31短歌05)無知の至福と追想の至宝 ― さやかの未来投資

5)(題しらず)

はるごとにはなのさかりはありなめどあひみむことはいのちなりけり

『春毎に花の盛りは有りなめど相見む事は命なりけり』

よみ人しらず

♪(吟)♪

★無知の至福と追想の至宝 ― さやかの未来投資★

冗悟:この詩、さやかさんがどう解釈するか、すごく興味あるな~。

さやか:ごめんなさい、わたしこの詩、一体何が言いたいのかよくわかりません。

冗悟:文法構造はわかる?

さやか:うーん・・・ちょっと怪しいかも。特に最後の「命なりけり」が謎です。もしこれが「相見む<物>は命なりけり」なら話は簡単で、「我々=私たち人間と花とが共通の目的語として目にしているものは、生命なのでした」ってなるんでしょうけど、それでもやっぱり意味不明な感じ。しかもこれ実際には「相見む<事>は命なりけり」ですものね・・・どう解釈したらいいのかな・・・「我々がお互いを見るのは、生命なのでした」?・・・これって文法的に合ってます?

冗悟:少し言葉を付け足したり変えたりすれば正しい感じになるよ。試しに「我々がお互いに会えるのは<命のおかげ>なのでした」とか「我々がお互いに会えるのは<我々が生きているからこそ>なのでした」とかの形で解釈してごらん。

さやか:わかりました・・・それでもやっぱりこの詩、わたしには何となくしっくりこないんですけど。

冗悟:それを聞いて嬉しいよ ― この詩の意味を理解するには、さやかさんはまだ若すぎるんだ ― 素晴らしい!

さやか:・・・そぅ ですか?・・・

冗悟:あぁ、ほんとそうだよ ― 春がどれほど大事なものか、わかるにはまだ若すぎる ― 見物する側から言わせてもらえば、これはすごくいいシーンだね。

さやか:冗悟サン、わたしのことからかってませんか?

冗悟:からかってるんじゃなくて、君のことうらやんでるんだよ・・・あるいは自分のこと懐かしがってるのかも。

さやか:自分のことなつかしがる?・・・よくわからないんですけど冗悟サン、それってどういう意味ですか?

冗悟:こんな俺にも昔はあったってことさ、春がどれほど貴重なものかを知らずに過ごしていた時代がね ― 自分がどれほど若いかも知らず、自分が若いってことすら知らない時代が、かつて冗悟サンにもありましたとさ、ってね。ずっと後になってから、幾つもの春が去り行くのを見送ってから、大事な友が何人か自分の人生から消え去ってから、それからようやく悟るのさ、自分はもう若くないんだ、自分の人生はもう昔のままではなくなったんだってね。若さをなくし、知り合いをなくし、二度と再び元には戻らないものをいくつも見送って、ようやく気付くんだ・・・自分の持ち物は、なくしてみるまで気付かないものだよ ― 失って初めて、心の底から、その喪失を悔やむんだ・・・そして泣くんだ、いくら泣いたって取り戻せっこないのに、わかっていながら泣くしかない・・・ひょっとすると、泣くよりほかに仕方がないからこそ、ただひたすら懐かしがって泣くのかもしれない・・・。

さやか:知りませんでした、これってそんなに哀しい詩だったんですね。

冗悟:いや、この詩はそんなに悲しくないよ。俺はただ、昔の自分の人生を思い出してただけさ・・・途中でいささかお涙頂戴っぽくなっちゃったけどね・・・ぁ、間違わないでね、俺ってほんとはそんな感傷的な人間じゃないからね。

さやか:わかりました・・・でも、感傷的になるって、べつに悪いことじゃないと思います。

冗悟:自分自身に対してならね。人前では、ダメさ。

さやか:人前で泣くのはいけないことですか?

冗悟:俺の場合はね。君の場合ならオッケーだよ・・・涙は女の魅力を引き立てる;けど、男の涙はめめしいだけさ。男は心の中で泣くもの、人前で泣くもんじゃない。

さやか:冗悟サンってちょっぴり性差別主義者なんですね。

冗悟:モノによりけりさ。世の中には、男と女の間にきっちり線引いてそれ以上はお互い踏み込まないようにしといたほうがいいものもある。

さやか:・・・ってことは、冗悟サンは「男女平等」には批判的な立場ですか?

冗悟:機会の均等には賛成だよ、誰であれチャンスだけは平等に与えられるべきさ、男にも女にも、若いのにもそうじゃないのにも、黒人にも白人にも、日本人にもそれ以外にも、ね。でも、たとえチャンスは平等でも、結果的には人はみな同じじゃなくなっちゃうものだからね。人それぞれの違いを無視しての万人平等を目指すなんてナンセンスだよ。男に子供が産めるかい、女みたいに?

さやか:いいえ。でも、夫が子育てすることはできるでしょ、妻みたいに。

冗悟:そうだね・・・もっとも、赤ちゃんが夜泣きするたび目を覚ましておしめ替えたりおっぱいあげたりあやして寝かしつけたりした末に翌朝また起きて家族全員の朝ごはん作るなんてマネは、俺にはできるかどうかわからんけど・・・

さやか:それって、冗悟サンの奥さんが実際してることですか?

冗悟:いや、俺はずっと独身さ、これまでも・・・たぶんこれからも。

さやか:(…)それってつまり・・・あなたの奥さんになる女性は、昔の日本の専業主婦がしてたみたいに家事の大部分をこなせなきゃダメ、ってことですか?

冗悟:さぁ、どうだかね。誰と一緒にいるかによって、物事、違ってくるだろうから・・・もっとも俺の場合、女房・子供と一緒に過ごす自分の姿なんて想像もつかないけど。

さやか:たしか冗悟サンわたしに、どこかの男性にいだ自分の姿を想像してごらん、って言いましたよね?・・・それなのに今度は「俺にはそんな想像はできん」って言うんですか?(第四話参照)

冗悟:そう。これでわかったろ ― 人はみなそれぞれ違う、君も俺もね。

さやか:わかりました。つまりこういうことですね、わたしはあなたの前で泣いてもいい、いつか結婚してもいい・・・それと、この詩が何を言わんとしているかについては、わたしはべつにわからなくてもいい?

冗悟:今のところは、わからなくてもいいよ・・・いつかその本当の意味がわかる時がくるだろうから。

さやか:冗悟サンがそう言うんなら、わたし我慢します。我慢強く待ちます。いつか私が・・・もっと人生、熟すまで。

冗悟:いい子だ、さやかさん、我慢することを覚えたんだね。

さやか:冗悟サンに最初にあった時から、わたしずっと成長してますよ。

冗悟:オッケー、それじゃ、その時を楽しみに待つことにしようか、君が大人になるまで、俺はもっと年取るまで。

さやか:年とるまで、じゃなくて、もっと熟すまで、さやかも冗悟サンも・・・そっちのほうが素敵だと思いません?

冗悟:そうだね、訂正どうもありがとう、さやかさん。いつの日かまた会えることを祈ろうか、今よりもっと年輪も経験も感性もその他いろんな物事も熟したその後で・・・そうして再会した時には、この詩のこと、今日ここで話したことを、また思い出そう・・・そして新鮮な話題みたいに話の続きをしよう・・・あるいはただ過去の記憶の大事な宝石に触れるみたいな感じで、さらりとこの詩、口ずさむだけでもいいかな・・・そうしてお互い、にっこりほほ笑んで、おしまい・・・素敵だろ?

さやか:素敵だわ・・・

冗悟:そうさ、そういう事もみなこれすべて、お互い生きて、同じ「時」と「所」に居合わせればこそ可能になるわけさ・・・それと、共通の大事な思い出に対する優しい気持ちも共有できれば、理想的。

さやか:素敵・・・それがどれほど素晴らしいことか、きっとその時にならないとわからないんですね。

冗悟:そう。未来に何が待ってるか、それを知りたければ、その時が来るまで生きてることだね。

さやか:そうですね! あっ、それだゎ ― 「命なりけり(=結局、”命”あればこそ)」 ― みぃーつけた、わかっちゃった!

冗悟:あんまり焦っちゃだめだよ、お嬢さん・・・人生この先、どれほど多くのものが待ち受けているか、その時になってみないとわかんないんだから・・・ともあれ、今日はこれでおしまい。貴重な思い出をまた一つどうもありがとう、わが大切なる友よ・・・じゃ、またね。

さやか:ありがとうございます。じゃぁまた・・・将来もまた、お会いしましょうね、冗悟サン。


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5)(題しらず)

はるごとにはなのさかりはありなめどあひみむことはいのちなりけり

『春毎に花の盛りは有りなめど相見む事は命なりけり』

『古今集』春・九七・よみ人しらず

『毎年春が来れば、花は咲きやがては散ってを繰り返す。その盛衰のさまを見て、人は、花の命の短さや束の間の美の儚さやこの世の無常を感じ、嘆じるけれど、そうした感慨もみなすべてこれ「命」あればこそ。死んでしまえばもう何も感じず何も動かず、花も人も心もことごとく「無」に帰すのみ・・・いつまでも同じ春の歓喜に浸り続けることは許されないこの世の中で、それでも束の間の生の躍動に心うち震わせることができるのは、花も、自分も、現にこうして生きているからこそ・・・今年もまた巡り会えた、一度限りのこの春に、感謝。』

Flowers bloom and fall each and every Spring,

From budding to shining to fading day by day.

This year again I exult in seeing them go by.

Thank God I’m alive to feel the passage of time.

はる【春】〔名〕<NOUN:Spring, vernal season>

ごと【毎】〔接尾〕<SUFFIX:each, every>

に【に】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(UNIT):for>

はな【花】〔名〕<NOUN:flowers>

の【の】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(POSSESSIVE):’s, of, belonging to>

さかり【盛り】〔名〕<NOUN:prime, height>

は【は】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(SUBJECT)>

あり【在り】〔自ラ変〕(あり=連用形)<VERB:be, exist>

ぬ【ぬ】〔助動ナ変型〕完了(な=未然形)<AUXILIARY VERB(EMPHATIC)>

む【む】〔助動マ四型〕推量(め=已然形)<AUXILIARY VERB(SUPPOSITION):will, may>

ど【ど】〔接助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(CONJUNCTION):although, but>

…there may be good times and bad times for [watching] each flower every Spring, and yet

あひ【相】〔接頭〕<SUFFIX(MUTUALITY):each other>

みる【見る】〔他マ上一〕(み=未然形)<VERB:meet, encounter>

む【む】〔助動マ四型〕推量(め=已然形)<AUXILIARY VERB(SUPPOSITION):will, may>

こと【事】〔代名〕<PRONOUN:the act of -ing, the fact that…>

は【は】〔格助〕<POSTPOSITIONAL PARTICLE(SUBJECT)>

いのち【命】〔名〕<NOUN:life, the act of living>

なり【なり】〔助動ナリ型〕断定(なり=連用形)<AUXILIARY VERB(CONFIRMATION)>

けり【けり】〔助動ラ変型〕過去(けり=終止形)<AUXILIARY VERB(DISCOVERY):I found out>

…the fact that we [flowers and viewers] can meet each other [again this year] is the proof that we are both alive [although we don’t know for how many more years]

《haru gotoni hana no sakari wa arinamedo ai mimu koto wa inochi narikeri》


■人生の浮き沈みに一喜一憂するのに忙しい人には、見えない詩■

 詩の中には、万人の心に訴えるものもあれば、(多くの新古今短歌がそうであるように)一部の選ばれた人々に対してのみ訴えることを目論むものもある。中には、若い頃には君を置き去りにしたまま、君もまた「わけわかんなぃ、こんなの関係ないゃ」と感じて放置したまま、後々の人生で再び目の前に現れて、全くの新顔なのに不思議と馴染みのある面影の古い友人に出会った感覚を与えるものもある ― これはそういうの詩である。若者がこの詩の真意を理解しようと足掻くのは(まぁ、いくらあがいても無理なんだけど)あまり意味はないが、若い当時の無理解も、後年になってからその真の意味を改めて味わう際には良い隠し味になるだろうから、将来再び巡り合う時のために、記憶のどこかに刻み込める程度まで、じっくり何度も口ずさんでみるとよいだろう。

 たいていの人々にとって(若者のみならず老いたる者のほとんどにとっても)この詩の前半部は自明の理を並べ立てているばかりに見える ― 春毎に花の盛りは有りなめど(はるごとにはなのさかりはありなめど) ― 文字通り解釈すると、当たり前すぎて散文で述べるにも値しない文言に思われる ― 「花の盛りは毎年あるけれど」・・・うん、あるよね、それで?

 それからこの詩はこう言うのだ ― 「相見むことは」 ― ここで君は考える ― 「=お互い」って、誰? ひょっとしたら「花と我」かもしれないし「花見る我ら」かな?・・・オッケー、ここまでの解釈は順調だ。

 が、最後に「命なりけり」という唐突な言い回しがこの詩を締めくくった時点で、君はぽかんと取り残される。結句「命なりけり」と直前の「相見むことは」を論理的に意味のつながる形で結び付けるにはどうしたらいいものか、途方に暮れてしまうのだ・・・「花と私がお互いを見るという行為・・・こそが命」なのか?・・・「あなたと私が花を見て楽しむ行為・・・こそが命」なのか?・・・どちらも何ともあり得ない響きである。この詩は、「花や人々や出来事との出会い、それこそ人生」と言っているのか? あるいは「良き友と共に、あなたと私、花を見る、それこそ人生」ということか?

 こうした当惑に陥った時点で、たいていの読者は、この奇妙に首尾一貫しないままの詩の解釈を諦める・・・が、執拗に解釈努力を続ける者だけは、「命なりけり」という謎めいた言い回しの意味を論理的に解明する手がかりはないものかと探し回る。後半部には何の手がかりも見つからない以上、前半部で述べられた当たり前すぎる陳腐な「春毎に花の盛りは有りなめど」を再検討すべき頃合いのようだ。

 なぜこの詩人は「花」そのものではなく「花の盛り」と言うのだろう? ちょっと考えてみるとよい ― 「花の盛り」を君が意識するのは、いつか? 答えは「盛りを過ぎたその後」である・・・だが、この事実は「すでにもう盛りを過ぎた」人々にしか見えない。今が人生の真っ盛りの人々は、この事実に気付かない。そう、この詩人自身、すでにもう盛りを過ぎている人なのである ― 男性か女性か、いずれにせよこの人はもうその人生の一番良い時期を、過去に体験して、今はもう失ってしまった人なのである。そんな詩人の眼前に展開する景色もまた、桜の花が散り始めている(ひょっとすれば風に舞って空を飛んでいるか地面を真っ白い雪のようなじゅうたんで埋め尽くしている)春の終わりの頃合いである。

 というわけで、この詩人は、花の盛りが過ぎ行くのを嘆いている・・・が同時にまた花の盛りは来年の春には再び戻ってくることを知っている ― 希望に満ちた繰り返しの「春毎」の言い回しがその証拠である。今年の桜の花盛りはすでにもう過ぎ去ってしまったけれど、来年また新たな春が巡ってきたなら、再び詩人の目を楽しませてくれることだろう・・・その時この詩人がまだ生きていて、新たな花とともに新しい春を迎えていればの話だが・・・これでおわかりだろう、カギを握るのは「命なりけり」なのだ。我々が、花と私が、いずれも存命なればこそ、我々は今年お互いに巡り合えた。我々がいずれも存命であれば、来年も再び会えるだろう・・・その翌年も・・・そのまた翌年も次の年も、何度でも何度でも、我々がいずれも生きてこの世に存在し続ける限りは、ずっと・・・だが、永遠に、というわけには行かない。我々が生きている間のみ、である ― 「命なりけり」 ― カギを握るのは、命、なのだ。

 花の散るさまは当然のごとく我々を悲しませるが、「春は再びやって来る」と考えると、将来の新たな出会いに期待が持てるし、我々がお互い生きていたからこそ可能になったかつての出会いにもまた感謝の気持ちが湧いてくる。繰り返し言うが、こうした考え方は、人生の真っ盛りを謳歌するのに忙しすぎて自分が今まさに人生の高みに身を置いていることを知らない(そしていつかはその高みから自分もまた落っこちるのだということも知らない)人々には無縁のものだし、生きる上での身過ぎ世過ぎに忙しすぎてその生き様が永遠に続くわけがないことに気付かない人々にとっても余所事の考え方である。すでに人生の盛りを過ぎた人だけが ― これから年月を重ねるにつれて自分の人生は概してだんだん落ちて行くと知っている人だけが ― この詩の正しい味わい方を知る人であり、春ごとに巡り合う新たな花をその都度新たな興奮をもって迎える喜びを真に知る人である・・・桜への熱愛や春を待ち望む気持ちの高まりは、老境の最も顕著な兆候なのである。若い連中が桜の木の下で熱狂するのは、酒を飲み過ぎて酔っぱらっているだけ、花の運命に一喜一憂したり春との巡り合いに感動しているわけではないのだ。

 時が経てば、花はしぼみ、それを見守る人間たちもまた老いて行く。それはもちろん悲しいことではあるけれど、花との出会いの喜びも、散り行く花を見送る悲しさも、いずれも「我々が ― 花も、人も ― 生きている」からこそであり、「命」あることの証拠である・・・君が今まさに「命の真っ盛り」にあって生きることに忙しすぎるなら、この詩は余所者のまま、それでよいであろう・・・やがて年老いてから、奇妙に懐かしい新たな友人として再びこの詩に巡り合う、その日まで。

「英語を話せる自分自身」を自らの内に持つということは、「さやかさん/冗悟サン」みたいな会話相手が隣にいるみたいなもの。
実際の会話相手の提供はしませんが、「さやかさん/冗悟サン」との知的にソソられる会話が出来るようにはしてあげますよ(・・・それってかなりの事じゃ、ありません?)
===!御注意!===
現時点では、合同会社ズバライエのWEB授業は、日本語で行なう日本の学生さん専用です(・・・英語圏の人たちにはゴメンナサイ)