30)(維摩経十喩に、此の身は夢の如しと言へる心をよめる)
みるほどはゆめもゆめともしられねばうつつもいまはうつつとおもはじ
「見る程は夢も夢とも知られねば現も今は現と思はじ」
藤原資隆(ふぢはらのすけたか)
★物事をとことんその極みまで考え抜いてみる ― さやか、冗悟とはまた逢えると確信する・・・何度も何度もつながり続ける夢みたいな現実の循環の中で★
冗悟:現実としての夢か、夢としての現実か ― 夢もその夢の中に限って言えば確実に現実とみなし得る一方で、我々が現実と呼ぶものもひょっとして夢の中でただ現実だとみなされているだけかもしれない ― いわゆる現実、この世界、この人生、この存在は、実はただの夢だった、という結末もあり得る。夢の中で見る夢は現実以外の何物でもない。この現実は本当に現実なのか、あるいは夢の中で現実とみなされているにすぎないのか?・・・古来、禅問答の御師匠様と弟子の間ではお気に入りの話題、答えなど最初から何もないことを前提として、いかなる結論に到達することをも実は全く目指さずに、ただ深遠ゴッコを楽しんでるだけで、当事者の誰一人として「俺の勝ち!」と言い出さないようにするための堂々巡り会話 ― そのごまかしの責任回避的特性に於いてこの上なく「日本的」と呼べるテーマ ― まぁいささか手垢が付きすぎて気の抜けたテーマではあるけどね、とりわけ俺達の「漠たる馴染みの再放送」のお話の後で語るにしては(第二十七話参照)・・・どう、さやかさん、何か言いたいことある?
さやか:この短歌についてですか? それとも「夢の中の夢の夢の中の夢」についてですか?
冗悟:じゃまず、この短歌について。
さやか:この人「現も今は現と思はじ」って言ってるけど、現実を現実とみなさなくなったその後で、この人、何するつもりなんですか? 「現実」を「夢」とみなすんですか? 自分の「夢」のことを「現実」だと思うことにするんですか? その後でこの人、彼自身の空想の世界の中に埋没しちゃうつもりですか? その、ほら、何とかいう怪奇文学作家みたいに・・・誰でしたっけ? エド・・・ポープ?
冗悟:エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe:1809-1849年)あるいは江戸川乱歩(えどがわらんぽ:1894-1965年)かな?
さやか:そう、そのラム&ポーみたいに・・・自分自身の空想と現実を取っ替えっこしちゃうんですか?
冗悟:ポーや乱歩みたいな怪奇空想小説は、平安時代の人達にはいささか時期尚早だろうね、七~八世紀分早すぎる感じ。
さやか:この人がこの短歌作ったのって、いつですか?
冗悟:正確な日付はわからないけど、彼は1185年には存命してた、ってことはわかってる。
さやか:その当時の「現実」ではどんなことが起こってたんですか?
冗悟:それはいい質問だね ― 治承・寿永の乱(1180-1185年)が、源氏と平家の二つの武家勢力の間で進行中だったんだよ。
さやか:ぅわぁ! それって平安時代の戦乱期じゃないですか!
冗悟:京都の人々みんなにとって最悪の時期だね・・・この戦さの後で、京都の平安貴族達は実に多くのものを失うことになる ― 贅沢な暮らしも、財産も、特権も、将来への希望も、政治の主導権も、みんな失ってしまうんだ ― で、1192年には源頼朝(みなもとのよりとも:1147-1199年)が、侍の支配する初の幕府を開く。京都ではなく日本の東の鎌倉に、ね。京の都の御公家さんにとって「夢は終わった」わけだ。
さやか:なら、この詩人がそんなメチャクチャな現実のことを「夢」あるいは「悪夢」とみなしても、それはそれで当然だったわけですね。
冗悟:そうとも言えるだろうね。
さやか:でも、失くしたものをいつまでもくよくよ言ったって始まらないし、この人生を悪夢とみなしてみてもそれだけじゃ現実に何の問題解決にもならない。わたしが知りたいのは、この詩人がその後で何をするんだろう、ってことです。こういう人は、その当時、どうしたんですか? 自殺しちゃったとか?
冗悟:自殺は平安貴族の選択肢にはないね。もっとも侍の間ではすでにもうかなり人気のオプションだったけど。『平家物語』あたりの軍記物を開けばそういうお話が山ほど出てくるよ、侍が、あるいはその妻や子供達までもが自殺しまくるんだ、一種のデモンストレーションとしてね、勇気や誇りや信念や絶望や怒りやその他諸々を形にして示すために、自ら命を絶つんだよ。でも御公家さんは、決して自分で自分の命を絶ったりしない ― 彼らは「生」に執着するんだ。
さやか:なら、この人は、魂の救済を求めて宗教の世界に行っちゃうんですか?
冗悟:この狂った世界に背を向けるために、行くんだね ― 自らの魂の救済のために宗教界に行くわけじゃない。当時の仏教には人間の魂を救済する力なんてなかったのさ、その頃の仏教僧の世界は、より過酷な現実から逃れて来た人達を受け入れるための避難港に過ぎなかったからね。日本の寺社は「神聖なるもの」というよりは「世俗的なもの」で、言ってみれば「あんまり厳しくない現実の二軍」みたいなものだったのさ。何にせよ、当時の日本の仏教僧の世界は、西欧世界のキリスト教会とは似ても似つかないもので、その現実的目的は、世俗の世界の情け容赦もない生存競争の厳しい現実から弾き飛ばされたり追放されちゃった人々を吸収すること、一種の受け皿・緩衝地帯だったのさ。言葉を換えて言えば、本当の意味での「宗教界」なんてものは日本には存在せず、「仏陀」の名を借りた「第二の俗世」があっただけ、そこでは仏陀の真の教えに対する敬意なんてほとんどあってないようなものだったのさ。
さやか:どうしてそこまで断定的なこと言えるんですか?
冗悟:平安時代の日本人には、「死後の世界」の明確な概念はなかったし、死んだ後どうなるかについて真剣に考えもしなかった。「天罰」の性質やその仕組みについても、「輪廻転生」についても、「因業」についても・・・とにかく何一つ真剣に考えない人達だったんだ! 日本人は昔も今もとにかくその種の抽象概念については真剣に考えたりしないし、その意味で言えば、名の知れた物事や人々についてもまるで深く考えてない、例えば「和泉式部(いずみしきぶ)」とか「六歌仙(ろっかせん)」とか「日本国憲法」とかね。そういう有名なあれこれについては、「なんでも・・・らしい」とか話に聞いて、その「名前」を口に出して言ってみたりはするけれど、その「中身」については何も語らない、それでいて自分じゃ十分それについて知ってるつもりになってるのさ、ただ単にその「名前」を知ってたから、人前でその「名前」を引き合いに出せたから、他人様がその「名前」を引き合いに出した時に「あぁ、アレね!」みたいに相槌打てたから、ただそれだけの理由でね・・・たったそれだけしかできないくせに。連中、物事を最後の最後まで突き詰めて考える、なんてことはしないんだよ。日本人ってやつは、今も昔も、興味の持ち方も掘り下げ方も、とにかくひたすらヌル過ぎるんだよ・・・おっと、ちょっとやり過ぎちゃったかな・・・おいてけぼりにしちゃったらごめんね、さやかさん。
さやか:わたし「やりすぎちゃう人」大好きです、わたし自身もやりすぎ屋さんだから。最後の最後まで突っ走っちゃってください、冗悟サン。
冗悟:「何」の最後の最後まで?
さやか:「輪廻転生」なんてどうですか? わたし好みの話題っぽいし。
冗悟:「鳥」としての前世をいくつか経た後に、この世に「鳥大好き少女」として生まれ落ちる、の図?
さやか:はい、そういうやつ。もっと教えてください。
冗悟:「前の世」でのことなんて俺ほとんどみんな忘れちゃうってこと、覚えてる?(第二十七話参照)
さやか:忘れられっこないです。あの素敵な「漠たる馴染みの」あるいは「大方忘れちゃってる再放送」の考え方、わたしに教えてくれたのは他でもない冗悟サンなんだから。わたしが「教えて」ってお願いしてるのは、そういう考え方について ― 「前世」ではあれこれだったのが「現世」では別の何かとして生まれ変わるとかの概念について ― 平安時代の日本人がどう思っていたのかってことです。
冗悟:彼らは極めて原始的でひたすら下劣な種類の概念を抱いていたよ、「因業」の結果としての「輪廻転生」についてはね・・・下劣すぎて口に乗せるのも吐き気がする代物だけど ― それでも語って聞かせてほしいかい?
さやか:教えてください、さやかも冗悟サンと一緒にそれ、嫌えるように。
冗悟:平安時代の日本人は、そしてその後も長い間ずっと、ひょっとすれば現代でもまだ相変わらずそうかもしれないけど、こう思っていたんだ ― と言ってもかなり漠然とだけどね ― この世の中の全ての物事は、前世での行ないの積み重ねによって、最初から決まっているんだ、ってさ。もし君が前世で良い行ないを沢山積み重ねたなら、君はその積み重ねた「善良ポイント」の分だけ御褒美がもらえる・・・ひょっとして現世のさやかさんがこんなにもかわいくて賢いのは前世の功徳のおかげかも、って彼らは言うだろうね。
さやか:そのおかげで彼女はこんなにも楽しい会話を冗悟サンと楽しんでいられる・・・んですか?
冗悟:俺はそこまでは言わないよ。
さやか:それは冗悟サンがあまりにも内気で謙虚すぎるから?
冗悟:こんな楽しい経験を「御褒美」としてもらえるほど沢山の「善良ポイント」なんて、俺は積み重ねて来た覚えがないからさ ― 俺がこの世でこれまでに手にした「報い」の数々から判断する限りは、ね。君とこうして話していられるのが、天の神様からもらったボーナスであるはずがない・・・もしこの俺の「輪廻転生」が過去の俺の「因業」の結果だとしたら、ね。
さやか:冗悟サンは、「過去の行ないに対するごほうび」って考え方が、嫌いなんですか?
冗悟:その「過去」ってやつが「現世」限定なら、俺に異存はないさ ― 自分がやったことに対しては自分自身で責任を取らねばならない ― それが「正義」ってものだし、俺は「正義」が好きなんだ。でも、自分には何も身に覚えのない「過去の数々」に対する責任を、今生きてるこの「現世」の中で取らされるって考え方には、ただもうひたすら俺は激怒するしかない ― そんな考え方には何の「正義」もありゃしないから。
さやか:冗悟サンは「リボルビング天罰(revolving retribution)」の考え方が嫌いなんですね。
冗悟:うぅーん・・・さやかさんって見事なコピーライターだね ― 「リボルビング天罰」 ― なんか、いい響き・・・ところで「リボルビング」ってどういう意味?
さやか:「一括」じゃない「リボルビング」での過去の罪のお支払い。わたしの罪、忘れた頃にやって来てびっくりするの。
冗悟:君、クレジットカードでどんな罪犯すの、さやかさん?
さやか:お買い物して気分発散・・・
冗悟:・・・どう反応していいかわからない・・・とにかくまぁ・・・ほどほどにしようね。
さやか:そうします。ところで冗悟サン、「因業」の否定的な面はこの際置いといて、「ハッピーな割り戻し」の考え方まで嫌うのは何故? 天の神様からのごほうびとかボーナスとして、現世で何かいいことがあったら、「リボルビング」でも「一括」でもわたし喜んで受け入れちゃうけど。自分が何かいいことをしたら、何かいいごほうびがある ― それって素敵じゃありません? そういう考え方する人は、悪いことよりいいことに走ると思います。同じように、「何か悪いことしたら悪い報いがあるぞ」って子供の頃に教わった人は、何か悪いことする前に「ちょっと待てよ」みたいに考え直すかもしれないし・・・この考え、間違ってます?
冗悟:それはとても原始的な種類の倫理観だね ― 俺はそれ、とにかく嫌いだし、軽蔑するな。
さやか:どうして?
冗悟:何かいいことをする時には、御褒美に何かいいことあるんじゃないかな、なんてこと考えてしちゃダメだよ。何であれ「いいこと」したら、「いいことしてる」って感じるだけで気持ちいい、ただそれだけのこと ― その「いい感じ」以上の何かが返ってきたら、それはもうボーナスなんだ、必ずもらえる給料じゃないんだから、期待しちゃダメさ。何か御褒美をアテにするってことは、その何かを「仕事」としてやるってことで、「いいこと」してるわけじゃない、ただ「働いてる」だけさ。
さやか:でも、何かいいことしたら、もっといいことがいつかわが身に返ってくるような気がしません?
冗悟:いや、しないね。俺自身の体験では、その逆の証拠の方が多いよ。俺はこれまでの人生で数え切れないほどの「いいこと」をしてきた、ひたすら自己満足のために、自分の時間や労力や金やその他たくさんのことを犠牲にしてね・・・でも、見返りに「得るもの」よりも「失うもの」の方がずっと多かったよ。それでも俺は相変わらず、この世の中で「いいこと」するのをやめるつもりはない。理由は単純 ― 「いいこと」できるチャンスがあるのにやらずにいたのでは、自分で自分をとにかく許せないから ― 「いいこと」して、自分自身で「いい気分」になった結果、受ける「ペナルティ」がどれほど大きくても、ね。
さやか:「ペナルティ」? 「ごほうび」じゃなくて?
冗悟:実際、俺が何か「いいこと」した後は、「御褒美」よりも「ペナルティ」受けることのほうがずっと多かったよ。この世界のバランスシートは「倫理」に対して実際何の考慮も払わないからね。「悪いこと」する方がこの世界では断然ずっと儲かるんだ、それが現実だよ。だからこそ俺達は ― 願わくば「君」も含めて、俺達は ― 「いいこと」するには「赤字」覚悟でしなきゃダメ。「いいこと」して「黒字」になろうなんて、白痴の夢さ、この世界のバランスシートの上ではね・・・そろそろ、付いて来れなくなってきたかな、さやかさん?
さやか:いいえ、まだ一緒にいます。知ってるでしょ、わたしどこまでも冗悟サンと一緒なんだから・・・はい、わかりました、わたしも、何かいいことしても、「ごほうび」は考えないことにします。いいことは、ただ「いいことする」ためにします、自分で自分が好きになれるように。
冗悟:よかった。その「いいこと」への御褒美、一つだけあるんだけど ― 「いいことする人達」の間で感じる「いい感じの波長」。
さやか:あ、その感じ、わかります! わたしそれ冗悟サンから感じました・・・冗悟サンもさやかから感じたでしょ、「いい感じの波長」?
冗悟:ああ、感じたよ。それと、覚えておくといい ― 「悪いこと」だけど「儲かること」ばかりしてる連中は、それはもう必死にあざ笑っては軽蔑したがるものなんだよ、心の底から「いいこと」してる人達のことをね・・・前者が後者をコキおろそうとする時に必ず貼るレッテルがこれさ ― 「DO-GOODERS:いい子ブリッ子」・・・その種の下劣なコトバ使う生き物どもには気をつけようね ― そんな下劣で身勝手な生き物ども、関わっても何一つ得るところはないし、失うことばかり多いんだから。
さやか:心に留めておきます ― 「いい子ぶりっこ(do-gooders)」を嫌って笑う人たちは、避けましょう。
冗悟:平安時代の日本人は、とりわけ御公家さん連中は、とにかくひたすら「仏教への帰依」を「御褒美目当ての御仕事」として行なっていた連中なんだよ。連中は心底信じていたのさ、仏教徒的観点から見て「良い事」の全ては、連中の「因業」の「追加点」になって、それは後々の「来世」で必ず報われるんだ、ってね。だから、御公家の連中はみな老齢になると髪の毛切って仏教徒らしい法名付けて自分は「出家」しましたって宣言したんだ、実際には俗世での高い地位を捨てたわけでもないくせに。そして連中はまた、なるべく早く「出家しました宣言」すれば、より多くの「因業ポイント」もらえるはずだ、って何の疑いもなく信じてたんだよ。裕福な御公家さんたちは、その人生の晩年を迎えると、仏教の寺社や僧侶たちになるべく多くの物質的寄進をしたんだ、「来世でのポイント」を増やす算段として、ね ― この世で手にした物質的な富は死後の世界までは持って行けないけど、「因業ポイント」の方は連中の「魂」の続く限り引き続き有効ってことになってたからね・・・全く、なんて穢れた「魂」だろうね、「因業ポイント」一つで、つまりは「金」さえ払えばそれだけでグレードアップできる「魂」だなんて ― 高貴で裕福な連中は、その高い社会的地位を利用してどんどん「因業ポイント」積み重ねる余裕があるから、後々の「来世」でもますます一層高貴さも裕福さもグレードアップして行くけど、その一方で高貴ならざる者や恵まれない人々はますます一層下劣な下層民へと落ちぶれ果てて行くしかない・・・彼らは今のこの「現世」を生きるだけで精一杯で、後々の「来世」のために「因業ポイント」の積み増しする余裕なんてないんだもの・・・全くもって笑うしかない、俺の大っ嫌いな考え方だけど、それが平安貴族どもにとっての「来世」や「因業」や「輪廻転生」の緩ーい真実なのさ。平安の世の御公家どもは、ただひたすらに自分自身の特権の維持だけを望んだのさ、自分以外の社会の全員を全面的に犠牲にした上で、ね ― 単純に言えば、当時の「宗教」は「富める者の手下」であって「貧しき者の救い主」ではなかったってことだよ。真実に直面することを恐れずに突き進むなら、さらにこうも言えるよ ― 「因業ポイント」みたいな「宗教もどき」の考え方は、今も日本に根強く残ってる。神社仏閣の実に多くが、なるだけ多くのお客さんに御賽銭落としに来てもらいたくて、恥知らずにも宣伝してるだろう ― 「かくかくしかじかの日にお参りすれば、十倍の御利益が得られます!」とかね・・・一体どうして日本人はこういうお笑い草でケッタクソ悪い所業を忌み嫌わないんだろう? 理由はこうさ ― 「日本人は宗教も信仰もその他の何についても、全然真剣に気にしないから」 ― 日本人は物事をとことんまで突き詰めて考えるようなマネは決してしないんだ ― さもなけりゃ、もっとマシな概念や行動が見られて当然だものね、「宗教」にせよ「死」にせよ「来世」にせよ「天国」にせよ「地獄」にせよ、そしてこの「人生」についても・・・おっとっと、今度こそ完全にさやかさん置いてけぼりにして一人で暴走しちゃったかな、俺?
さやか:いいえ。わたしを誰だと思ってるんですか? 冗悟サンに常に寄り添う助っ人ですからね! 最後の最後までとことん冗悟サンに付いて行きます。
冗悟:日本の仏教徒が用意した「地獄」の底までも?
さやか:冗悟サンと一緒に行くなら平気です。彼らの「地獄」って、「おそろしい」っていうより「ばからしい」所なんでしょ? どうせ「地獄」のことも真剣に考えてないんでしょ?
冗悟:そうだよ。連中のいう「地獄」なんて、「反逆者」をみんな放り込むためのゴミ箱にすぎないから。日本人の「統一見解」に素直に従わない者はみな「地獄:日本版」に堕ちる、ってことになってたわけだ・・・今でもそうだけどね。連中は考えもしないのさ ― もしそうした「反逆者どもの地獄:日本版」が「素直な者だらけの天国:日本版」を量的にも質的にも圧倒したら、どうなるか?・・・結果はひたすら惨め、笑えちゃうほどみじめなもんさ ― 出口なし・希望なしのどん詰まりだよ、日本の社会、経済、政治、軍事、電気、年金、国の赤字、人口減少、教育の低落、人心の荒廃、その他あれこれ ― どれもこれも出口なし、希望なし、ただもうひたすら悲惨なものさ。日本人って連中は、物事を突き詰めて考えることも徹底してやり抜くことも、できやしないのさ。そんななーんにも考えない日本人どもと一緒に流されて行く我が身を放っておいたら、最後の最後には「本当の地獄」へ一直線だよ・・・どうかな、まだ俺に付いて来てくれてるかな、さやかさん?
さやか:わたし、冗悟サンと一緒に行きます、一直線に「地獄日本版」突き抜けて「本当の天国」に昇り詰めます。
冗悟:強情なお嬢さんだね。いいだろう、では、君の根性と例の大ウケフレーズ「リボルビング天罰」に敬意を表して更に言わせてもらおうか ― 俺が何故平安時代の日本の御公家どもをこんなにも嫌うのか。連中は、この世で惨めな人や物事は、「因業ポイントの低さ」故に、惨めになるべくしてみじめなのだ、と思ってたからさ。「惨めな連中が惨めなのは惨めな連中自身が悪いのだ」って考え方だよ。だから、御公家どもは、そういう惨めな生き物には同情も抱かなかったし、惨めな連中は惨めなまま放っておいて、そういう悲惨な状況から彼らをどうやったら救済できるかなんてことは考えもしなかった。惨めで恵まれない人々の救済を通して社会をより良いものにして行こうなんて考え方は、平安時代の御公家どもの頭の中には全く存在しないんだ。それどころか、平安時代の高貴なる日本人どもは、卑しく惨めな生き物たちには触れることすらも嫌がった。もしそんな穢れた生き物に触れたなら、その惨めさと不運とが自分達にも「感染る」と感じていたのさ。だからこそ、平安時代の高貴なる日本人どもは、「穢らわしい」と感じるものからは頑固に目をそらし続けた。惨めな人達は惨めなまま放っておいて、豊かで幸せな連中はせっせ・せっせと「因業ポイント」の積み増しに忙しい ― それは自分自身の「来世」のためであって、世の中全体の改善のためではない・・・こんなひどい世の中、しまいにゃ一体どうなると思う?
さやか:誰もがみんな不幸になります。
冗悟:そうさ。平安時代の御公家どもは卑しく惨めな者達の「穢れ」を嫌った・・・なればこそ御公家どもは、血塗られた、身分卑しき、惨めで忌まわしい宮廷内の用心棒たち ― 侍と呼ばれるゴリラ連中 ― のことを一顧だにしなかった。サムライなんて「二足歩行の番犬ども」と見ていたし、実際の扱いも犬畜生並みだった・・・遂にはそうした侍たちの力と怒りがどんどん募ってまるでビッグバンのように源平合戦(源氏と平家の武力衝突)の形で炸裂した挙げ句、貴族階層は没落し、政治の主導権は武家階層へと移って行ったのさ。日本人という連中は、自分達の破滅の根本原因からただひたすらに目をそらすばかり。日本の社会の「身分卑しく惨めな存在」は、最後の最後まで惨めな状態に耐え続けるか、さもなくばカビの生えた古い状態をぶち壊して全く新たに何かを作り直すしかないのさ・・・その再構築作業には「日本の主流派」からの支援は一切ないけど、抵抗の方も比較的少ないものさ。「日本の改革」ってやつは決して「民主的」には行なわれず、常に「独断専行」で行なわれるもの、それでいて信じ難いほどすんなりと行なわれるものなんだ・・・それもこれも全て、日本人って連中は自分の周りで何が起ころうがとにかくまるで気にしないからだよ。連中はただじーっと座って成り行きを見てるだけ、「最後に勝つのは誰なのか」を傍観してるだけなのさ ― そして連中は「勝ち馬に乗る」、ただそれだけ。日本人どもが加わるのはただ「結果」のみ、「過程」への積極参加なんて演じない・・・さぁてと、どうかなさやかさん、これで俺、君のこと完全に失っちゃったかな?
さやか:いいえ。それと、冗悟サンわざとさやかのこと置き去りにしようとしてるような気がするのは何故? 何をどうしたってもうわたしは冗悟サンの後ずっと付いて行くって知ってるはずなのに。
冗悟:君のこと失いたくはないんだけどね、さやかさん、でも、日本の短歌を巡るこの一連の会話は、もうじき終わっちゃうんだ・・・これがラス前のエピソードなんだよ。
さやか:(…)
冗悟:ショックだった?
さやか:いつかは来るって、わかってました・・・どんないいことにも、終わりは来るから。
冗悟:俺達も、ずいぶん遠くまで来たもんだよねぇ・・・
さやか:ちょっと待ってください、このエピソードの「締め」に入ってません、冗悟サン?
冗悟:まだフィニッシュしちゃダメ?
さやか:まだやること残ってるの、忘れてません?
冗悟:それって何?
さやか:夢の中の夢 ― の中のそのまた夢・・・そのお話、一緒にしたいです。
冗悟:あぁ、そうだった、忘れてたよ・・・君は「夢見る少女」だもんね、さやかさん。
さやか:わたし、ゆうべ冗悟サンの夢見ました。
冗悟:うぅーん・・・光栄だね、君の夢の一部になれて。
さやか:ゆうべだけじゃありません。冗悟サンの夢、何度も見てます。「漠たる馴染みの再放送」の世界に連れてってもらってからは、以前にも増して。(第二十七話参照)
冗悟:君の夢の中の俺は、いい子にしてる?
さやか:「彼」、いつも「あなた」みたいに振る舞ってます、冗悟サン、わたしのお話聞いてくれたり、わたしの知りたいこと教えてくれたり。もしかしたら「彼」はただ「あなた」が現実の中で言ったことの「再放送」してるだけかもしれないけど。でも時々、現実の中の冗悟サンが言ってもいないことを「彼」が口にするのを聞いたような気もするんです。というか、「彼」が夢の中で言ったことを「あなた」が言うのを聞いてるような気もするの。こう言うのもヘンなんだけど、わたしあなたが何考えてるのか何言おうとしてるのか、わかるような気がするんです、冗悟サン・・・夢の中では。あるいはそれってちっともヘンじゃないのかも、だってそれはわたしの夢なんだから。でもわたし、あなたのお口の中にわたしのせりふ突っ込んでるわけじゃないのよ、あなたはあなたの言葉をしゃべってるの、わたしのじゃなくて、ちょうどこっちの現実の中であなたがしゃべるのと同じように自然な感じで。この「現実」もまるでそういう「夢」の一つみたいな気がする。もしかしたらわたし、夢の中で、あなたと実際おしゃべりしている夢を見ているのかも。このおしゃべりも、この人生も、このわたしの存在も、そしてあなたも、みんなわたしの夢の一部なのかも、そしてそれもまた別の夢の一部なのかも、それがまた別の夢の一部なのかも・・・
冗悟:永遠に「夢」を見続けてるのかもね、長~い、ワクワクするような眠りの連鎖の中で。
さやか:もしかしたらわたし、あなたのお部屋の鳥かごの中で暮らす「小さな青い鳥」なのかも。あなたと一緒に・・・「恋人どうし」か何かになって暮らす夢を見てるだけなのかも。
冗悟:あるいは俺の膝の上で眠るかわいい子猫ちゃんとか?
さやか:あるいはわたし、もうすぐ死んじゃうおばあさんなのかも・・・自分の人生の物語を、(こうだったらよかったのに)って思うがままにちょっぴりドラマチックに書き換えながら思い出してるだけなのかも。
冗悟:あるいは俺達両方ともすでにもう死んでるのかも。肉体はすでにもうなく、俺達の「意識」あるいは「魂」あるいは「精神」あるいは「精神的中心核」とにかくそういう何かだけが相変わらず宇宙の暗闇の虚空に居残って、「この人生」や「あの人生」を生きてる夢を見てるのかも・・・それもこれもただ「それ」 ― それが何だか知らないけどとにかくその「それ」 ― が、「耐えられる永遠」の中で眠り続けるのに、飽きちゃったから、ってだけの理由で、ね。
さやか:もしかしたらこの人生って、ただの夢の連続なのかも、それが終わるのはわたしたちが「死ぬ時」じゃなくて、わたしたちの「意識」や「魂」や「精神」や「精神的中心核」が、夢見続けるのに飽きちゃって、「永遠の眠りに戻りたい」って思った時なのかも。
冗悟:そしてその「永遠の眠り」もまた、ちっとも「永遠」じゃないのかも ― 「眠り」に飽きちゃった時にはいつでも、再び目覚めて一連の夢にうつつを抜かすことになるのかも・・・つなぎ目のない「存在」の連続の、あるいは「無存在」の連続の、その中で見る一連の夢・夢・夢・・・何物でもないけど、何物にでもなれる・・・眠っているけど、生きている・・・現実じゃないけど、すごく現実っぽい・・・明らかに現実としか思えない夢・・・「それってわたしの眠りの中の夢だったのよ」って君が言っても、俺、別に驚かないよ。
さやか:いま冗悟サンが言ったこと、わたし、夢の中でもあなたから聞いたような気がします・・・今もわたし、夢見てるのかしら、冗悟サン?
冗悟:ひょっとしたら俺達二人とも、夢見てるのかもね、あるいはずっと夢見てたのかもね、一緒に詩的冒険に繰り出せる最高のパートナーを見つけた夢を。
さやか:じゃ、これまでずっと一緒にお話してきたことも、ぜんぶ夢だったのかも?
冗悟:素晴らしい夢、だったのかもね・・・だとしても、さほど悲しい響きはないと思わない、さやかさん?
さやか:そうですね。もし明日終わっちゃうなら、これって夢であってほしい。もしこれが夢なら、わたしまたあなたに逢えるから、逢いたいと思った時にはいつでも・・・その時には、また来て私と逢ってくれますか、冗悟サン?
冗悟:いつでも君が会いたい時に。
さやか:現実の中で、夢の中みたいに?
冗悟:どっちでも。でもまぁ、忘れてるかもしれないけど、俺達にはあともう一つ、語り合うべき短歌が残ってるんだよ。そのエピソードの最後まで、「さようなら」の言葉は、とっておこうね。
さやか:いいえ、わたし「さようなら」なんて言いません、だってあなたにはきっとまた逢えるんだもの・・・現実、あるいは夢、何でもとにかく・・・いつでも。だから・・・またお逢いしましょう、冗悟サン。
冗悟:お次が来るまで、いい夢を、さやかさん。
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30)(維摩経十喩に、此の身は夢の如しと言へる心をよめる)
みるほどはゆめもゆめともしられねばうつつもいまはうつつとおもはじ
「見る程は夢も夢とも知られねば現も今は現と思はじ」
『千載集』釈教・一二三四・藤原資隆(ふぢはらのすけたか)(?-1185以降:男性)
(「維摩経」の十の例え話にある「現世に於ける人間存在は夢のようなもの」という考え方について)
『夢の中にいる時は、それが夢であるとは知らずに過ごしているもの・・・であれば、現実の中に身を置いてはいても、それを現実だとは思わずに過ごしていれば、それは「夢」も同じこと・・・だから、これから先はもう、こんな儚い世の出来事は「現実」とは思わず、所詮は「夢」だと思うことにしよう。』
(on the heart of ten examples in the sutra of Yuima telling us that our existence in this world is just like a dream)
A dream is never a dream while I’m in it it’s nothing but real.
What’s real would never be real so long as I believe it unreal.
This world I’ll deem as unreal… for it’s already too much to be real.
みる【見る】〔他マ上一〕(みる=連体形)<VERB:see, watch>
ほど【ほど】〔副助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(TIME):the duration, occasion>
は【は】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(TIME):while, for>
ゆめ【夢】〔名〕<NOUN:a dream>
も【も】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(EMPHATIC):even>
ゆめ【夢】〔名〕<NOUN:a dream>
と【と】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(COMPLEMENT)>
も【も】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(INTONATION)>
しる【知る】〔他ラ四〕(しら=未然形)<VERB:know, recognize>
る【る】〔助動ラ下二型〕受身(れ=未然形)<AUXILIARY VERB(PASSIVE VOICE)>
ず【ず】〔助動特殊型〕打消(ね=已然形)<AUXILIARY VERB(NEGATIVE):not>
ば【ば】〔接助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(REASON):because, and so>
…when I’m in the middle of it, a dream is never to be known as a dream; likewise
うつつ【現】〔名〕<NOUN:the reality>
も【も】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(ADDITION):also, too, as well>
いま【今】〔名〕<NOUN(ADVERB):now, from now on>
は【は】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(TIME)>
うつつ【現】〔名〕<NOUN:the reality>
と【と】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(COMPLEMENT)>
おもふ【思ふ】〔他ハ四〕(おもは=未然形)<VERB:think, regard, consider>
じ【じ】〔助動特殊型〕打消推量(じ=終止形)<AUXILIARY VERB(NEGATIVE VOLITION):would not, intend not to>
…now I’m determined I would never consider this reality to be the reality [I would instead regard my life as a series of dreams]
《miru hodo wa yume mo yume to mo shirare ne ba utsutsu mo ima wa utsutsu to omowa ji》
■平安調世紀末■
上の会話の中で指摘した通り、1100年代の最後の二十年は、京の都の平安貴族にとっては悪夢の連続そのものであった。そういう絶望的な時代には当然、なりふり構わぬ対抗手段が、世俗的にも宗教的にも、求められることになる。世俗的次元では、源氏と平家の乱暴な衝突が、京都周辺の政治的・経済的・文化的停滞状況に終止符を打つ上でこの上ない効果を上げたが、宗教的次元に於いては、当時の仏教はまるで非力であった・・・京の都の周りの大方の人々は、経済的にも精神的にも、この世に何の拠り所も持たなかったのである・・・「この世」がダメなら「来世」はどうだったか? 残念ながら、当時の人々の曖昧模糊とした「来世」の概念が「今生きている俗世のやり直し」の域を出なかった以上、キリスト教世界のような厳格なる「天国」や「地獄」の概念も確立されていない中にあって、そうした絶望的時代の日本人にとっては、実質的に何の希望も残されてはいなかったのである。
以下に示す短歌は、人生を(生物学的に)投げ出したいほど絶望的に切羽詰まった人々に対するめめしい警告の一首として、天台宗の仏教界の座主を務めた慈円(じえん:1155-1225年)が作ったものである:
《おもふべきわがのちのよはあるかなきか なければこそはこのよにはすめ》『新古今集』雑・一八二七 思ふべき我が後の世は有るか無きか 無ければこそは此の世には住め(私が理想として振り仰ぐ「来世」は、実はあるのかないのか、わからない・・・万一それがなかった場合に困るから、今の現世を諦めずに精一杯生きるのだ)
・・・慈円としてはこれが個人的に正直な声明だったのかもしれないが、宗教界のトップの口から出た説教としては、まるで力無きものである。
日本の「権威」は、今も昔も、平時に於いてのみ力を持ち、大変な時代には惨めなまでに無力である ― 日本人全般の徹底を欠く生ぬるい態度は、逆境への積極的対応にはまるで不向きなのである。「いい時代」に生まれたなら、その幸運を「神に感謝」せよ;「悪い時代」に生まれてしまったなら、「神の不在」に慨嘆せよ ― それがこの日本の地に根を張る生きとし生ける者全ての定めの道・・・
しかしながら、今、そうした「悪い時代」にたまたま生まれ落ちてしまったならば、君の取るべき道は二つある ― 1)自らの不運にひたすら慨嘆する・・・君の「因業ポイント」はあまりにも低すぎたのだ、気の毒に! 2)君の力の及ぶ限り何でもやって、この世界をより住みよい場所へと改善する・・・日本の社会の「神聖不可侵な枠組み」(と、されているもの)をぶち壊そうとすれば、君の「因業ポイント」の積み増しは望めないかもしれない(むしろ「罪増し」で目減りすることだろう!)が、クソ溜めの汚水の中で何もせずにいる「腐れ死に」の状態から、不断の行動とささやかな自己満足を通して、君のその「腐れ人生」を救済することぐらいはできる。平清盛(たいらのきよもり:1118-1181年)はそれをやって、平安時代のどん詰まりをぶち破って見せた;織田信長(おだのぶなが:1534-1582年)もそれをやって、戦国の無法状態を力ずくで終わらせた ― 見るがよい、腐れニッポンの既存の枠組みからは何の支援もないままに、同時代人の嘲笑の中でひたすら「悪名」のみを募らせながら、彼らがいかに偉大な所業を成し遂げたかを・・・現状打破の野心に燃える少年・少女諸君、大衆からの支援などアテにするな、嘲笑を恐れるな、物事をとことん究極まで突き詰めて考え抜いて、絶対確信できる結論まで到達したなら、そこを足場に、誰も助けてくれない泥沼の中の苦闘を、一歩一歩じっくりと続けるがよい。世の流れは常に君に逆らうだろうが、そんなものただひたすらに無視して進め。時流も空気もほんの一時、その場限りで消え去るもの、永遠に居座るものではない。「時」は君の味方であると、最後には君こそが勝利するのだと、信じ続けて歩むがよい。実際君が勝利した暁には、君にしつこく逆らった時流やその場限りの空気感のことなど、誰も覚えていないし気にしない。
「因業ポイント」の有効期限は、その有効性を保証する「権威」の続く間だけ。逆に言えば、その種の「永久に有効な因業ポイント」の信奉者どもは、既に確立された権威の頑迷な奴隷であり、良かれ悪しかれ全ての変化に逆らう仇敵なのだ。そういう連中の抵抗が「悪しきもの」であるとわかったならば、何のためらいもなく、連中が信じ込んでいる「永久不滅の因業ポイント」なんざ跡形もなく粉々にぶち壊してしまえ!・・・さぁ、我が親愛なる日本の読者の君(たち)、これで少しばかりはっきり見えて来たのではないかな、平清盛が高貴なる古都の京都から国際港湾都市の可能性を秘めた福原(現在の神戸)へと都を移そうとした理由、織田信長が、完全に腐りきった比叡山に群がる「第二俗世の門外漢ども」を敢えて皆殺しにしようと図る一方で、キリスト教宣教師達を、腐敗した既存の仏教界に対する中和剤として使えないかどうか試そうとしていたことの理由が。「悪魔!」と呼ばれることを恐れてはならない ― 悪魔をも恐れぬ大胆不敵なやつ(daredevil)以外の一体誰が、真の改革・革新・創造を行ない得ると言うのか? 「友」を求めるなら、時のまにまに浮かんで消えるその場限りの水の泡の中にではなく、永遠の時の流れの中にこそ求めることである。
実際の会話相手の提供はしませんが、「さやかさん/冗悟サン」との知的にソソられる会話が出来るようにはしてあげますよ(・・・それってかなりの事じゃ、ありません?)
現時点では、合同会社ズバライエのWEB授業は、日本語で行なう日本の学生さん専用です(・・・英語圏の人たちにはゴメンナサイ)