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31短歌21)ある女性の・・・そしてその愛の・・・生涯 ― さやか、冗悟に、その成熟ぶりを示す(・・・詩的に)

21)(千五百番歌合に、冬歌)

よにふるはくるしきものをまきのやにやすくもすぐるはつしぐれかな

「よにふるは苦しきものを槇の屋に安くも過ぐる初時雨かな」

二条院讃岐(にでうゐんのさぬき)

♪(吟)♪

★ある女性の・・・そしてその愛の・・・生涯 ― さやか、冗悟に、その成熟ぶりを示す(・・・詩的に)★

冗悟:今回も女性の手になる短歌、これで三連続、しかもひょっとしたらこれ一番解釈が難しいやつだけど・・・さやかさんの印象は?

さやか:「小町風味・秋味」。

冗悟:うぅーん・・・とっても味わい深いお言葉。「小町風味」って呼び方はこの詩にぴったりだね・・・で、「秋味」ってのはどんな味?

さやか:とっても悲しい味です。

冗悟:とても悲しい秋の味?・・・俺の記憶に間違いなければ、君は「秋」には悲しくないんじゃなかったっけ? 「冬」はすぐそこ、スキーリゾートも君を呼んでるから・・・俺のメモリー・バンク、故障してるかな?(第十五話参照)

さやか:はい。アップデートが必要です ― あれからわたし、大人になりましたから。

冗悟:どれぐらい大人? 18歳とか?

さやか:28短歌ぶん、大人です、冗悟サンのおかげで。

冗悟:あの28の「小町歌」が、君を精神的に大人にしてくれた、ってこと?(第十九話参照)

さやか:わたし今はもうじゅうぶん知りました ― 二十代後半の女性にとって・・・男の目から見て若々しい魅力を失いつつある年代の女性にとって・・・「秋」がどれほど悲しい季節かってこと。

冗悟:ということは、「秋」はもう君にとって来るべき「冬」やスキーリゾートが待ち遠しい希望に満ちたシーズンではなくなった、ってことかな?

さやか:それについては、個人的にどう感じるかはわかりません。十二月の初めにまた聞いてください。とにかく「秋」はとっても悲しい季節なんです、盛りを過ぎつつある女性にとっては・・・男性にとっては違うかもしれないけど。

冗悟:それと、今現在の君にとってもね、さやかさん。

さやか:「秋」がどれほど悲しいか、今のわたしにはまだ実感できないことは認めます・・・けどそれを言うなら冗悟サンだって、個人的に実感することはできないはずですよ、女性でない限りはね。

冗悟:ごもっとも・・・というわけで、俺も君も共にその「女の秋味」を、空想ベースで味わっているわけだ。それでもなおこの短歌は、男の俺や少女の君さえも、空想するだけで悲しい気分にさせる単語や言い回しに満ちている、ってことだね。

さやか:はい。この詩を読むとわたし、夏の終わりのじりじりする感覚を思い出します。外では何か楽しいことやってるのがわかってるのに、自分だけは宿題とかいろんなことに縛られて家の中にいなきゃいけない。楽しいことはみんなわたしの周りを素通りして、自分一人ぽつんと取り残されてる気がする・・・とっても悲しい、すごくイライラがつのる孤独感。

冗悟:うぅーん・・・君は「秋」より「夏休み」が終わりそうな時のほうが孤独感がるんだね。

さやか:子供っぽいこと言ってる、って自分でもわかってます;けど、これが「女の秋味」にわたし個人の想像の中で近づけるギリギリいっぱいのイメージなんです。

冗悟:君のこと「子供っぽい」って言ってるわけじゃないよ。君のその若さが羨ましいだけさ。

さやか:冗悟サン、わたしの若さなんてうらやむ人じゃないでしょ? 年齢も時間も超越しちゃってるんだから。若返ってもう一度17歳になりたい、って思います?

冗悟:いや、今のはほんの言葉のさ。でも、こんな俺にもかつてはちゃんとあったんだよ、八月の終わりや九月の初めに、心の底から寂しくて、耐え難いほど狂おしいほど寂しすぎて、自転車でも電車でもとにかく飛び乗ってどこかへ行きたい、どこでもいい、とにかく飛んで行って、陰り行く夏に向かって「さようなら~」って叫びたい・・・そんな気分になる時が、ね。

さやか:二十代の終わりに、ですか?

冗悟:16から三十代の大部分を通じて、さ。

さやか:そんなに長く!?

冗悟:「子供っぽい」って言いたきゃ言えよ・・・まぁいずれにせよ遠い昔のお話さ ― さらば、我が遠き過去の若き日々、ってね。

さやか:なんか冗悟サンのこと、ちょっぴり身近に感じちゃいました。

冗悟:それはよかった・・・さてと、それじゃぼちぼちその「女の秋味」ってやつ、二人してもっと身近に感じてみることにしようか? とりわけ「悲しい」とか「小町っぽい」とか感じられる単語や言い回し、ぜんぶ拾い出してみようよ。

さやか:わかりました。

冗悟:じゃ、教えてくれる、さやかさん、この短歌の中のどの単語あるいは言い回しが君に「小野小町(おののこまち)」を思い起こさせたのかな?

さやか:まず「よにふる」、それと「はつしぐれ」。

冗悟:ほぉ・・・これは面白いね。君が「よにふる」を例の有名な小野小町の短歌 ― 『古今集』春・一一三《はなのいろはうつりにけりないたづらに わがみよにふるながめせしまに》 花の色は移りにけりな徒らに 我が身世に経る眺めせしまに(美しかった花の色も、もう色褪せてしまったみたい・・・結局、何もないままに・・・春の長雨が降るうちに・・・ぼんやりと物思いに沈んで日々を過ごしている間に・・・いつの間にかをとってしまったこの私みたいに) ― からのわかりやすい「本歌取り」としてげるだろうなってことはわかってたけど、でも「はつしぐれ」まで引っ張り出すとは、意表を突かれた感じ。小町の短歌の中に「はつしぐれ」を含むやつ、あったっけ?

さやか:はい、これ見てください ― 『古今集』恋・七八二《いまはとてわがみしぐれにふりぬれば ことのはさへにうつろひにけり》 今はとて我が身時雨に降/古りぬれば 言の葉さへに移ろひにけり(私の人生の春・夏・そして秋さえもすでにもう過ぎ去ってしまい、今はもう時雨の季節、寂しい秋の終わりを告げ、木々の緑は黄色から赤へ移り変わり、かつては伝説にまでなった私の女性美も、私の若々しい愛を求めて殺到したおびただしい数の恋文も、今はもう過去のもの、その面影もない) ― ・・・わたし、見当違いなことしてます?

冗悟:いや、見事的中だよ。確かに「時雨」降ってるね、「初時雨」じゃないけど。これを指摘するとは、さやかさんはほんと鋭いね。

さやか:だからわたし、この短歌のこと「小町風味・秋味」って呼んだんです。「初時雨」を引き合いに出すことで、この短歌の作者、たぶん二十代半ばから後半の女性だと思うけど、彼女はこう言ってるんです ― 今はもう晩春ではない、桜の花の色が移ろい始める頃合いじゃない;今はもう夏休みが終わりそうな八月末ですらない;今はもう秋の終わり、黄色や赤に色付いた紅葉の葉っぱももう散りかかってる・・・もうじき季節は冬、すっかり枯れ果てた真冬の中で、いったいあなたどうするつもり? ― みたいな感じで。

冗悟:ブラボー! 素晴らしい! 完璧! 君の解説、非の打ち所がないよ、さやかさん。

さやか:あまり完璧でも非の打ちどころがなくもありません。「槇の屋」って何のことか、いまだにわからないんだから・・・何のことですか?

冗悟:「槇」には前に一度会ってるよね、覚えてる?

さやか:「ぜーんぶ緑」 ― 一年中色が変わらぬ常緑樹の「槇」・・・寂蓮法師(じゃくれんほうし)の秋の短歌に出てきました。(第十五話参照)

冗悟:君のメモリー・バンクは常に完璧だね!

さやか:でもわたしの詩的センスは完璧じゃないです・・・どうしてその「屋」(家かそれとも屋根か)は「槇」でできてなきゃいけないんですか? 「朝廷の官位の中でも最下位の緑色一色」って言ってるわけですか?(第十六話参照)

冗悟:もちろん違う。

さやか:「わたしのおうちの色はぜーんぶ緑色、だけど木々の葉っぱは黄色や赤に変わって行く」って言ってるんですか?

冗悟:それも違うね。「槇」の色が「緑」なのは「葉っぱ」に限ってのことで、「木」の本体は緑色してないのは知ってるだろ?

さやか:そうなるともうわたしお手上げです・・・正解の時間です、冗悟サン。

冗悟:オッケー。「浦の苫屋」(=みすぼらしい浜辺の小屋)って言い回し、覚えてるかな?

さやか:はい。藤原定家(ふじわらのていか)の深遠で排他的な短歌の中に出てきました。(第十五話参照)

冗悟:「苫屋」ってのは小屋、その屋根は木製ではない・・・じゃ、何製?

さやか:草ぶきです。

冗悟:そういう「草葺き屋根」に「時雨」が降ると、何が起こる?

さやか:雨がしみ通って小屋の中にポタポタ垂れてきます。

冗悟:それは正しいけど、ここでの正解ではないね。オッケー、それじゃ別の角度から見てみようか・・・というか、別の屋根の上で聞いてみようかな ― 「時雨」が降る時、「草葺き屋根」と「槇」の屋根とでは、どういう違いが起きる? み通ったりポタポタ垂れたりは別にして?

さやか:ぁ、わかった、「音」だわ ― 「草ぶき屋根」は雨音を吸収するけど、「槇の屋」はサウンドボードとして機能します ― ほら、聞いてごらん、雨が屋根を叩いてる ― って感じで。

冗悟:君は耳も頭も鋭いね、さやかさん。さぁ、これでもうこの「小町風味・秋味」短歌の全てを理解する機は熟したね・・・一人でやってみる?

さやか:はい・・・なぁにこの冬の初めの通り雨は! 女にとって人生の秋が過ぎ去るってことがどれほど辛いことか、あなた知ってるの? どうしてそうやすやすとわたしの屋根に舞い降りてはそんな嫌味な宣言するわけ ― 「秋はもう終わり;寂しい冬に備えろ」なんて?・・・どうですか、冗悟サン?

冗悟:うぅーん・・・君は確かに28の小町歌ぶん、大人になったね、さやかさん。これ、17の少女としては完璧な翻訳だよ。

さやか:ありがとうございます。

冗悟:でも、あと二つほど細かい点に注目したなら、さらにもっと高い所まで昇れると思うんだけど・・・一緒に高いとこ、昇ってみたい?

さやか:はい。

冗悟:まず最初に、冒頭の一句「よにふる」の再吟味から始めようか。君はこれを小野小町の《花の色は移りにけりな徒らに 我が身<世に経る>眺めせし間に》からの「本歌取り」と解釈して、「この世の中で、年齢を重ねる」の意味に取ったんだね?

さやか:そう取りました。

冗悟:この「よにふる」はまた「雨が夜に降る」の意味にもなる、とは解釈しなかったの?

さやか:うーん・・・最初はそう解釈したけど、それだと意味なさないから、やめました。

冗悟:オッケー。それじゃ今度は注目の的をもう一つ別の「雨」関係のやつに移そう ― 「安くも過ぐる初時雨」 ― この「初時雨」を、君は、人生の中の「秋」の最終段階から「冬」の初期段階へと移りつつある女性の隠喩(メタファー)と解釈したんだよね?

さやか:そうです。

冗悟:じゃ、もう少し詳しく見てみようか。どうして彼女は「安くも過ぐる」って言ってるのかな?

さやか:この女性は、「時雨」、冬の到来を告げる季節の風物詩が、あまりにも冷たく残酷だと感じたんです。秋の終わりに降る「時雨」は、冬が近いしるしです。それはこの女性にとってはとても、とっても残酷な変化です。だってそれは彼女の「女」としての人生がもう終わったという厳粛な宣言だから。そんな厳粛な宣言をするなら、それなりの厳粛さをもってしてほしいと思うのに、それなのに「時雨」はたださーっと来てはまたすーっと去って行くばかりで、彼女の悲しく寂しい状況なんてちっとも気にかけていないみたい。彼女は「苦しきものを」、時雨のほうでは「安くも過ぐる」んです ― この残酷な対照は、盛りを過ぎつつある女性とそれ以外の世界との間の感情温度の違い、「時雨」とか「男の束の間の愛情」とか、あるいはわたしみたいな「少女」とかと、彼女との気持ちの落差を表わしてるんです・・・それがわたしの解釈です。

冗悟:感動しちゃったよ、さやかさん! 一番最初に紀貫之(きのつらゆき)の短歌を見てストリップショー始めちゃった頃の君を思うと、ずいぶん遠くまで来ちゃったもんだねぇ・・・(第一話参照)

さやか:ご自分の偉業に、鼻が高いですか?

冗悟:俺たちの共同作業の成果に、鼻が高いよ・・・この短歌の世界にもう一つ別のパースペクティブ(視野)を加えたなら、さらにもっと素晴らしい成果が得られるんだけどね。

さやか:何ですか、それ?

冗悟:「愛」さ。

さやか:「愛」?

冗悟:そう、「人生」の上に更に「愛」・・・この短歌を、女盛りの最終段階にある一人の女性の人生のお話と捉えた君の解釈は完璧だった;けど、この短歌の女性が男と「恋愛中」というふうには、君は考えなかった・・・そうだろ?

さやか:考えませんでした・・・彼女、恋愛中だったんですか?

冗悟:あぁ。彼女が「恋愛中」であることを示唆する手がかりが、この短歌の中にはあるんだよ・・・というか「月の明き夜、人を待ちて居り」であることを示す手がかり、と言うべきか・・・ピンと来たかな?(第二十話参照)

さやか:(…)?

冗悟:「身を知る雨」(愛の深さを測る雨)もまた、この歌の中に降ってること、わからないかい?(第二十話参照)

さやか:「初時雨」のこと言ってるんですか?

冗悟:そう。ただし、この短歌の中の「雨」は、例の『伊勢物語』の幸福なお話の中ほどには烈しく降ってはいないけどね。あっちのお話では藤原敏行(ふじわらのとしゆき)が土砂降りの雨の中を傘も差さずに大喜びでやって来たよね、あの幸運な女性のことを彼がどれほど深く愛しているか、その証拠を見せるために。こっちの短歌の不運な女性は、しかし、恋人が来てくれるのを虚しく待ち続けている、たぶん彼は来ないだろうな、と漠然とわかっているくせに・・・それでも彼女は、期待してる・・・何故だか、覚えてるかな?

さやか:お月さまが彼女の上に明るく輝いているから。

冗悟:そうだ。そのお月さまのこと、彼女がどう感じるか、覚えてるかな?

さやか:この意地悪な明るいお月さま! 今夜は真っ暗闇であってほしいのに。

冗悟:実際には、月は明るく照っている ― 恋人が彼女のお部屋を訪ねてくれそうなほど、明るく、ね。でも自然界には、「月」の他にもう一つ、彼女にとって「恵み」の存在がある ― 「雨」だ。「恋人が来るかも」なんて期待は完全に捨てられるんだよ、もしも「雨」が土砂降りに降ってくれたらね。君としてはいっそ「土砂降りに降っちゃって」って期待し始めるんだ、そうすれば「こんなひどい天気じゃ今夜は彼は絶対来ない」って確信できるんだからね。そしてもしそれほどひどい雨降りなら、たとえ彼が来なくても、それは雨のせいであって、彼の愛情の欠如ゆえ、ではない。雨が悪いんであって、彼のせいじゃない。彼が君を愛してないわけじゃなく、雨がひどすぎて彼が君を愛しに来れないだけだ・・・これって、とっても「恵み深い」状況だとは思わない? ― 「雨」さえ土砂降りだったら、ね。

さやか:はい・・・でも実際には「初時雨」はただ「安くも過ぐる」だけ ― この意地悪な雨! 降るなら降るで、出来るだけはげしく降ってよ、どうしてそんなにたやすく来てはすぐ去って行くの?・・・はい、この詩の全体像、わかってきました!

冗悟:「シーンそのII」まで君が辿り着いてくれて、嬉しいよ。これは「ある女性の生涯 ― その秋から冬にかけて」のみならず、「ある恋愛の生涯 ― その秋から冬にかけて」をも表わしている短歌なんだ・・・どちらにせよ、とても悲しいシーンだとは思わないかい、さやかさん?

さやか:(…)これ、おどろくべき短歌ですね! そんなにも多くのこと含んでいて、こんなにもドラマチックで、こんなにも悲しい・・・それでいてこんなにも美しいなんて・・・これ書いたの、誰ですか? 和泉式部?

冗悟:いや、女流歌人で「二条院讃岐(にじょういんのさぬき)」って呼ばれた人だよ。

さやか:有名な人ですか?

冗悟:その当時は、ね・・・平安時代のまさに最後の頃さ。劇的描写の素晴らしさという観点で言えば、これは短歌の歴史の全てを通じて、最も精緻を極めた歌の一つだと俺は思うよ。

さやか:こんな美しいもの紹介してもらって、ありがとうございます、冗悟サン。

冗悟:その美を味わう芸術的喜びを、共有してくれてありがとう、さやかさん。今のこの散文的でつまらん世の中にあって、この喜びを真に共有できる人なんてほとんど存在しないからね。この短歌の精妙なる味わい、今夜また君一人で、お部屋の中で、じっくりみしめてほしいなぁ。

さやか:そうします・・・おやすみなさい、冗悟サン。

冗悟:おやすみ、さやかさん。次はまた「愛の向こう側」で逢おうね・・・

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21)(千五百番歌合に、冬歌)

よにふるはくるしきものをまきのやにやすくもすぐるはつしぐれかな

「よにふるは苦しきものを槇の屋に安くも過ぐる初時雨かな」

『新古今集』冬・五九〇・二条院讃岐(にでうゐんのさぬき)(?-1217?:女性)

(後鳥羽院主催の「建仁二年千五百番歌合」での冬の詠歌)

『何となく煮え切らない思いにいじいじしている間に、私の花の色ももう移ろってしまったのかしら・・・この頃、あの人、私に会いに来てくれない・・・えっ? あら、なに、戸口を叩くこの音は、もしかして彼、来てくれたの?・・・あらやだ、なぁーんだ、時雨が屋根を叩く音か・・・いやだわ、もう、紛らわしいったらありゃしない・・・どうせなら昼間のうちに降って。夜はやめて。あの人の足がますます遠のくじゃないの・・・でも、まぁ、降っても降らなくても同じかな、どのみち今の私はもう「世に経る花の色」、色褪せた昔の恋人なんて、あの人は最初から訪ねて来る気もなさそうだから・・・そうよ、いっそ、盛大に降ってよね、時雨さん、「これだけ降られれば、もう絶対無理、あの人が来てくれるはずがない」と諦めがつくぐらい、土砂降りの雨、降らせて頂戴・・・え、何、もう終わりなの? もう降らないの?・・・そう、それなら、もしかしてあの人、来てくれるかしら? 時雨さんみたいに軽くさーっと来て、さっさとまた去って行くだけでも私としては嬉しいんだけど・・・無理かな、やっぱり・・・はぁ・・・苦しい。来てくれるんだか来ないんだか、愛してくれるんだかくれないんだか、待ってていいんだか諦めて忘れるべきなんだか、何が何だかもう、わかんなくなってきちゃった・・・それもこれもみんな、そもそもあなたが悪いのよ、時雨さん、どうせなら夜通し激しく降り続けてくれれば、こんな宙ぶらりんな気持ち抱えて悶々と過ごす夜もないはずなのに・・・そうよ、あの人だって、そう、激しく愛し続けてくれないなら、いっそきっぱり忘れさせてくれればいいのに・・・あぁ、もう嫌い、あの人も、時雨も・・・はっきりさせて、お願い、この恋に未来はあるの、それともないの? 今はまだ秋なの、それとももう冬なの? これからずっとこんな調子で煮え切らない時雨模様、続いちゃうの?・・・』

(a song on Winter in the 1,500 TANKA competition)

Rainfall at night prevents my love from visiting

This crestfallen flower sadly aware of its wane.

Suddenly I hear it coming, I hear him knock on the door…

Oh no, not on the door… on the roof taps the mischievous rain.

Scatter as much as you may so as to drown my hope

And get me down to sleep this reasonably mateless night…

But alas, it seems it’s gone… you too, this fleeting rain?

Rain gone, will he come, shall I hope once more?

Is it still fall… or lonely winter already?

―掛詞(KAKE-KOTOBA):start―

(A)

よ【夜】〔名〕<NOUN:the night>

に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(TIME):at>

ふる【降る】〔自ラ四〕(ふる=連体形)<VERB:fall down, rain>

…for the rain to fall at night

(B)

よ【世】〔名〕<NOUN:the world>

に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(PLACE):in>

ふ【経】〔自ハ下二〕(ふる=連体形)<VERB:live long, get stale, grow old>

…for a woman to stay single so long as to feel stale [to the eyes of men and to my own consciousness]

―掛詞(KAKE-KOTOBA):end―

は【は】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(SUBJECT)>

くるし【苦し】〔形シク〕(くるしき=連体形)<ADJECTIVE:be painful, ill at ease, pensive>

ものを【ものを】〔接助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(CONCESSION):although>

…it’s hard to bear indeed; and yet

まき【槇】〔名〕<NOUN:a cypress tree/wood>

の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>

や【屋】〔名〕<NOUN:the roof>

に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(PLACE):on, onto>

…on the roof of my house made of solid cypress wood [not of sound-absorbing thatch]

やすし【易し】〔形ク〕(やすく=連用形)<ADVERB:with ease, without any feeling>

も【も】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(EMPHATIC)>

すぐ【過ぐ】〔自ガ上二〕(すぐる=連体形)<VERB:visit in passing, come and go quickly>

…how it comes and goes away with so much ease [without regard to my feelings]

はつしぐれ【初時雨】〔名〕<NOUN:the first scattering shower of late autumn to early winter>

かな【かな】〔終助〕<INTERJECTION>

…this scattering shower at the threshold of long cold lonely winter [I would have to bear alone]

《yo ni furu wa kurushiki mono wo makino ya ni yasuku mo suguru hatsushigure kana》

■「伝統」の肩の上にそびえ立つ巨大なる小物たち■

 短歌もここまで精緻な作品ともなると、何処からともなく単独でぽっと出てくることなどあり得ない(たとえ『古今集(905年)』の主編者である紀貫之(きのつらゆき)の比類なき詩的想像力の中からでも)。上で指摘されていた小野小町からのイメージ拝借以外にも、この『『新古今集(1210-1216年)』に収められた傑作短歌には、その「屋根の部材(自然物/人工物 双方)」に関して以下の短歌からの借り物が含まれている:

《おとにだにたもとをぬらすしぐれかな まきのいたやのよるのねざめに》『金葉集(1126年)』(二度本・・・正式版の第三奏本には含まれず)冬・二七七・源定信(みなもとのさだのぶ) 音にだに袂を濡らす時雨かな 槇の板屋の夜の寝覚に(その音が聞こえただけで、部屋の中にいる私の袖の袂も寂しい涙に濡れることだなぁ、冬の訪れを告げる時雨が槇の屋根を叩く音を、ふと目覚めた夜中の寝床で聞く時には)

・・・この短歌は藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい:1114-1204年)をよほど感動させたらしく、彼はこれを(「音にだに」から「音にさへ」の小さな修正を施した上で)『千載集(1188年)』の中に再録したのみならず、さらにはこれを次のような新たな短歌へと作り替えることまで行なっている・・・「時雨」の性質そのものをいかにも「新古今調」なやり方で別の何かへと変容させながら:

《まばらなるまきのいたやにおとはして もらぬしぐれやこのはなるらむ》『千載集』冬・四〇四 まばらなる真木の板屋に音はして 漏らぬ時雨や木の葉なるらむ(隙間いた槇の木の屋根の上に、時雨の音がする・・・が、その隙間から垂れてくるはずの雨粒はない・・・ということはこれ、時雨ではなくて、秋の木の葉がさらさらと音を立てて屋根の上に舞い落ちているものらしい)

・・・俊成の作り替えだけではまだ足りぬ、とでも言わんばかりに、藤原実房(ふじわらのさねふさ)はさらにまた別の短歌を作っている・・・こちらでは、「本物の時雨(=秋から冬にかけての通り雨)」と「時雨めいたもの(=落ち葉)」とが、同じ「槇の屋」の上でのコラボレーションを繰り広げている:

《まきのやにしぐれのおとのかはるかな もみぢやふかくちりつもるらむ》『新古今集』冬・五八九 真木の屋に時雨の音の変はるかな 紅葉や深く散り積もるらむ(槇の屋根の上に降る時雨の音が変わってきたようだ・・・つまりこれは、屋根の上に積もった紅葉の堆積層が深くなってきた、ということらしい)

・・・文学的堆積層がその厚みを増すにつれて、平安調短歌の音の調子も当然変わって行く。それを「含蓄と連想に富む精緻なる音」と聞く者もいれば、「あまりにも排他的な深遠性だ、博識ぶった連中の間での近親交配の末に濁りまくったドロドロ血液のようだ」と感じる者もいるだろう。平安調短歌の豊かな文学の宝庫には全く無知・無関心の大方の現代日本人にとって、『新古今集』に含まれる「伝統まき散らし短歌」の数々は「とにかくワケわからんし自分には関係ないや」と感じられることだろうが、二条院讃岐(にじょういんのさぬき)の手になるこの精緻なる傑作短歌の「小町風味・秋味」には、老若男女誰もが魅了されることだろう・・・もっとも、この歌に対する彼らの愛の深さは、鑑賞者の内面にある文学的堆積層の厚みに応じて、変わってくるであろうが。

「英語を話せる自分自身」を自らの内に持つということは、「さやかさん/冗悟サン」みたいな会話相手が隣にいるみたいなもの。
実際の会話相手の提供はしませんが、「さやかさん/冗悟サン」との知的にソソられる会話が出来るようにはしてあげますよ(・・・それってかなりの事じゃ、ありません?)
===!御注意!===
現時点では、合同会社ズバライエのWEB授業は、日本語で行なう日本の学生さん専用です(・・・英語圏の人たちにはゴメンナサイ)

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