんか信号みたい!
冗悟:君は鋭い上にお茶目だね、さやかさん。どうも「秋の寂しさ」は君には無縁のようだ。
さやか:正直に言うと、わたし「秋」って好き。
冗悟:理由は?
さやか:「冬」がすぐそこまで来てるから!
冗悟:おー、君、「冬」が好きなんだ?
さやか:はい、わたし「冬」大好き! 雪にスキーにクリスマス、それとお年玉・・・楽しいこといっぱい!
冗悟:活発でかわいいお嬢さんだ・・・「秋」は寂しいって感じたこと、ないの?
さやか:実は全然ありません。わたしが「寂しい」って感じるのは、夏がだんだん秋っぽくなって行く時。
冗悟:わかるよ、その感じ・・・
さやか:八月の終わりなんて、世界の終わりみたいに感じちゃう。
冗悟:特に、手つかずの宿題が山ほど残ってる時は。
さやか:冗悟サン、さやかのこと何でも知ってるんですね。
冗悟:前にも言ったろ、俺にだって十代の頃はあったのさ。
さやか:十代の冗悟サンってちょっと想像つかない・・・冗悟サンってなんかこう・・・
冗悟:なんかこう『大鏡』の世界からポンと抜け出してきたみたい、百歳を優に超えたおじいさんみたい、ってかい?
さやか:そうじゃなくて、冗悟サンはいつだって今のまんま ― あんまり若くもなく、全然老けてない ― いつも変わらぬ常緑樹、って感じ。
冗悟:いつも変わらぬ常緑樹か、いいね、肝心の話題にようやく戻って来れてほっとしたよ・・・このまま永遠に雪のスキーリゾートか夏休みの終わりにはまりこんで迷子になっちゃうかと思ってた ― 「秋」 ― いいね、いま俺たちがいるべきシーズンは「秋」だからね?
さやか:了解しました閣下、「秋」に帰還であります!
冗悟:というわけで・・・木の葉の色の変化 ― 「緑」から「黄色」や「赤」へ、その後は落葉して何もなくなる ― その変化に君は寂しさを感じる・・・秋の終わりになると・・・ってことで、いいかな?
さやか:いいであります!
冗悟:よっしゃ・・・だけど、木の葉の色の変化だけが、「秋」が君を寂しくさせる唯一の原因かな?
さやか:わたし、秋に寂しさ感じないから、わからないであります。
冗悟:オッケー、オッケー、君はいつでも俺の前では正直なんだよね・・・俺がどれほど君を悲しく寂しい気持ちにしてやろうと足掻いても、無理ってことだね・・・
さやか:わたし、あなたと一緒の時は悲しみも寂しさもぜんぜん感じないって知ってました、冗悟サン?
冗悟:わかったよ、どうもありがとう。さてと、君は秋に寂しさを感じないってことがわかっちゃった以上、俺としては君に成り代わって ― それと君にまるでわかってもらえないこの可哀想な詩人に成り代わって ― 「寂しさ」を一身に感じて見せてあげる必要がありそうだ・・・そういうことで、いいかな?
さやか:いいです。やっちゃってください。
冗悟:この詩人は秋に「寂しさ」を感じている・・・それとも、彼も君と同じく「寂しさ」とは無縁の者だと思うかな?
さやか:いいえ、わたし、自分が「秋・冬は寂しい季節であるべきだ」という日本の一般原則のヘンテコな例外だってこと、知ってます。
冗悟:自分自身をよくわきまえててくれてよかったよ・・・オッケー、じゃ例の短歌に戻ろう、出だしの第一句「寂しさ」に・・・ズバリこの「寂しさ」って語でこの詩を始めてる以上、この詩人が秋に「寂しさ」を感じてるのは明々白々、だよね?
さやか:です。
冗悟:でも、彼が「寂しさ」を感じているのは、木の葉が「緑」から「黄色」や「赤」へ、最後は落葉して何もない状態へ、移り変わるさまを目撃したからかな?
さやか:いいえ、彼はいま「槇」の木々の前に立ってます。槇は色も変わらず常に緑の常緑樹、なーんにも変わりません、冗悟サンとおんなじ。
冗悟:ありがと・・・冗悟サンはさておき、常に緑の「槇」の木々が秋が来ても変わらぬまんまの姿を見て、さやかさんは何か特に「悲しい」とか「寂しい」とかの気分になるかな?
さやか:いいえ。
冗悟:そうだね・・・ならないね、秋や冬でも変わらぬ常緑樹の「槇」の景色には、取り立てて何も「悲しさ」や「寂しさ」なんてないからね。それなのに、この詩人は「悲しい」・「寂しい」って感じてるんだよ、春や夏と何ら変わらぬ緑の木々を前にして。
さやか:どうしてですか?
冗悟:いい質問だ。どうして彼は「槇」の木々の前で悲しさや寂しさを感じるんだろう、秋になっても常に緑で何も変わらぬ木々なのに・・・それって、「その色」のせいかな?
さやか:いいえ、「その色としもなかりけり」 ― 特にあの色・この色のせい、ってわけじゃありません。
冗悟:そうそう、その調子! もし特に「あの色・この色」のせいじゃないとしたら、秋が「悲しい」とか「寂しい」とか感じる理由は、何なんだろう?
さやか:わかりません・・・何なんですか?
冗悟:俺にもわかりません・・・この詩人にもやっぱりわかりません。
さやか:誰にもわからないんですか?
冗悟:誰にもわからないんだよ・・・それでもなお、誰もが秋には悲しく寂しくなるんだ、一年中色も変わらぬ「槇」の木々の前ですら、ね。我々は突然「悲しみ」や「寂しさ」を催すんだ、理由もわからぬまま ― なんでそう感じるのかは神のみぞ知る、さ ― それが秋の不思議なところ。何で悲しいのかどうして寂しいのか、取り立てて理由もないままに誰もがそう感じてしまう・・・たぶん今の君にはそうでもないんだろうけど、いつかは君にもわかる日が来るさ ― 秋は悲しい・・・なんでかはわからないけど。
さやか:ということは、この「槇立つ山」は、別に他の何でもいいってことですか? 例えば「鳥鳴く丘」とかでも?
冗悟:その通りさ。別に何だっていいんだよ、それがぱっと見「悲しみ」や「寂しさ」を催させない何の変哲もない光景である限りは、ね。
さやか:ふーん・・・不思議な詩・・・わたしには。
冗悟:そうだろうね、まだ秋の寂しさをまるで感じない君にとってはね。でも、心配はいらないよさやかさん、いずれ「時」が教えてくれるさ。
さやか:・・・ところで冗悟サン、「秋」は置いといて、特に「悲しいなぁ」って思うシーンって、何かあります?
冗悟:(…)家族全員の集合写真、みんな微笑んでる、小さな町の写真館の、陳列窓の片隅で・・・
さやか:べつに悲しそうには見えないけど?
冗悟:・・・核戦争で破壊された町の廃墟に、ぽつねんと。
さやか:うゎぁー、シュール(超現実的)だわ!
冗悟:ちっちゃな子供靴の片っぽが、道路の真ん中に落ちている・・・
さやか:うーん、かわいい!
冗悟:・・・交通事故の事故現場。
さやか:いゃぁーーーーっ!
冗悟:子供のおもちゃがあちこちに、おばあさんのお部屋の中に散らばっている・・・
さやか:「死後数週間のおばあさん」とか言わないでくださいよ!
冗悟:おばあさんは生きてるよ、だけど子供達はもういない・・・
さやか:子供たちもまだ生きてますか?
冗悟:子供達は生きてるよ、とりわけ元気で遊び回ってるよ、おばあちゃんのお部屋の中で、おばあちゃんが買ってくれた新しいおもちゃで遊んでる時にはね・・・おばあちゃんも生きている、いつもよりずっと生き生きしてる、孫の子供たちがおばあちゃんの周りで遊んで、走って、叫びまくってるその時にはね・・・でも、その子供たちももういない、だからおばあちゃんもあんまり生きてない、ただぼんやりと眺めてる、子供たちが遊んでたおもちゃが散らかしっぱなしで部屋のあちこちに置いてあるのを・・・もう一週間以上もずっと・・・たぶん次にまた来て子供たちがおばあちゃんを喜ばせてくれるまでずっと・・・それがいつのことかは、神様に聞かないとわからない・・・
さやか:・・・冗悟サンって、悲しいお話がとっても上手。
冗悟:君を「悲しい」・「寂しい」って思わせることができて、嬉しいよ。
さやか:わたしをおいてけぼりにして悲しませたりしないでくださいね。
冗悟:心配いらないよ、まだまだ山ほど詩は残ってるから・・・でも、今日のところはもう「さよなら」言ってもいい時間だね。
さやか:そんなに早く?
冗悟:ずいぶん長くおしゃべりしてたとは思わない? 君のいつになく上機嫌で幸せそうな姿、十分満喫させてもらったしね・・・さやかさん今日、学校で何かいいことあったかな?
さやか:女の子にはときどき、とくべつハイな時があるんです~・・・でも、なんでハイかは教えてあ~げなーい・・・♪o♪
冗悟:「女の子」であることを楽しんでる君を見て、嬉しいよ。十代の初めの君の揺れ動く日々のことを思うと、ね(第十四話参照)・・・オッケー、まだ日は長い、今日はまだ数時間ぶん陽気に遊び回る時間が残っているよ・・・だから、街へ繰り出しなさい、お嬢さん、「花実は摘めるうちに摘め(gather ye rosebuds while ye may)」、「この日をつかめ(carpe diem)」さ!
さやか:なんですかそれ?
冗悟:「今」という瞬間を力一杯楽しみなさい、って言ったのさ。
さやか:それって前回の詩のメッセージじゃありません?(第十四話参照)
冗悟:そうだね。これから先もいろんなことが待ってるよ、俺たちの文芸散歩にも、君の人生にも、ね・・・ということで、次のレッスンまでさようなら。またね。
さやか:オーケー。どうもありがとうございました冗悟サン。じゃぁまた。
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15)(題しらず)
さびしさはそのいろとしもなかりけりまきたつやまのあきのゆふぐれ
「寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ」
『新古今集』秋・三六一・寂蓮法師(じゃくれんほふし)(1139?-1202:男性)
『秋になると寂しい思いが募るのは、緑色だった木の葉の色が、黄色く赤く変わり果て、やがてはみんな散ってしまうその色の移り変わりに、見る者の心が揺れるから、木々の移ろいに我が身の無常を重ね合わせて哀れを催すのが人情だから・・・だとばかり思っていたが、どうもそうではなかったようだ・・・色も変わらぬ常緑樹の檜のすっきりとした木立を前に佇むこの秋の夕暮れにさえも、私の心は、えも言われぬ寂寥感にこうして染まっているのだから。』
Greenery turning yellow, red and bare,
Autumnal sorrow increases with color:
I thought so till today I found
My heart still tinged with sorrow
At the sight of cypress trees
Changeless for ever in green…
What then has made me blue
On this sorrowful autumnal eve?
さびしさ【寂しさ】〔名〕<NOUN:loneliness, solitude, melancholy>
は【は】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(SUBJECT)>
…where does loneliness come from?
そ【其】〔代名〕<PRONOUN:it, that>
の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>
いろ【色】〔名〕<NOUN:the color, tint>
…oozing out from colors [to soak into our heart]?
と【と】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(REASON):due to, on account of, because of>
しも【しも】〔副助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(EMPHATIC):exactly, quite>
なし【なし】〔形ク〕(なかり=連用形)<ADVERB(NEGATIVE):not>
けり【けり】〔助動ラ変型〕過去(けり=終止形)<AUXILIARY(DISCOVERY):I found out>
…not quite, I now realize
まき【槇】〔名〕<NOUN:cypress trees (green all the year around)>
たつ【立つ】〔自タ四〕(たつ=連体形)<VERB:stand upright>
やま【山】〔名〕<NOUN:the mountain>
の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>
あき【秋】〔名〕<NOUN:Autumn>
の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>
ゆふぐれ【夕暮れ】〔名〕<NOUN:the evening, dusk, twilight>
…in front of an autumnal eve falling down on green forests of cypress, changeless all the year round [and yet tinging my heart with seasonal loneliness]
《sabishisa wa sono iro to shimo nakarikeri maki tatsu yama no aki no yuugure》
■「寂しさ」は『新古今集』では大所帯■
この短歌は「三夕の歌」(=秋の夕暮れを詠んだ三大短歌)として日本で有名なもののうちの一つである・・・もっともそれを実際暗唱できる日本人は現代には稀だし、ましてやその詩的な意味や価値を正しく理解している者もほとんどいないが。
この短歌の作者「寂蓮法師(じゃくれんほうし)」の俗名は藤原定長(ふじわらのさだなが:1139-1202年)で、彼は(1150年に)藤原俊成(ふじわらのしゅんぜいorとしなり:1114-1204年)の養子になっている・・・ということは、寂蓮はあの有名な藤原定家(ふじわらのていかorさだいえ:1162-1241)の義兄弟ということになる。定家(ていか/さだいえ)の誕生とともに、定長(さだなが)は俊成(しゅんぜい)の跡取りとしての世俗の身分を捨てて、三十歳の時に仏教僧となり、寂蓮を名乗るようになった。彼は当時最も多芸な歌人の一人として世に知られると共に、その謙虚な人柄で多くの人々の尊敬を集めていた。これとは奇妙な対照を成す形で、義理の弟の定家の短歌はかなりの物議を醸し、定家の喧嘩っ早い性格は朝廷での円滑な栄達の妨げになることも少なくなかった・・・面白い義兄弟である。
興味を持った人のために、『新古今集』中のあと二つの「三夕」の短歌も紹介しておくことにしよう:
《みわたせばはなももみぢもなかりけり うらのとまやのあきのゆふぐれ》『新古今集』秋・三六三 藤原定家 見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ(・・・解釈は、以下の文を参照)
・・・奇妙な詩だとは思わないか? 定家が周りを見渡してみても、「花」もなければ「紅葉」もない。結局、彼は何を見つけたのであろうか?・・・「浦の苫屋」 ― 浜辺の粗末な小屋 ― それが、秋の夕暮れに彼が発見したものの全てである。定家は何を言いたいのだろう?・・・この浜辺には見た目に美しいものなど何一つない、と言いたいのか? もしそうなら、そんなみすぼらしい景色をどうしてわざわざ詩にするのか?
定家が作ったこの奇妙なまでに面白げも何もない海辺の情景の正しい解釈は、定家がこの詩を作る際にどんな物語を思い浮かべていたかを知らないことには不可能である ― これは『源氏物語』の「明石」の巻の次の場面を下敷きにした「本説取り(他の詩や物語や伝説を背景として借りる形の詩歌)」なのだ:
《はるばるともののとどこほりなきうみづらなるに、はる・あきのはな、もみぢのさかりなるよりも、ただそこはかとなうしげれるかげどもなまめかし》
遙々と物の滞りなき海面なるに(=明石の海はさえぎるもの一つなく広々と展開し)、春・秋の花、紅葉の盛りなるよりも(=春・秋に咲く花や秋に色付く紅葉の最盛期のさまよりも)、只そこはかとなう繁れる陰ども艶めかし(=あちらこちらで風景に微妙なアクセントを付けている名も無き ― しかし魅力がないではない ― 木々の陰影のほうが、しっとりと肌身に沁みて良い感じである)
・・・定家(1162-1241年)の短歌は、この『源氏物語(1008年)』への詩的反論なのである。『源氏物語』が世に出たのは平安時代の(文芸的にも政治的にも)最盛期、その当時は、京の都の政争に破れた末の不幸な遠流の身で明石の浜へとやって来た光源氏の目にも、うらぶれた海辺の情景の陰に隠れた美が山ほど見えたのである・・・二世紀後、そんな明石の美はもうどこにもない ― 京の都の平安貴族の栄華ともども、消え去ってしまったのである・・・この定家の短歌は、もはや現実生活の中にはない、昔の文芸世界の中にしか見出し得ない、古き良き時代への象徴的な鎮魂歌(レクイエム)だったのである。おまけにまた、定家がこの詩を作ったのは現実の明石の浜辺ではない ― 彼はこれを自分の頭の中だけで、純然たる空想の産物として作ったのである ― どこまでも徹底的に「新古今」な短歌であるから、現代の読者の耳も心もあっさりすり抜けて、何も残るまい・・・現代の読者は、コンピュータ画面上で左から右へと(ほんの時たま紙の本の上で上から下へと)物理的な視点移動を行なうだけ、それ以上の知的労力の発揮など徹底拒否するから、一見何の魅力もない詩の行間深く秘められた本質的な美へと入れ込むことなどできはしない。それができるのは、一見わけがわからぬ詩が作られた背景事情にまで深く踏み込んで見極めようとするたゆまぬ努力を厭わぬ読者だけ・・・好むと好まざるとにかかわらず、それが新古今調の排他的深遠短歌であり、その最も著名にして最も物議の対象となった代表的歌人が藤原定家だったのだ。
そんな定家と寂蓮の手になる不可解なまでの深みを持った短歌に比べれば、「三夕」の残り一つは、笑えるほどに浅薄である:
《こころなきみにもあはれはしられけり しぎたつさはのあきのゆふぐれ》『新古今集』秋・三六二・西行法師(さいぎょうほうし) 心無き身にも哀れは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ(俗世を捨てた法師という、本来「無心」であるべき立場にある私の心にも、その哀感はおのずと感じられるなあ、鴫がさぁーっと沢から飛び立つこの秋の夕暮れの景色は)
・・・平安時代の最後の頃には、高貴な身分の者達はいともたやすくその世俗の身分を捨てて仏教僧になったものである。西行(さいぎょう)も寂蓮(じゃくれん)も例外ではなかった。日本に於ける「出家(しゅっけ=世俗を捨てて仏教修行者となること)」を、キリスト教世界の神父達の聖職と混同してはならない。日本の「出家」はただ単に「朝廷の役人としての栄達の道を諦めること」を意味するのみで、そこに真の宗教的帰依の態度など(相手が仏陀だろうが神だろうが何だろうが)何もない場合が多かったのだから。
「法(ほう・・・仏教的に読めば’のり’=仏陀の道)」だの「僧(そう)」だの「上人(しょうにん=苦行僧)」だのといった名前が八代集の約9,700人の詠み人リストに占める割合は約1,000名・・・そのうち610名が最後の二つの勅撰集『千載集(1188年)』と『新古今集(1210-1216年)』に集中している・・・これ即ち、平安時代のどん詰まりには、平安貴族たちは「歌僧(かそう=短歌をよくする仏教僧)」として名を上げることを必死に目指し望んでいたということである。朝廷の役人の間には身分階層の厳格な隔てがあって下々の者は上位の者に近付くこともできなかったが、世俗の身分を捨てた仏教僧ともなれば、短歌による社交を口実として有名な権力者との自由な交際の道も開けるだろう、というわけである。平安末期の日本の仏教僧は、世界の宗教史上最も「心無き」とか「無心の」とかの境地からは遠い俗っぽい野心満々の物欲しげな連中だった、と言って間違いないのである。
そんなわけだから、この西行の短歌の冒頭の一句「心無き身にも」は「冗談」なのである ― 西行が俗世を捨てざるを得なくなった不幸な状況(当時の彼と付き合いのあった歌人仲間の間ではよく知られたもの)をネタにして西行がこねくり回した皮肉なブラックジョークでしかないのである。そんな「冗談」の言い回しが「あはれ」の感覚に寄与することなど一切ないのだから、この短歌が「秋の夕暮れ」の偉大な詩として成功するか否かは、ただもうひたすらその下の句「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(=秋の夕方に沼地から一斉に千鳥科の水鳥が飛び立つ情景)の一点にかかっているわけであるが・・・さて、これ、成功しているだろうか? 我々の心に訴えてくるものはあるにせよ、いったいどの程度深く心に沁みるものであろうか?
こんな西行の「ジョーク短歌」を、先の定家や寂蓮の二作品と同じ次元で比較するなんて、たとえジョークにしても自殺行為というものである ― かりにも「詩人」を気取る者としては、やったが最後、命取りの軽挙妄動である。そんなことされたら、西行自身でさえ天国でその顔に皮肉笑い浮かべて(どうせ名を知られるならば短歌世界に残した「ジョーク以外の」幾多の傑作の方でお願いしますよ)と望むことだろう。
参考までに申し添えれば、「秋の夕暮れ」という言い回しの登場総数は、八代集約9,700首中27回。しかしながらその初登場はかなり遅く、いわゆる「三代集」の『古今集(905年)』、『後撰集(953-958年)』、『拾遺集(1006年)』には一つも登場しない。「秋の夕暮れ」で結ぶ短歌が7首も一気に登場するのは『後拾遺集(1086年)』である ― 『金葉集(1126年)』と『詞花集(1151年)』はそれぞれ1首のみ ― 『千載集(1188年)』も2首のみだが、八代集最後の『新古今集(1210-1216年)』に至っては一気に16首もの「秋の夕暮れ」が炸裂することになる・・・平安調詩歌の最後の頃に「秋」がいかに深まっていたことか、よくわかる数字ではある。
実際の会話相手の提供はしませんが、「さやかさん/冗悟サン」との知的にソソられる会話が出来るようにはしてあげますよ(・・・それってかなりの事じゃ、ありません?)
現時点では、合同会社ズバライエのWEB授業は、日本語で行なう日本の学生さん専用です(・・・英語圏の人たちにはゴメンナサイ)