31短歌16)「我が身の主」となって時の流れを忘れる方法 ― さやか、冗悟の「完璧かつ徹底的な自分自身への誠実さ」に感嘆する

16)(年の暮れの心をよめる)

なにごとをまつとはなしにあけくれてことしもけふになりにけるかな

『何事を待つとはなしに明け暮れて今年も今日になりにけるかな』

源国信(みなもとのくにざね)

♪(吟)♪

★「我が身の主」となって時の流れを忘れる方法 ― さやか、冗悟の「完璧かつ徹底的な自分自身への誠実さ」に感嘆する★

冗悟:さぁて、四季を通じての幾多の喜び・悲しみの末に、とうとう最後のやつに辿り着いたよ ― これが、一年のまさに最後の日に詠まれた四季の短歌の最後の一作だ。

さやか:最後!? いゃだそんなの、これって永遠に続くと思ってたのに!

冗悟:「四季の詩」としてはこれが最後、って言ったんだよ ― 君のために用意した短歌全31首のど真ん中・・・心配しないでさやかさん、冒険の旅はまだまだ続くよ。

さやか:おどかさないでくださいよ・・・「四季」の次は何が来るんですか?

冗悟:「恋」さ・・・一連の恋歌シリーズ。

さやか:ぅわぁー、素敵! そっちに一気に行っちゃいましょうよ!

冗悟:この短歌はどうするの?

さやか:うん、それはもうそのままでいいと思います。そのメッセージは見たまんま明白だし。

冗悟:そう?

さやか:そうですよ ― 毎日毎日とりたてて何を待つわけでもなく過ごしているうちに、今年も終わりになっちゃった・・・「光陰矢のごとし」!

冗悟:君の時間も矢のようにびゅーんって飛び去って行くのかな、さやかさん?

さやか:うーん・・・わかりません。毎日とにかく忙しすぎて今日が何日だか覚えてないし、次に何が待ち構えてるのか何に身構えていいのかもわからない、そうして気付けばもう十二月・・・そのものすごいスピードを考えると、たぶん時は矢のように飛び去ってるんだと思います。でも、十二月はスケートやスキーが待ち遠しい気分にさせるし、そうして気付けばいきなり一月、そしてあっという間に四月になって、私は次の学年に進級してる・・・それでいてわたしまだ17だしまだ最終学年にすらなってない。だから、あれこれ考え合わせてみると、時間はわたしの前では「矢のごとし」ではないってことかしら。高校卒業した後で思えば「あっという間に過ぎ去っちゃったわね」って感じるかもしれないけど、それまでの間は、この詩人が言うほど「光陰矢のごとし」じゃないです。それがわたしの時間感覚。

冗悟:さやかさんの日々は、高速度である以上に濃密度が高いんだね。

さやか:そんなに濃密じゃないかもしれないけど、出来事だけはわんさかあります、学校生活はイベントまたイベントの連続攻撃。

冗悟:出来事だらけの日々は、時の経つのを忘れさせるからね。俺も、学生時代は、時間も年齢も関係ないような気がしてたのを思い出すよ。

さやか:冗悟サンは、高校時代からずっと「冗悟サン」だったんですか、今のままで?

冗悟:「冗悟サン」って変名の方はともかく、俺はずーっとこのままさ・・・14歳の時からね。

さやか:どうして14歳からなんですか? 14歳の時に何があったんですか?

冗悟:14歳の時に、日課の腕立て伏せを始めたんだよ。別の言い方をすれば、自分で自分を意識的に作り上げることを始めたんだ・・・言い換えれば、「学校」はもはや俺にとって大した影響を持たなくなったってこと、こと「肉体」に関しては ― 俺は自分自身のになったんだ。

さやか:「自分自身のあるじ」! すごーい! いいなぁ、わたしもそう言えたらいいのに・・・

冗悟:さやかさんは自分自身のじゃないのかい?

さやか:前にしたでしょ、子供時代の終わりにわたしが「自分」じゃなくなっちゃったお話?(第十四話参照)

冗悟:あぁ・・・つまり、自分以外の何かが君の身体を支配してる ― 月に一度は ― ってこと?

さやか:はい、それもあります、もう馴れたけど。ほかにもいろいろあるんですよ・・・学校の校則とか、他の人たちの視線とか・・・いろいろです。

冗悟:女の子は、支配したがるいろんなものに、馴れて行かないといけないんだね。

さやか:「自分自身のあるじ」になるのはほんと大変ですよ・・・冗悟サン、今でも日課の腕立て伏せ続けてるんですか?

冗悟:あぁ、毎日百回だけね。

さやか:「百回だけ」! それって「だけ」って数字ですか?

冗悟:17から二十代前半にかけてやってた500回に比べれば、「だけ」だね。

さやか:17歳の時には毎日500回腕立て伏せしてたんですか?!

冗悟:あぁ。10回から始まった日々の繰り返しの、ほんの自然な成り行きだよ。10回の次は15回、次は20回、その次は50回に飛んで、その後は当然倍々ゲームで100回、200回、お次は300、そうして500さ。

さやか:どうして400は飛ばすんですか?

冗悟:500の方が400よりも印象的だろ?

さやか:まぁ言われてみれば・・・男の人って、じっさい500回も腕立て伏せできるものなんですか・・・連続で、ですよね?

冗悟:もちろん連続さ。大学卒業するまで毎日やってた。

さやか:その後は? 毎日100回?

冗悟:いや。平手の腕立てから「拳立て伏せ」に変えた。

さやか:「ケン立て伏せ」って何ですか?

冗悟:両手のを握り締め、地面に叩き付けて、重力と格闘するのさ、と腕とと己れの精神に向かって「どうだい相棒、まだイケそうか?」って語りかけながらね ― それが「拳立て伏せ」さ。

さやか:冗悟サンには驚かされっぱなしだゎ!・・・100回のケン立て伏せを、毎日ですか?

冗悟:いや、最初っからそんなに多くは無理だよ。たぶん20か30回ぐらいから始めたんじゃなかったかな。最終的には毎日200の拳立てに落ち着いたよ、二十代半ばから三十代の間はずっとね。でもこの頃はもう、じゃなくでする普通の腕立て100回だけ。その気になればどこまで行けるか、自分で自分を試す実験段階はもう卒業したんでね。毎日たった100回の、普通の平手の腕立てだけでも、己れの肉体と精神の強さに疑問を抱かずに済む境地にもう達しちゃった。

さやか:冗悟サンって、いったいどういう詩人なんですか?!

冗悟:ブルース・リーにれた少年が、大人になっても常に自分で自分の運命のたらんと欲し続けて生きてるだけさ。君がもし女の子じゃなかったらたぶんそうなっていただろうな、ってタイプの男だよ、さやかさん。

さやか:わたし、女の子でよかった。冗悟サンみたいにストイック(克己禁欲)になれっこないもの。

冗悟:どうかな、案外いけてたかもよ。それにそもそも、俺は全然「ストイック(克己禁欲型)」じゃない。

さやか:それは自分でそう思ってるだけで、世界中の誰もが認めますよ、冗悟サンはストイックだ、って。でないと毎日500の腕立て伏せなんてできっこありません!

冗悟:いや、俺はただ自分のやりたいことに頑固にしがみついてるだけさ、大方の連中よりずっと頑固に、ただそれだけ・・・そんなの「ストイック」って呼ぶ?

さやか:ほかにどういう呼び方があるんですか?

冗悟:俺なら「誠実」って呼ぶけどね。

さやか:「誠実」?

冗悟:自分自身に対して完璧かつ徹底的に誠実、他人が俺に何を期待するかなんざお構いなしに。実際、俺が誠実かつ徹底的に何かに打ち込めば、他人の期待レベルなんか軽~く越えちゃうからね。

さやか:すごーぃ! 「自分自身への完璧かつ徹底的な誠実さ」 ― それってわたしが今までに聞いた中で最高のせりふです!

冗悟:でも、そこには落とし穴があるんだよ。自分自身に対して完璧かつ徹底的に誠実な人間は、自分の周りの何事も気にしなくなる・・・そうしてある日気付いたら、自分は外界から完全に浮いた異邦人になっている。

さやか:それって、周りの日本人社会から疎外されてる、って意味ですか?

冗悟:必ずしもそういうわけじゃない。日本人の間に入っても、俺はちゃんと馴染んでるよ。日本人は「異邦人」の存在そのものに耐えられない人種だから、どんな相手でも「異邦人」としてこれを見ることを拒否するんだよ。日本人は俺のことを彼らの一員とみなすだけ。なんたって彼らは俺の正体を知らないし知ろうとも思わない・・・さやかさんみたいにはね。

さやか:わたし、冗悟サンのこともっと詳しく知りたいです。それって、危険なことですか?

冗悟:そうでもないと思うよ。だってすでにもう俺に似たところが君の中にはないでもないから。

さやか:冗悟サンからそう言ってもらえると、わたし光栄です。

冗悟:それ、冗談で言ってるんじゃないとしたら、あまり嬉しくない言い方だな。

さやか:え?・・・わたし、何かいけないこと言っちゃいましたか?

冗悟:「光栄です」って言ったろ?・・・自分に似た誰かが「君は俺に似てる、だから俺、君のこと好きだよ!」って言ったからって、何が「光栄」なもんか ― 「そう言ってもらえて嬉しい!」って言うのが自然だろ?

さやか:あぁ・・・はぃ、わたし、そう言ってもらえてとってもうれしいです。

冗悟:俺もだよ・・・さてと、なんかさっきから俺たちのこと ― って言うか「俺」のことばかり話して、この年の終わりの冬の短歌のことちっとも話してない気がするのは何故だろう?

さやか:この短歌の話はもう済んじゃってるからですよ。この詩人の時間は飛び去っちゃうけど、わたしと冗悟サンの時間はそうじゃない、ってことで。

冗悟:それは間違いだね、俺に関しては。君自身の時間に関してはそれで正しいんだろうけど。

さやか:この詩人みたいに、冗悟サンの時間も速く飛び去っちゃうんですか?

冗悟:あぁ、そうだよ。時の流れは俺の前ではびっくりするほど速い。

さやか:でもさっき、冗悟サンとわたしはよく似てる、って言ってたじゃないですか。

冗悟:俺はこうも言ったよ ― 俺は自分自身に対して完璧かつ徹底的に誠実すぎて、自分の周りのことなどまるで気にしないから、ふと気がつけば周囲の世界から浮いたまったくの異邦人になっていて、外界の時の流れから完全に取り残されていたりする・・・そうして突然、気付けば一年も最終日、「前の世紀」ってのは「一九世紀」じゃなくて「二十世紀」、『扶桑語り』の創作に没頭しているうちに五年の月日が夢のように過ぎ去っている・・・で、今ふと気付けば俺の前には17歳のネコちゃん顔したかわいい女の子がいて、俺はまるでクラスメートみたいに彼女と向き合っている、けど、彼女のほうではたぶん俺のことを彼女のお父さんかあるいは『大鏡』の世界から飛び出してきた百歳超の老人みたいな誰かさんと思っている・・・「時間」は、俺の内と外とでは、違う時計で進むのさ。たいていの人達は「外部時計」に素直に従って生きて、その時計の針の指し示すままに年を取るのをすんなり受け入れてるけど、俺はぜんぜん従順じゃないから、しばしばそういう「客観時間」に対しては徹底抗戦する・・・抵抗しまくった挙げ句、自分で自分を「時を越えた存在」とか感じてたりする・・・まぁ「老いない存在」とは言わないけどね。

さやか:(…)最初に出逢った時、わたし冗悟サンが何歳なのかよくわかりませんでした・・・けど、いまはっきりわかりました ― 冗悟サンはほんとに何歳でもない人なんですね。

冗悟:「老いと無関係」ではないよ、さっきも言った通りね。今の自分には1,234回もの腕立ては無理、ってことぐらい知ってるさ。

さやか:1,234回も腕立て伏せしたことあるんですか!?

冗悟:記憶に残る数字だろ? 我が不屈の勇気と力の記念碑として、そしてまた日々の腕立ての数を無闇矢鱈と増やしてみても意味はないってことを自分で自分に確信させるために、やってみたのさ「1234:ワン・ツー・スリー・フォー!」ってね。毎日やってる回数の倍以上だって出来るんだってことを知った時、もう500回以下でも満足できる心持ちになったんだよ・・・だって、やる気になりさえすればその倍だって出来るわけだからね。一千回以上の腕立てをやってのけたおかげで、俺は「向上心の悪循環(aspiration spiral)」とも言うべき状態から自由になれた、ってわけさ。

さやか:向上心の悪循環?

冗悟:あるいは「進歩の奴隷(slavery to advancement)」とでも言うかな、数的増殖を繰り返さない限り自分が惨めに感じてしまう状態だよ・・・毎日の腕立ての回数でも、友達の数でも、ツイッターのフォロワー数でも、年収の額でも、社会的地位でも、何でもとにかく向上し続けないとダメ、下落し出したら自分の人生ももう落ち目・・・そういう自己破壊的態度からはもう、俺は完全に自由の身なのさ。

さやか:すっごーい!

冗悟:それもみな日々のささやかな腕立てのおかげ。腕立てを続けてる限り、俺はいろんなものを保ち続けられる ― 体調や体型、心の強さ、自分自身への信頼と、「外部時計」への無関心・・・時の流れへの俺の無関心は徹底的で、年取ることも忘れてるよ、肉体的にはともかく精神的にはね ― だからこそ君とこうして「クラスメート」みたいに話してられる・・・もっともこの感覚は俺だけのもので、君には別の感覚があるかもしれないけど。

さやか:わたしも同じ気持ちです、あなたはわたしのお友だちだと思ってます・・・もっともわたしがあなたのお友だちにふさわしいかどうか、ちょっぴり不安ですけど。

冗悟:君には友達以上の価値があるよ、さやかさん。この詩的冒険のかわいいホステス(女性司会者)でもあるしね・・・さてと、ずいぶん長いこと話し込んじゃったね、本当に楽しいことに入れ込んでる時の時間はいつもより速く飛び去るものだから。

さやか:冗悟サンとの会話ならわたしこの世の終わりまでずっとしてても平気です。

冗悟:俺もだよ・・・でも、今日「さよなら」を言わないと、次の段階に進めない ― 君が熱望してるっぽい「恋歌」シリーズに、ね。

さやか:ゎぁ~そうだゎ、早く見てみたい、「恋歌」・・・冗悟サンと恋のお話、してみたい!

冗悟:ということで、四季の短歌の終わりに向けて、さよなら言おう・・・続きは次回・・・じゃまたね。

さやか:ほんとにどうもありがとうございました。ほんと、すぐにまた、逢いましょうね!


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16)(年の暮れの心をよめる)

なにごとをまつとはなしにあけくれてことしもけふになりにけるかな

『何事を待つとはなしに明け暮れて今年も今日になりにけるかな』

『金葉集』(二度本)冬・三二五・源国信(みなもとのくにざね)(1069-1111:男性)

(年の暮れる頃の心持ちを詠んだ歌)

『特に何かを待つでもなく、ただ何となく日々を過ごしているうちに、気付けば今年も今日で終わり・・・平穏無事な一年に感謝すべきか、平凡無地のまま流れ去る我が人生に溜息つくべきか・・・いやはや、年月の巡りは早いもの。』

(on the heart at the end of the year)

Without waiting for anything in particular,

This year has come to this day already.

なにごと【何事】〔代名〕<PRONOUN:something, anything>

を【を】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(OBJECT)>

まつ【待つ】〔他タ四〕(まつ=連体形)<VERB:wait for, look forward to>

と【と】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(EMPHATIC)>

は【は】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(EUPHEMISM)>

なし【無し】〔形ク〕(なし=終止形)<ADJECTIVE(NEGATIVE):not, without -ing>

に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(CIRCUMSTANCE):while, as>

…without waiting for anything in particular to happen

あけくる【明け暮る】〔自ラ下二〕(あけくれ=連用形)<VERB:lead a life, live from day to day>

て【て】〔接助〕<POSTPOSTIONAL PARTICLE(CONJUNCTION):and>

…each day just came and passed away

ことし【今年】〔名〕<NOUN:this year>

も【も】〔係助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(SUBJECT)>

けふ【今日】〔名〕<NOUN:today, this day>

に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(CULMINATION):result in, end up in>

なる【成る】〔自ラ四〕(なり=連用形)<VERB:become, come to>

ぬ【ぬ】〔助動ナ変型〕完了(に=連用形)<AUXILIARY VERB(PERFECT TENSE)>

けり【けり】〔助動ラ変型〕過去(ける=連体形)<AUXILIARY VERB(DISCOVERY):I realize>

かな【かな】〔終助〕<INTERJECTION>

…until today I find myself at the end of this year

《nanigoto wo matsu towa nashini ake kure te kotoshi mo kyou ni narinikeru kana》


■「歌徳説話」(=詠歌の才能による昇進伝説)の偽り■

 「何事を待つとはなしに」と、この短歌の作者の源国信(みなもとのくにざね:1069-1111年)は言うが、京都の朝廷に於けるその順調な昇進ぶりから考えればこれは毎年末の彼の実際の感覚だったかもしれない。彼の最終的な官位は正二位権中納言、これは平安時代の普通の貴族の野心的な夢を優に超えた出世であり、もし彼が42歳で急死していなければ更なる出世をげていたはずである。

 しかしながら大方の平安貴族の場合、「何事を待つとはなしに」ということはまず思いも寄らない感覚であったろう ― とりわけ「春」と「秋」には・・・前者は中央の朝廷に於ける高位高官の年次昇進の季節であり、後者は中央ではなく日本各地の「受領」として任命される中位の貴族の名前が発表される季節であった。「受領」は強力な権限を持つ地方総督で、資産形成の絶好機となるものであった。当時の貴族は、なるべく高い地位を確保すべく、中央の朝廷の高位高官の目にとまるようにありとあらゆることをして、個人的に知己を得た高位高官の手で自らの地位を引き上げてもらおうとした・・・そうした上で、毎年「春」と「秋」とを待ったのである ― 昇進者名簿に自分の名がるのを。

 当時の著名人達のお目に留まるための最も安直で広く行なわれた手段として、平安貴族達は「短歌」に走った。平安時代の歌会(短歌を披露するためのい)は、芸術家の交歓会ではなく社交の場であって、短歌の作者たちが有名人や権力者とお近付きになるための口実だった、と論じてしまうのもあながち無理とは言えないのである。そうした世俗的動機がなかったら、平安時代の短歌があれほどの隆盛を極めたかどうか、疑わしい。

 しかし現実には、良い短歌を作る歌人としての文学的名声など、中央の朝廷に於ける実際の昇進にはほとんど全く何一つ寄与するところはなかった。「良い短歌を一つ詠んだだけで昇進」というような物語の殆どは、京都の現実から遠い東国で、それも短歌の黄金時代はすでにもう古き良き時代の昔語りとなってしまっていた鎌倉期以降に生まれた民間伝承の夢物語であり、現実の京都から時間的にも空間的にも程遠い立ち位置に身を置く「自分自身では短歌(と呼ぶに値するまともな詩文)など作りもしない連中」が身勝手に作り散らした与太話でしかないのである。

 参考までに、平安時代の著名な歌人でありながら、その日本文化への大いなる文学的貢献に対して何の報いも受けることのなかった人々の、めめしいながらも極めて率直な「嘆き節」の数々をお目に掛けることにしよう。

 最初のやつは「長歌」である。作り手は源俊頼(みなもとのとしより:最終官位は従四位上)で、彼は第五勅撰和歌集『金葉集(1126年)』を単独で撰進した歌人である:

・・・長~~~~~い歌:簡略版や現代語訳が欲しい人は、飛ばして、下へ・・・(堀河院御時、百首歌奉りける時、述懐の歌に詠みて奉り侍りける)

最上川 瀬々の岩角 湧き返り 思ふ心は 多かれど 行く方も無く 堰かれつつ 底の藻屑と 成ることは 藻に住む虫の 割殻と 思ひ知らずは なけれども 言はではえこそ 渚なる 片割舟の 埋もれて 引く人も無き 嘆きすと 波の立ち居に 仰げども 虚しき空は 緑にて 言ふことも無き 虚しさに 音をのみ泣けば 唐衣 抑ふる袖も 朽ち果てぬ 何事にかは 哀れとも 思はむ人に 近江なる 打出の浜の 打ち出でて 言ふとも誰か 小蟹の 如何様にても かきつらむ ことをば軒に 吹く風の 烈しき頃と 知りながら 上の空にも 教ふべき 梓の杣に 宮木引き 御垣が原に 芹摘みし 昔を余所に 聞きしかど 我が身の上に 成り果てぬ さすがに御代の 始めより 雲の上には 通へども 難波の事も 久方の 月の桂し 折られねば うけらが花の 咲きながら 開けぬ事の いぶせさに 四方の山辺に 憧れて 此の面彼の面に 立ち交じり うつぶし染めの 麻衣 花の袂に 脱ぎ変へて 後の世をだにと 思へども 思ふ人々 絆しにて 行くべき方も 惑はれぬ 斯かる憂き身の つれもなく 経にける年を 数ふれば 五の十に 成りにけり 今行末は 稲妻の 光の間にも 定め無し 例へば一人 永らへて 過ぎにしばかり 過ぐすとも 夢に夢見る 心地して 隙行く駒に 異ならじ 更にも言はじ 冬枯れの 尾花が末の 露なれば 嵐をだにも 待たずして 本の雫と 成り果てむ 程をば何時と 知りてかは 暮れにとだにも 沈むべき 斯くのみ常に 争ひて 猶古里に 住の江の 潮に漂ふ うつせ貝 うつし心も 失せ果てて あるにもあらぬ 世の中に 又何事を 御熊野の 浦の浜木綿 重ねつつ 憂きに堪へたる 例しには 鳴尾の松の 徒然と 徒ら言を 掻き集めて 哀れ知れらむ 行末の 人の為には 自づから 忍ばれぬべき 身なれども 儚きことも 雲鳥の あやに叶はぬ くせなれば これも然こそは みなし栗 朽葉が下に 埋もれめ それにつけても 津の国の 生田の社の 幾度か 海人のたく縄 繰り返し 心に添はぬ 身を恨むらむ

・・・これは、詩文としては全くもって何の価値もない言葉の羅列である。少なくとも勅撰和歌集の中で紹介する価値など全くない代物である ― にもかかわらず、藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい:最終官位は正三位)はこの駄文を『千載集(1188年)』の中で紹介している・・・その理由は明白である ― 俊頼(としより)が俊成(しゅんぜい)の、そしてその他全ての不幸な(特筆すべき文学的偉業にもかかわらず何の報いも受けなかった)歌人達の気持ちを代弁しているからだ。

・・・その文言の大部分はとにかくひたすら無駄なので、熱意ある読者が解釈し易いように次のような形まで切り詰めて差し上げることにしよう:

行く方も無く 堰かれつつ 底の藻屑と 成ることは 割殻と 思ひ知らずは なけれども 言はではえこそ 埋もれて 引く人も無き 嘆きすと <仰げども 虚しき空は 緑にて> 言ふことも無き 虚しさに 音をのみ泣けば 哀れとも 思はむ人に 打ち出でて 吹く風の 烈しき頃と 知りながら 上の空にも 教ふべき 咲きながら 開けぬ事の いぶせさに 花の袂に 脱ぎ変へて 後の世をだにと 思へども 思ふ人々 絆しにて 行くべき方も 惑はれぬ 斯かる憂き身の つれもなく 経にける年を 数ふれば 五の十に 成りにけり うつし心も 失せ果てて あるにもあらぬ 世の中に 徒然と 徒ら言を 掻き集めて 心に添はぬ 身を恨むらむ

・・・そんなに熱意がない読者のためには、俊頼(としより)が言いたいことの概要を以下にかいつまんで記しておこう:

《こんな時代では、私みたいな者が中央の朝廷で昇進するのは困難だとはわかっています。しかし私は自分なりに精一杯努力しましたし、勅撰和歌集の撰進という仕事まで行なったのです ― が、それも結局朝廷での官職には何ら寄与するところはありませんでした。私はひどく落胆してもうこの俗世は捨てて仏教僧になってしまおうか、とさえ思いましたが、その俗世には私の愛する者たちが大勢いることを思うとそれが心理的足かせになって出家の決意も鈍ります。こうして期待を裏切られ続けた虚しい年月を経て、私もすでに五十を越え、まともに頭も働かなくなってきて、それでもこの世に価値なきゴミカスとしてしつこくへばりつきながら、こんな意味のない嘆き節並べ立てては己れの鬱憤晴らしをしている有り様です》

・・・こんな全く無価値な嘆き節を、それでも敢えてこの筆者(之人冗悟:Jaugo Noto)が引用した唯一の理由は、そこに含まれる<仰げども 虚しき空は 緑にて>という一節・・・文字通り翻訳すればこれは<私が空を虚しく仰ぐと、そこは緑一色に染まっている>となる ― 「緑」は、自然の中に於いては新鮮な活力と希望に満ちた色であるが、こと日本の中央の朝廷に於いては、「緑」は「黒」と並んで「最下級貴族」のシンボルカラーであり、極めて高貴な色である「紫」及び「青」とは対照的な色なのだ・・・両者の中間にあたる色は「赤」である・・・この色彩に於ける貴族間の相対的上下関係は、次に示す藤原輔尹(ふじわらのすけただ)の短歌によく現われている・・・なお、輔尹はここに紹介するそれ以外の歌人よりはずっと知名度が低く、勅撰和歌集の撰者でもないことをお断わりしておく:

《むらさきもあけもみどりもうれしきは としのはじめにきたるなりけり》『後拾遺集』春・十六 紫も朱も緑も嬉しきは 春の始めに来/着たるなりけり(「紫色」も「朱色」も「緑色」も、いずれもみんなめでたいのは、それが(草花の色としては)春先に来る(&朝廷の官位の象徴色としては「春の除目:じもく」の際に着る)ものだからである)

・・・すでにこの記事の中で述べた通り、「春」は中央の朝廷の高位高官の年次昇進の季節である。この短歌から判断する限り、 輔尹(すけただ)は、国信(くにざね)同様、昇進を巡る悲嘆からはずいぶんと遠い人だったようである。

・・・こんな短歌もあるにはあるが、「緑」は、以下に紹介する歌人たち(いずれもみな何らかの勅撰和歌集の選者達)にとっては、惨めな嘆きの色なのであった:

《まつならばひくひとけふはありなまし そでのみどりぞかひなかりける》『拾遺集』春・一〇二七・大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ:最終官位は正四位下) 松ならば引く人今日は有りなまし 袖の緑ぞ甲斐なかりける(縁起の良い松ならば、今日は「子の日の松(=枝どうしをピーンと引っ張り合って長寿のお祈りをする遊び)」として引いてくれる人もいるだろうに、現実の世の中にはこんな私を高い位まで引っ張り上げてくれる人は誰もおらず、私の袖の色は最下級の「緑」のまま、何ともふがいないことですよ)

《まつをのみときはとおもふによとともに ながすいづみもみどりなりけり》『拾遺集』賀・二九一・紀貫之(きのつらゆき:最終官位は従五位上・・・なのに1904年になってから贈従二位(「贈」は死後に与える官位)なのは『古今和歌集』誕生千年記念の明治政府の悪ふざけ) 松をのみ常盤と思ふに世とともに 流す泉も緑なりけり(時が経ってもずっと変わらず「緑」のままなのは、松だけだと思っていたのに、いつまでたっても昇進の声もかからず最下級のままの私は、流す涙さえ緑色)

《あをやぎのみどりのいとをくりかへし いくらばかりのはるをへぬらむ》『拾遺集』賀・二七八・清原元輔(きよはらのもとすけ:最終官位は従五位上) 青柳の緑の糸を繰り返し 幾らばかりの春を経ぬらむ(春の昇進の季節のたびごとに期待をかけながらもいつまでたっても「緑色」の衣装のまま、こんな虚しい春をいったい何年繰り返してきたことだろう)

《むらさきのふぢさくまつのこずゑには もとのみどりもみえずぞありける》『拾遺集』夏・八五・源順(みなもとのしたがう:最終官位は従五位上) 紫の藤咲く松の梢には 本の緑も見えずぞありける(最上級の「紫」の色を身にまとった「藤」原の人々の繁栄ばかりが目立つ中にあっては、私ごとき「緑」色の最下級貴族の存在などあってないようなものですね)

・・・この詩では、「緑」の色に言及することで作者である源順の低い役職を歎くと同時に、「藤」と「紫」という語によって「藤原」一族の圧倒的な繁栄ぶりをも当てこすっている。

・・・まつもむなしきときはのみどり(松/待つも空しき時は/常磐の緑)・・・待てど暮らせど、彼らの官位は永遠に低いまま ― 報われることの少なかったこの偉大なる歌人たちの耳には、国信(くにざね)の「何事を待つとはなしに明け暮れて 今年も今日になりにけるかな」は、まるで異なる意味を持って響いたことだろう。

「英語を話せる自分自身」を自らの内に持つということは、「さやかさん/冗悟サン」みたいな会話相手が隣にいるみたいなもの。
実際の会話相手の提供はしませんが、「さやかさん/冗悟サン」との知的にソソられる会話が出来るようにはしてあげますよ(・・・それってかなりの事じゃ、ありません?)
===!御注意!===
現時点では、合同会社ズバライエのWEB授業は、日本語で行なう日本の学生さん専用です(・・・英語圏の人たちにはゴメンナサイ)