31短歌12)「一対一」対「大勢の中の一人」 ― さやか、冗悟の前での「自分らしさ」と群衆の中での疎外感の違いを理解する

12)(題しらず)

なくむしのひとつこゑにもきこえぬはこころごころにものやかなしき

「鳴く虫の一つ声にも聞こえぬは心々に物や悲しき」

和泉式部(いづみしきぶ)

♪(吟)♪

★「一対一」対「大勢の中の一人」 ― さやか、冗悟の前での「自分らしさ」と群衆の中での疎外感の違いを理解する★

冗悟:この短歌、さやかさんがどう感じるか、けっこう興味あるんだけど。

さやか:正直、特に何も感じません。

冗悟:ふーむ・・・君からその種の反応が聞けるのもけっこう珍しいね。この詩、退屈だったかな?

さやか:いぇ、そういう意味じゃなくて、あまりに当たり前すぎて取り立てて言うほどのこともないように聞こえたってことです。

冗悟:あまりに当たり前すぎて言うべきにもあらず、ってかい? それってつまり、秋の虫の声はどれもこれもみな一匹一匹ぜんぶ違うように君の耳にも聞こえる、ってこと?

さやか:正確には、違って聞こえるのは「虫」じゃなくて「鳥」の声なんですけど。

冗悟:あー、はぃはぃ・・・なんかわかってきたよ、君は強烈鳥好き少女だから、鳥たちの微妙な声の違いも識別できちゃう、ってことだね?

さやか:まだそんなに上手に聞き分けられないんですけど、いつの日か一羽一羽ぜんぶ聞き分けられるようになりたいです。

冗悟:思い出したよ、「鳥をこよなく愛し、格闘技をもまたこよなく愛すさやかさん」だったね。

さやか:覚えててくれてうれしいです。今度は冗悟サンの番 ― この短歌をあえてここに紹介してるってことは、何か特別な理由があるわけでしょ?・・・どういうことか、教えてくれません?

冗悟:いいよ、それならまず質問から入ろうか ― 君、鳥好きの友達、たくさんいる?

さやか:実は一人もいません。わたしはただ鳥が好きなだけで、鳥好きな人たちとの交流が好きなわけじゃないから。「鳥類愛好家協会」みたいな組織はそこらじゅうにあるみたいだけど、わたしはべつに加わりたいとは思いません・・・少なくとも今は。わたしは鳥を見たり鳥の鳴き声を聞いたりするのが好きなんです ― 人間相手に鳥のお話がしたいわけじゃありません。鳥とコミュニケーション楽しんでる時には、人間の声も、人間の存在そのものさえも、わたしには邪魔なんです・・・わたし、ヘンなこと言ってますか、冗悟サン?

冗悟:いや、俺にはちっともヘンじゃないよ。もっとも他のたいていの連中には確実にヘンに聞こえるだろうけどね・・・うん、だんだん飲み込めてきたよ ― 君はあんまり社交的な女性じゃないみたいだね、さやかさん。

さやか:わたしもそう思います・・・それってわたしの欠点だとは思うけど、何かをほんとうに愛してる時には、ただひたすらそれを愛していたい、自分がどれほど強くそれを愛してるかなんていちいち人に伝える必要ないでしょ・・・って感じ、わかります?

冗悟:よくわかるよ、俺も君によく似た人間だからね。

さやか:わたしもそれ感じてました! ― 冗悟サンってわたしとそっくりなんです;いえ、わたし以上にずっとそうなんです ― 冗悟サンって、完璧な一匹狼でしょ?

冗悟:「完璧な」ってのは言い過ぎじゃないかな、俺には君という友達が一人いるわけだから。

さやか:ぁ、たしかに。

冗悟:とにもかくにも、君はまたもやズバリと標的を射抜いたね ― 「社交的な男」なんてまるで俺のじゃないし、「社交的な女性」なんてのも君にはあんまり似合わない。

さやか:一匹狼と一匹狼 ― よくよく考えてみれば、わたしたちってすごい取り合わせですね。

冗悟:「一対一」じゃないとダメ、「大勢の中の一人」ではダメ ― 君や俺みたいに本質的に非社交的な人間が本当に生きるためには、それが唯一の道なんだ・・・真正面から受け止めて認めるにはキツい真実だけど、受け入れないことには充実した人生なんて送れない。この真実から逃げてる限り、俺たちは半分ほども生きてない・・・何分の一かしか生きてない、時にはまるっきり生きてない。

さやか:わたしもそのことずーっと考えてました ― 大勢の人達の中にいると「自分らしく」なれないのはなんでだろう、って・・・そんな中、冗悟サンに出逢ったんです。最初はとっても不思議でした(この人とお話してる時はどうして「自分らしく」なれるんだろう?)って。でも今、はっきりわかりました ― わたしが「自分らしく」なれるのは、冗悟サンがわたしと同じタイプの人間だからなんですよ・・・わたし間違ってます? 間違ってたら訂正してください。

冗悟:うーん・・・モノによりけりかな。

さやか:よりけり・・・? 具体的に、何によりけりなんですか?

冗悟:君が言ったことが正しいかどうかは、君の言う「同じタイプ」って何のことかによりけり、ってこと。もしそれが「好き嫌いがまったく一緒の人間たち」って意味なら、君の言ったことは大間違いだね。君も俺もブルース・リーのことを愛してる ― それも強烈に熱愛してる、それは確かだけど、俺はたぶん君ほど鳥さんのこと熱愛してないと思うよ、違うかな?

さやか:たぶん、そうだと思います。

冗悟:それと、まだ知らないかもしれないけど、俺って猫大好きだから。

さやか:そうだと思ってました。

冗悟:俺の見たところ、君はあんまり猫好きじゃないね、だろ?

さやか:ぁー・・・どうかしら、特に猫嫌い、ってわけじゃないですけど。

冗悟:やっぱそう言うと思った。自分自身が猫っぽい女の子は ― 顔つきも猫、行動も猫、の女の子はみんな、ほぼ決まって「猫ぎらい」なんだよ。

さやか:そぅ なんですか?

冗悟:そう。なんでか知りたい?

さやか:はい。なんでですか?

冗悟:オッケー、それならひとつ質問 ― ここに二人のチビっ子がいます、年齢はほぼ一緒、一つの家族に暮らしてます、彼らはお互い、あまり好きではありません、もっとも特にお互いを嫌ってるわけでもありません・・・さぁ、なんでそうなのか、理由がわかりますか?

さやか:わかりません。わたし、兄弟も姉妹もいないから。

冗悟:その場合、君の家族には君以外に両親から君に注がれる貴重な愛情と注目を横取りしちゃう敵が一人もいなかった、ってことになるね。

さやか:それってつまり、兄弟・姉妹の対抗意識や嫉妬心が原因、ってことですか?

冗悟:その通り。どことなく猫っぽい君みたいな女の子の場合、猫は嫉妬の対象たり得る潜在的ライバルなのさ。

さやか:冗談でしょ。わたし、猫に嫉妬したことなんてありません!

冗悟:もちろんないだろうね。君は猫と一緒にいるのも嫌なはずだから。男どもからいとも自然に易々と愛情がれちゃう猫どもに嫉妬心燃やさなくてすむように、猫のこと避けてるはずだから。

さやか:ありえない! それって、これまで冗悟サンから聞いた中で一番馬鹿げた話ですよ。わたし、ぜんぜん賛成できません。

冗悟:そう言ってもらえてとても嬉しいよ。同じこと、今から・・・そうだな・・・五年後にもなお言えるかどうか、見てみたいもんだね。女の子も十分大人になって、男あしらいが上手になってくると、猫に対する嫉妬心も自然と消えてなくなるものだから。たぶん、人間の女性相手の対抗心や嫉妬心の方が、猫なんかよりずっと烈しいってことに気付くからじゃないかな・・・いずれにせよ、何が正解だったか知るには君も俺もまだあと数年は待たされるわけだ。未来への投資としては、なかなか面白いとは思わない?

さやか:時間が経ったからって何も変わらないと思います ― おバカな理論はいつまでたってもおバカなままですよ。私がどれほど年取っても同じです。

冗悟:オッケー、それなら君はその少女っぽい信念にずっとしがみついてるといいさ、しがみつけなくなる時が来るまでね・・・さぁてと、どうだったかな、この会話、退屈だったかな?

さやか:いいえ。この会話は楽しかったです;けど、会話の内容はただもうおバカでした。

冗悟:そぃつはいい・・・さぁ、これでわかったろう ― 君と俺とでは意見はまるで違ってたけど、このおバカ会話を楽しんでた点はおんなじ。愉快なコミュニケーションには、意見の違いなんて何の障害にもならないのさ。違ってたって構わない、べつに「同じタイプ」でない限り一緒にいて楽しくないとかお互いの前で「自分らしく」なれないとか、そういうことはないんだ。

さやか:冗悟サンのメッセージ、よくわかりました・・・ってことは冗悟サン、わたしがわざと反対するように、わざわざあんなおバカ理論持ち出してピエロ演じてたんですか?

冗悟:違うよ。俺は真剣に信じてる ― 猫みたいにかわいい女の子はごくごく自然に猫ぎらいになる ― 後々成長して猫とは違うやり方で男あしらいができる魅力的な女性になるまでの間は、ね・・・どう、真剣に信じてたほうが、この会話、もっと楽しくなるだろ?

さやか:(…)「今から五年後」って、言いましたよね?

冗悟:言ったけど、何か?

さやか:ということは、「猫とは違うやり方で男あしらいができる魅力的な女」に、わたしも成長するだろう、って冗悟サン確信してるってことですよね・・・今から五年後、わたしが22歳の時。

冗悟:うーん・・・どうかな。二十歳でそうなるかもしれないし、永久にそうはならないかもしれない。

さやか:冗悟サンっ!

冗悟:君の怒った顔、ほんと、猫そっくりだね!

さやか:冗談はやめてください(Stop kidding me)・・・

冗悟:冗談はやめてねコ?(Stop “kittying” you?)

さやか:あ、それおもしろい ― please stop “KITTYING ME”(わたしをネコあつかいしないでね);わたし、ねこじゃありませんから。鳥を愛する人間の女の子ですから。ネコにべつだん何の嫉妬心も持ってませんから、どうぞおかまいなく。

冗悟:これはこれはどうも失礼いたしました、さやかさん。君と意見が違って、とってもよかったよ・・・さてと、ぼちぼち本来の質問に戻ろうか ― 君が俺とのこの会話を楽しく感じるのは、君が俺の前で「自分らしく」なれるのは、みなこれすべて俺たちが「同じタイプ」の人物どうしだから・・・これって、正しいかな?

さやか:正しくありません。わたしたち、違っててもいいんです。

冗悟:意見の上では、そうだね、違っていてもいい。だけど、別の面では決して違っていてはならないんだ ― 同じ方向性を共有していないと、注目のベクトルが相手と一緒でないと、お互いとのやりとりの中で「自分らしく」なれないんだよ。

さやか:注目のベクトル?

冗悟:ピンときたかな? 前にも話したことあるんだけど。

さやか:ほんとですか? うーん・・・何かヒントください。

冗悟:今回の詩は君には当たり前すぎて今更言うまでもない感じ、って言ったね。鳥へと歩み寄って ― その点では「虫」への歩み寄りでも同じだけど ― そうしてその声に聞き入って、誰の声だかを聞き分ける・・・それって「わたしにとってはごく当たり前のこと」ってさやかさんは言うけど、その種の態度は他の人達にも「当たり前」なのかな? 人間以外の生き物、鳥や虫や犬や猫や、そういうものへと歩み寄って、そういう生き物たちに感情移入する ― 単なる隠喩(メタファー)や象徴的絵柄(アイコン)や自分自身の感情の主観的投影対象として扱うだけじゃなく、自然をありのままの姿で見ようとする態度、人間以外の生き物の感情をあたかも自分の親友みたいに感じ取ろうとする態度、人に向かって鳥の話をするんじゃなくて鳥に向かって歩み寄ってコミュニケーションを取ろうとする態度 ― その種の態度って、さやかさんにとって自然なように、他の人達にもやっぱり自然な態度なんだろうか? とりわけ、平安調歌人たちにとって、それって自然な態度かな?

さやか:違うと思います・・・待って、ぁ、思い出した ― 「の歌」・・・「見遣り(みやり=他者へと歩み寄ってその感情をおもんばかること)」、ですよね?(第三話参照)

冗悟:覚えててくれて嬉しいよ。和泉式部のこの短歌は、平安調短歌の中では「黒い羊(black sheep=仲間外れのヘンなやつ)」なんだよ。誰もまともに聞こうとはしない「虫」の気持ちを思いやる「見遣り」の歌だからね。彼らの声を聞くことができるのは、心の底から「見遣り」ができる人達だけ・・・そんな人達は平安歌人の中にはなかなか見つからないけど、和泉は間違いなくそうした「見遣り」ができる数少ない女性の一人だった・・・君もそうだよ、さやかさん。

さやか:あなたもそうです、冗悟サン。

冗悟:さぁ、これで答えに辿り着いたね ― 君と俺が話しててお互い本当に楽しい理由は、俺たちがお互いどうし「見遣り」の態度で歩み寄ろうとしてるから。君が俺の前で「自分らしく」なれるのは、君の思ってること、君が言いたいこと、君にできることを、君の中からこの俺が引っ張り出そうとしてるからさ。君が何考えてるかをわかろうとすること、会話が始まる前よりもっと大きな何かへと君が成長するお手伝いをしてあげること、そういうことを俺は楽しんでやってる。逆もまたなりでね、さやかさん、君は、俺の中から、会話以前には俺自身さえ思ってもみなかったような本当に面白い何かを引っ張り出すお手伝いをしてくれてるんだ。俺たちは二人とも「見遣り」型の人間で、お互いどうしに向けて歩み寄ってる ― その意味で俺たちは「同じタイプ」なのさ。もしこの点で俺たちが「違うタイプ」の人間だったら、お互いどうしそんなに引かれ合うこともなかったろうし、この一連の会話もまるで成立してないはずだよ。

さやか:(…)「啓示(けいじ:enlightenment)」だわ! こういうの「啓示」って言うんですよね!

冗悟:あるいは「啓蒙」とかね。また一つ大きくなったみたいで、嬉しいよ、さやかさん。

さやか:わたしどんどん大きくなってます・・・冗悟サンのおかげで!

冗悟:こっちこそありがとう、さやかさん・・・今日はこんなところでお開きにしようか?

さやか:ぁ・・・もうちょっと続けて、いいですか?

冗悟:いいよ、続けて・・・。

さやか:わたしがこんなにも「自分らしく」冗悟サンとの会話を楽しめるのは、わたしと冗悟サンが同じ「見遣り」の態度を持ってるからだ、ってはっきり教えてくれましたよね?・・・でも、他の人たちの真ん中ではどうしてわたし「自分らしく」なれないんですか? 他の人たちは「見遣り」の態度を持ってないからですか? 彼らの態度はみんなあの・・・何でしたっけ、あれ?

冗悟:「見遣し(みおこし)」 ― ほら、オマエ、聞けよ、こっち見ろよ、オレは/アタシはここにいるんだから、ちゃんとこっちに注目しろよ!・・・的な態度。

さやか:そう、それです ― 「見遣し」・・・他の人たちはみんな「見遣り」ができずに「見遣し」一辺倒ってことですか?

冗悟:そうは思えないな。もし本当にそうなら、人類はすでにもう絶滅してるはずだから。

さやか:なら、どうしてわたし他の人たちの中に入ると「自分らしく」なれないんですか? 人混みの中では「見遣り」の態度で振る舞うことはできないんですか?

冗悟:その問いへの答えは、すでにもう君が自分自身の言葉で言ってると思うけど。

さやか:わたしが? いつ? 今日?

冗悟:そう、君、俺に言っただろ ― 「わたしはただ鳥とコミュニケートしたいだけなんです」って・・・「見遣り」の態度でね。鳥類愛好家協会の人間たちに交じって「鳥の話」がしたいわけじゃない、って・・・鳥好きの友達に交じって「鳥の話」をしてる時、君は「鳥」に歩み寄ってるかい?

さやか:いいえ、「鳥」はそこにはいません、そこにいるのは鳥好きの人間たちだけ。

冗悟:なら、君はその鳥好き人間たちに向かって「見遣り」の態度で歩み寄っているかな、君が話してる鳥がどんな種類の鳥なのかを彼らにわかってもらうために?

さやか:そう思います・・・ただ、鳥に向かって歩み寄ろうとしてる時ほど、真剣で素直な態度じゃないと思います。

冗悟:君は本当に鳥好きの友達に向かって歩み寄ってるのかな? むしろ君は、その鳥好きの友達の注目を「わたしのイメージの中の鳥」の方へと引こうとしてるんじゃないのかな、「見遣し」の態度で ― 「ほら、みんな、わたしの言うことを聞いて、わたしがどんな種類の鳥のこと話してるのか、ちゃんと想像して」って感じなんじゃない?

さやか:うーん・・・そう言われてみれば・・・そうですね、これって「見遣り」じゃなくて「見遣し」だわ。

冗悟:さて、もう少し考えてみようか。鳥好きの他の連中の注目を「君のイメージの中の鳥」へと引っ張ろうとする時、君は、他の連中が歩み寄ってくるのを期待するわけだけど・・・連中は誰に向けて歩み寄るのかな? 君に向けて?

さやか:はい、わたしに向けて・・・それが「見遣し」ってことじゃないんですか?

冗悟:ベクトルの向きとしては確かに「彼らに向けて」ではないね。でもよくよく考えてみると、そのベクトルは本当に「君に向けて」かな? 俺はそうは思わないな ― 注目ベクトルの向きは「君の頭の中の想像上の鳥」に向けてのものであって、「君に向けて」のものじゃない・・・そうは思わないかい?

さやか:言われてみれば、そうですね、はい、そう思います、冗悟サンの言う通りだわ。彼らは「わたしに向けて」じゃなく「わたしの頭の中の想像上の鳥に向けて」歩み寄ってます。

冗悟:なんかヘンだなと思わない? 君が鳥好き人間たちの輪の中で鳥について話す時、他の人間たちは「君の頭の中の想像上の鳥」に向けての歩み寄りを期待される;君もまたその「君の頭の中の想像上の鳥」への歩み寄りを期待される;でもその「君の頭の中の想像上の鳥」もまたその場には存在しないんだ・・・その部屋にいる誰もがみんな、実際にはその場にいない何かに向けての「歩み寄り」を期待されている・・・これって、かなり空虚な体験だとは思わない?

さやか:ほんとそうだわ・・・誰一人としてお部屋の中の誰にも歩み寄っていないなんて!

冗悟:別の言い方をすれば、心理学用語ではこういうの、部屋の中の全員が「会話から疎外されている」って言うんだよ。そのコミュニケーションに本当に入り込んでいる者は誰一人いなくて、誰もがただ引っ張り出されてるだけで、実際には誰に向けて歩み寄ってるわけでもなければ、誰かから歩み寄ってもらってるわけでもない。話してる当人は個人的に自分の話に一生懸命入れ込んでるかもしれないし、面白い話をしようと必死に頑張ってるかもしれないけど、それって単に身体をせっせと動かして少しばかりアツくなってるだけのことだしね。君と俺とのここでの会話に比べれば、そんなの本質的に空っぽ、構造的に言って「空っぽ」を運命付けられたコミュニケーションなんだよ。

さやか:ほんとその通りです、「空っぽ」だわ・・・

冗悟:ところでさやかさん、例の「ネコ」に関する俺たちのおバカ会話、覚えてる?

さやか:忘れっこないでしょ?

冗悟:あれってほんと面白かったと思わない?

さやか:ほんと、とっても。

冗悟:さて、ちょっと想像してみようか ― あの話があんまり面白かったので、君は思わずそれを他の大勢の人達の前で話してみたい衝動を抑えきれなくなった・・・オッケー?

さやか:うーん・・・わたしたぶん自分だけの秘密にしとくと思いますけど、会話の都合上、オッケー、ってことにしておきます。

冗悟:うん。で、そのお話はとっても面白いし、君がまたそれを実に面白おかしく話すもんだから、部屋中みんなおもしろがって拍手喝采の渦・・・となったら、気分はどうかな、さやかさん?

さやか:わたしの気分は・・・気持ちいいです、もちろん、悪い気はしません。

冗悟:悪い気はしない、そう、いい気分だよね、君としては当然・・・でも、その体験の「ほんとにいい部分」って、何だろう? 全員が君の話術の素晴らしさに大喜びしたこと?

さやか:だと思います。

冗悟:オッケー、それじゃもう少し詳しく踏み込んでみようか ― 本当に「よかった」のは何か? そのお話を語る君の話術が良かったのかな、それともお話の面白い内容自体が良かったのかな? どっちに軍配上げる、語り手としての君自身かな、面白いお話そのものかな?

さやか:ぇー・・・実際その場に居合わせてみないとわかりません。

冗悟:そう、その通り、わからないよね、その場になってみないと。でも、その場にいない今の時点でもはっきりわかることがあるよ・・・列挙してみようか?

さやか:はい。

冗悟:まず第一に、お話そのものが良いものであることは約束されてる・・・ってことでいいかな?

さやか:はい。

冗悟:それなら、もしそんな良いお話を聞いてもお客が沸かなかったとしたら、それは君の責任だね、そのお話を十分うまく語らなかった君の話術が悪いんだ・・・認める?

さやか:認めます。よいお話で観客を沸かせなかったら、それはわたしの責任です。

冗悟:うーん・・・あれ、ほんとにそうかな? お客さん自体が悪い、とは思わない? もしその連中が揃いもそろってみんな鈍すぎたせいでその話の面白味がわからなかった、たとえ君がどんなに上手に話しても相手が悪かったんだ、としたらどうする? それって連中のせいであって、君の責任じゃないとは思わない?

さやか:もしお客さんが鈍かったなら、はい、彼らの責任で、わたしのせいじゃありません。

冗悟:あるいは、よくよく考えてみれば、例のお話自体、君が思うほど面白くなかったのかもしれないよ。君の話し方がいかに上手でも、お客のノリがいかによくても、話の中身がダメダメだったら、お話会もシラけて終わり。その場合、君は悪くない、お客も悪くない、悪いのはただそのお話そのもの・・・そうじゃないかい?

さやか:そうですね・・・なんだかわたし、こんがらがってきちゃったけど。

冗悟:でも、これでわかったろう、いかに多くの責任が、いかに多くの当事者たちの上にのしかかっていることか・・・「群衆トーク」ってのはそういうもんさ・・・話の内容自体が良くなきゃダメ、話し手の話術も良くなきゃダメ、観客の質も良くなきゃダメ・・・どれか一つでもダメダメなら、全てが台無しになっちまう・・・場の空気はどんどん張り詰めたものになるね・・・そうは思わない?

さやか:そうです、人混みの中だとわたし、どうしても緊張しちゃいます。

冗悟:そして、思い出してごらん ― 群衆トークの中にあっては、部屋の中の全員が「話の内容から疎外されてる」ってことを・・・たとえその話でまんまとお客を笑わせたとしても、君はそれを本当に愉快に感じるかな? 今日ここで君と俺が交わしたおバカ会話のオリジナル・ストーリーと同じくらい、あるいはそれ以上に、愉快な体験だと思うかい?

さやか:ありえません! わたしたちの会話が断然最高です。

冗悟:俺も全く同感だよ、さやかさん。その会話してた時の俺たちって、何か「責任」感じてたかい? 「観客の質」についてビクビク考えてたかい? レベルの高い喋り方をしようとしてたかい? 話の内容自体、質が高いの低いのなんて、考えてたかい?

さやか:いいえ、ただ話して楽しんでただけでした。

冗悟:そのお話は最初からそこにあったお話だったかな、それとも会話が進むにつれて俺たちの手で作り上げてったものだったかな?

さやか:最初はそこにはなくて、わたしたちの会話の進行に合わせて徐々に形が出来上がっていきました・・・たぶん、冗悟サンの計画通りに。

冗悟:あぁ、俺の頭の中にはそれなりの計画があったことは認めるよ、でも実際には、あのお話、俺と君との共同作業で作り上げたものだったよね?

さやか:はい、わたしたち二人で一緒に作りました。

冗悟:俺たち、あの話から、疎外されてた?

さやか:いいえ、わたしたち、お話の内容に完全にひたりこんでました。

冗悟:君は俺に反対したよね、「こんなお話、今までに聞いたこともないわ!」って言ってさ、覚えてる?

さやか:正しくは「それって、これまで冗悟サンから聞いた中で一番馬鹿げた話ですよ」って言いました。

冗悟:訂正サンキュ、さやかさん。俺の記憶に間違いなければ、君はこうも言ったよね ― 「全く賛成出来ません」って?

さやか:言いました。今聞かれたとしてもやっぱり「賛成できません」。

冗悟:というわけで、俺たちの意見は不一致、どこまでも徹底的に不一致・・・だけどお互い相手の意見が気に食わないからと言ってなじり合ったりしたかい?

さやか:いいえ、実際には冗悟サンはわたしが反対するのを見て楽しんでるように見えました。

冗悟:その見立てで正解だね・・・その種の愉快な意見の不一致なんて、群衆トークの中で成立すると思うかい? 彼らは意見の不一致をすんなり受け入れるかい? 完全なる意見の一致に達するために必死に足掻くのと違うかい? 「意見の不一致」の余地なんてそこにあるかい? 「良くない話」の余地がそこにあるかい? 「へたくそな話術」の余地がそこにあるかい? 「ノリの悪いお客」の余地がそこにあるかい? 群衆トークの緊迫した空気の中では、「完璧」以外の余地がそこにあるかい?・・・俺にはそうは思えないね。部屋中みんなで爪先立ちして、ピーンと張ったロープの上を綱渡りしてるみたいなもんさ。

さやか:ほんとその通りだわ! それってわたしの実感です! だからわたし緊張しちゃって「自分らしく」なれないんだわ、大勢の人たちの中にいると。

冗悟:だから俺は言ったのさ、君や俺みたいな人間が本当に生きるための道は一つ ― 「一対一」だってね ― それが冗悟とさやかの生きる道・・・「大勢の中の一人」としては彼らは到底生きて行けません・・・何故なら彼らはすでにもう「一対一」対話のほうがどれだけ素晴らしいか、あまりに知りすぎてしまったからです・・・ってね。

さやか:わたしもほんとそう思います!・・・でも、考えたらコワくなってきちゃった、冗悟サン ― あなたがいなかったら、わたし、どうしたらいいの?

冗悟:俺が君ならその点心配しないけどね。君なら確実に他の誰かが見つかるさ、そいつの前では「一対一」の関係で「自分らしく」なれる誰かさんが、ね。

さやか:どうしてそう言い切れるんですか?

冗悟:実際のところ、人々は誰も群衆の中だけで生きてるわけじゃない。人にはみなそれぞれいるのさ ― あるいは見つけ出そうとするのさ ― 「一対一」の関係になれる特別な誰かを、ね。その人と一緒なら「本物の鳥のほうへと歩み寄ってその声を聞く」ことができる、「想像上の鳥について語ったり聞いたり」しながら実際にはその場の全員を疎外したりすることもなしに・・・そういう特別な友達を見つけ出すことで、人はみな「自分らしく」なれるのさ・・・「巣の中の蜂の立場で満足」ってヤツラは別だけど。鳥を心底愛する本当にかわいいネコちゃんは、確実に発見してもらって歩み寄ってもらえるはずだよ、どこかの優しい人間さんに・・・あるいは優しい男の人に、かな?・・・君ならきっと誰かに見出されて愛されることだろうよ、さやかさん、俺がいなくなったその後でも。

さやか:そんな、わたしを悲しませないで・・・

冗悟:あぁ、君を悲しがらせたりはしないよ、少なくともあと19エピソード分はね・・・まだまだこの先道は長いよ、さやかさん・・・さてと、今日はずいぶんいっぱいお話したから・・・本日はこれまで、ってことで、いいかな?

さやか:はい。ほんとどうもありがとうございました、冗悟サン。わたしにとって今日は「目からウロコが落ちる」ようなレッスンでした。ほんとうに感謝してます。

冗悟:こっちこそ楽しかったよ。じゃまたね。


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12)(題しらず)

なくむしのひとつこゑにもきこえぬはこころごころにものやかなしき

「鳴く虫の一つ声にも聞こえぬは心々に物や悲しき」

『詞花集』秋・一二〇・和泉式部(いづみしきぶ)(978-?:女性)

『秋の野原を埋め尽くす虫たちの鳴き声はそれはもう賑やかだけれど、よくよく聞けば、どれもこれもみなそれぞれ違う声に聞こえるのは、みな思い思いに何か特別な悲しみを訴えながら泣いているから・・・なのかな?』

The sounds of autumnal insects chirp out as many sorrow.

Behind the loud harmony, their cries must all be unique.

なく【泣く】〔自カ四〕(なく=連体形)<VERB:chirp, cry>

むし【虫】〔名〕<NOUN:insects>

の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(SUBJECT)>

…insects giving out cries

ひとつ【一つ】〔名〕<ADJECTIVE:the same, similar, a single, just one>

こゑ【声】〔名〕<NOUN:the voice, tone>

に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(COMPLEMENT)>

も【も】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(INTONATION)>

きこゆ【聞こゆ】〔自ヤ下二〕(きこえ=未然形)<VERB:sound like>

ず【ず】〔助動特殊型〕打消(ぬ=連体形)<AUXILIARY VERB(NEGATION):not>

…their voices sound different from insect to insect

は【は】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(SUBJECT)>

…is it because

こころごころ【心々】〔名〕<ADVERB:each one with something personal in mind>

に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(MANNER):in such a way as>

もの【物】〔名〕<NOUN:various things>

や【や】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(INTERROGATIVE):?>

かなし【悲し】〔形シク〕(かなしき=連体形係り結び)<VERB:be sorry for, melancholic about>

…they are radiating respective sorrow unique to each and every one

《naku mushi no hitotsu koe ni mo kikoe nu wa kokorogokoro ni mono ya kanashiki》


■共感を与える心(見遣り:みやり)と注目を求める心(見遣し:みおこし)■

 平安時代のあらゆる歌人の中で、和泉式部(いずみしきぶ:978頃-1027年以降)は西行法師(さいぎょうほうし:1118-1190年)と並んで現代読者への最大の訴求力を持つ ― 彼らの短歌はその対象物への基本的態度がその他の平安歌人とは異なるからだ。和泉も西行も、対象物への主観的入れ込み度が極めて高いため、詩人ともども読者までもがその詩の世界に完全に取り込まれ対象物との合一感覚を得ることになる。その他の平安調短歌では対象物はただ単に歌人が個人的に言いたい何事かを述べるための一種の口実であり、歌人個人の感情や興味の主観的投影対象として使い倒されているに過ぎないのと比べると、まるで違う。

 その違いを読者に感じ取ってもらうために、ここで引いた短歌と少し似ているけれど本質的には全然違う歌を紹介することにしよう・・・短歌の最初期『古今集(905年)』時代に於ける最も著名な歌人の一人藤原敏行(ふじわらのとしゆき)の作品で、和泉の短歌同様「虫」に言及するものだが、その言及の作法はまるで異なる:

《あきのよのあくるもしらずなくむしは わがごとものやかなしかるらむ》『古今集』秋・一九七 秋の夜の明くるも知らず鳴く虫は 我が如物や悲しかるらむ(秋の夜が明けたのも知らずに鳴き続ける虫は、この私と同じように悲しい気持ちでいるのだろうか?)

・・・敏行の耳に「虫」の声が悲しく響くのは、「彼」自身が悲しいからであり、「虫」の声が実際彼に悲しく聞こえたからではない・・・ウソだと思うか? よろしい、それなら、同じ歌人の手になる次の一作を見た後で再び筆者に反論してきたまえ:

《わがごとくものやかなしきほととぎす ときぞともなくよただなくらむ》『古今集』恋・五七八 我が如く物や悲しき郭公時 ぞともなく夜只鳴くらむ(この私同様、悲しい思いを抱えているのだろうかあのホトトギスは、夜通しずっと鳴き続けているだなんて)

・・・「ホトトギス」の声はさっきの歌の「虫」のこだまとして同じ声で鳴いている・・・どちらの声もまったく同じで代わり映えしないのは、それが「敏行」自身の個人的感情の「反射投影」に過ぎないからである。和泉の歌の中の「虫」みたいに「心々に(こころごころに=みなそれぞれがそれぞれなりに独自な声で)」私たちの耳に鳴り響いていないから、ちっとも本物っぽく聞こえないのである。

 単純に言えば、平安歌人にとって、自然界にあって「心」や「感情」を持つ唯一の存在は「人間」のみであり、その他の生き物はみな ― 獣も鳥も虫も草木も ― 自分自身の感情など持たない何かでしかなかった ― 彼らの語彙で言うところの「心無き(=無心の)」生き物だったのであり、歌人自身の感情の主観的投影の的、ある種の「鏡」としてしか言及するに値しないもの、ちょうど「月」が(しばしば擬人化はされるものの)それ自身の個人的感情など全く何一つ持ち合わせていないのと同じ扱いだったのである。

 以上が、和泉式部(その詩も彼女自身も)が今日でも多くの人々に愛されるのに対し、藤原敏行という人物について言及する人などほとんどいないことの本質的理由説明である。敏行の短歌《あききぬとめにはさやかにみえねども かぜのおとにぞおどろかれぬる:秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる》などは大変な人気があるのに、いかに洗練されてはいても、この短歌はべつに敏行以外の誰の作であっても我々にとっては一向差し支えないのである ― 我々が彼のこの短歌に言及する時、それは我々自身の詩的洗練度の証拠品として引き合いに出すだけであって、「彼」個人の声の響きなどどうでもいいのである ― ちょうど彼が自分の詩の中の「虫」や「ほととぎす」の実際の声などどうでもいいと思っていたのと同じように。それが日本人の伝統的やり方なのだ。日本人は何らかの「反射投影」に間接的な形で興奮するだけであって、その「対象物」そのものに直接的に魅了されたり関わったりなどしない。日本人は物事を何らかの「アイコン(象徴図柄)」として見たり聞いたりするだけであり、自分たちに向かって語りかけ直接的関わりを持ちたがっている何かがあっても、それを独自の意味を持った特別な何かと感じることはないのである。対象物の本当の声も感情もひたすら無視され、日本人の目にも耳にも心にも届きはしない。「個としての唯一無二の存在感」は、日本人の短歌には不向きなテーマなのである。言及すべき何かとしての価値を「対象物」が持つのは唯一、その「個性」が何らかの「概括化されたイメージ」に取って代わられた場合のみである。平安歌人のほぼ全員が「虫の声」なんてものは彼らの知的加工を待っている単なる「未加工の原材料」に過ぎないと感じるのとは対照的に、和泉式部の「見遣り(みやり)」型の心に対してだけは「虫の声」は独自の存在の重みを持った個性的な価値を持つのである。

 対象物へと歩み寄りこれに自らを個人的に重ね合わせるその態度に於いて、和泉はまったく唯一無二の存在だったのか? まぁそう主張してしまって間違いなかろうが、ここに唯一の例外としてもう一人の「見遣り」型歌人が(平安末/鎌倉初期に)存在する ― 西行法師(さいぎょうほうし:1118-1190年)である:

《きりぎりすよざむにあきのなるままに よわるかこゑのとほざかりゆく》『新古今集』秋・四七二 蟋蟀夜寒に秋のなる儘に 弱るか声の遠ざかり行く(あぁ、コオロギよ、秋も深まり夜が寒くなるにつれて、弱って行くのか、次第にその声が遠ざかって行くなぁ)

 平安時代の日本にあって「見遣り(みやり:他者へと歩み寄りその心情をおもんばかる態度)」ができた人物が西行と和泉のたった二人だけ、などということはもちろんないだろうが、平安時代の非感情移入型歌人達の手にかかれば単に無視されるか歌人自身の自己表現のための隠喩(メタファー)・象徴(シンボル)・象徴図柄(アイコン)あるいは口実として使い捨てにされるばかりの対象物に対し、心底からの感情移入を詩の中で表現した歌人としては、和泉と西行は間違いなく他に類を見ない(ユニークな)存在であった。

 そうした「見遣り」的歩み寄り態度の欠落という伝統的欠陥を、現代の日本人はすでにもう克服した、のであろうか?・・・筆者自身の声で明け透けに「した」/「してない」とはえて言わずにおいて、その代わりに、上掲の和泉や西行の短歌にどことなく似たところのある俳句を一句、紹介することにしよう:

《あかとんぼ じっとしたまま あすどうする》風天・・・赤とんぼじっとしたまま明日どうする・・・

・・・さて、ご感想やいかに、日本の諸君? 「あまりに当然すぎてえて言うまでもない」と感じるだろうか? それともそのユニークな感情移入で君の心を打つ俳句になっているだろうか?・・・筆者としてはこれ、際立つ一句だと思う。現代の日本のその他の俳句が、俳人自身の純粋に個人的な状況の自己中心的表現に対する読者の「超自然的注目」と「超人的忍耐力」とを強要する代物揃いであるのとは明らかに違う、独自の立ち位置にある俳句である。千年前の平安の御先祖たち ― 洗練されてはいても感情移入能力ゼロだったあの人たち ― と何ら変わらず「きりぎりす(=コオロギ)」の鳴き声を聞き分ける耳も持たず「とんぼ」の苦境に注ぐ同情的視線も持たない「見遣し(みおこし)」だらけの現代日本人の振る舞いの中にあって、この俳句は極めてな「見遣り(みやり)」の例外的作品となっている。

 興味を抱いた人のために申し添えれば、この「風天」を自称する作者の本名は田所康雄(たどころやすお:1928-1996年)、舞台の上では「渥美清(あつみきよし)」を名乗った役者であるが、もっと有名なのは彼の当たり役「フーテンの寅(ふ-てんのとら=風来坊の寅次郎)」であろう。全48作というとてもとても長い映画シリーズ『男はつらいよ(1969-1995年)』の中で彼が演じた車寅次郎(くるまとらじろう)という役は、さすらいのテキ屋さん、いつも誰かキレイな女の人に恋した挙げ句、最後は決まってフラれておしまい、傷心の痛手から逃げるようにしてまた当てもないさすらいの旅へと立って行く風来坊・・・おそらく多くの日本人の記憶の中で最も愛された風来坊であろうこの「寅さん」は、人々が他人様の目に映る世間体などあまり気にせずにお互いどうしのことをちゃんと思い遣ることができた「古き良き時代の日本(・・・?・・・)」の象徴的存在なのだ・・・が、この風天の手になる俳句は「フーテンの寅」と同じくらい同類なし(ユニーク)な孤独さを漂わせている ― 「寅さん」は実に多くの人々へと歩み寄り、実に多くの人々に愛されたけれども、彼に歩み寄ってその本当の声に耳を傾けたり、ちっちゃなトンボの心の中をき込んだりする人が、この国に一体何人存在するであろうか?

「英語を話せる自分自身」を自らの内に持つということは、「さやかさん/冗悟サン」みたいな会話相手が隣にいるみたいなもの。
実際の会話相手の提供はしませんが、「さやかさん/冗悟サン」との知的にソソられる会話が出来るようにはしてあげますよ(・・・それってかなりの事じゃ、ありません?)
===!御注意!===
現時点では、合同会社ズバライエのWEB授業は、日本語で行なう日本の学生さん専用です(・・・英語圏の人たちにはゴメンナサイ)